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現代社会は一瞬にして堕落する危険性を持っています。今日の社会に見られる様々な害悪は汚染された空気のように、私たちの心や家庭のドアや窓のすきま、ひびの間から忍び込んできます。私たち自身がこの罪の世界にあるために、こうした堕落的な傾向の真の姿をなかなか理解できないのが現状です。それらはしばしば教会さえも侵害してゆきます。
初期のキリスト教会にも異教的な慣習や信仰が静かに侵入しました。「異教の習慣は、目につかないほど少しずつキリスト教会の中にはいってきた。教会が異教から激しく迫害を受けていた間は、一時妥協と迎合の精神は抑えられていた。しかし迫害がやんで、……世俗が信心深い様子をして教会内にはいってきた」(『各時代の大争闘』上巻44 ページ)。
イスラエルの王アハブは偶像教徒であったシドンの王の娘イゼベルを妻にしましたが、この結婚は神の民とこの世の妥協を意味し、やがて不幸が全体を覆いました。このような結合は必ず背信につながります。神は今も、妥協の流れを食い止めるエリヤのような人物と改革の祈りを必要としておられます。
カナンは罪に満ち、征服されるべき時期に来ていました。ところが征服するはずのイスラエルが同じ偶像礼拝に陥りました。彼らは軍事的に戦いに勝利しましたが、心の戦いに敗れました。イスラエルとユダが北と南に分裂したとき、イスラエル王国のヤロブアムは民がユダ王国内のエルサレムに行って礼拝することのないように、自国内で金の子牛を礼拝できるようにしました。北王国はその後、敬神の王は現れず、民も堕落的な偶像礼拝を続けました。
シドンの最高神官であった王の娘イゼベルは残忍な女で、夫アハブと北王国に対して絶大な影響を与えました。彼女はサマリアにバアルの神殿を建て、バアルとアシェラの宗教を広めるための学校を創り、その予言者たちを援助しました。彼女はまた多くの主の預言者を殺しました(列王上16:32、18:4、19 参照)。
バアル崇拝は彼らにとって魅力的でした。祭司、神殿男娼・娼婦、礼拝者たちは酒と踊りに熱中し、神々の名において性的乱交を行いました。農耕型のイスラエルは豊かな収穫を得るためにこうした宗教儀式と周辺民族の習わしに従う必要があると考えました。
列王記上16章は暗い言葉をもって終わっていますが、17章は希望の言葉をもって始まっています。「エリヤは神の緊急の使命を帯びた者として登場します。状況は危機的でした。罪が国を侵害し、阻止しなければ、やがてすべてを悲劇的な滅びに飲み込んでしまう有様でした」(『SDA 聖書注解』2巻811 ページ)。
◆現代社会の危険性の一つは、自分自身がその中に浸って自分を見失う危険で、教会も社会の中の一部です。受け入れるべきことと排除すべきことをどのように見極めたらよいのでしょうか。
*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。