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イスラエルの歴史は背信とその結果としての災いの歴史でした。しかし、その災いの中にも悔い改める者に対する憐れみの約束が含まれていました(レビ26:40 〜45)。ソロモンが献堂の祈りの中で求めたのはこの約束でした。
ダニエルも捕囚の民の一人でした。彼は民の罪を告白し、神の憐れみを求めて、ソロモンの祈りの言葉を用いました(ダニ9:4〜19)。ソロモンは祈りの中で何度も神に赦しを求めています。彼は「天に向かって祈る者はみな赦しを必要としていることを認めていました。……ソロモンは、祈る者の最も強い願望が罪の赦しであること、祈りが答えられる望みは、ひとえに罪を赦したもう神の恵みにかかっていることを知っていました」(『SDA聖書注解』2巻766 ページ)。
神の民が赦しを必要としなくなる時があるでしょうか。「完全主義」の教理は人を益するものではありません。高慢か失望かのどちらかに導きます。「反完全主義」もまた悪魔的です。僭越の罪に導き、甘いうぬぼれにつながるからです。
イエスに近づけば近づくほど、神の民は自分自身の罪深さと絶えざる赦しの必要とを感じるようになります。私たちが神の品性をあらわし、神の戒めに従うとき、それに比例して自分自身の罪深さと、私たち自身の義でなく神ご自身の義にもとづいて赦してくださる神の必要を認めるようになります。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(ロマ3:21、22)。
◆私達が神に受け入れられる根拠はキリストの義だけです。神に受け入れられるという点で祈りはどんな重要性を持ちますか。
*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。