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ヒゼキヤの祈りは次の点を強調しています。
(1)神の臨在についての深い意識——「ケルビムの上に座しておられる」(イザ37:16)。「私たちは祈るとき、神が私たちと共におられる、神のすぐそばに自分がいる、神の御名によって嘆願するとき私たちは天使たち以上に神のみ前にある、と感じることが最も大切です」(『プルピット・コメンタリー』10 巻29 ページ)。
(2)神を敬う態度——「あなただけが……神であり」(16節)。私たちは友達と語るように神に祈ることができます。しかし、私たちが祈るのは天の国王、唯一にしてまことの神、無限にして永遠なるお方であることを決して忘れてはなりません。
(3)神の力への全的信頼——「あなたこそ天と地をお造りになった方」(16 節)。「私たちのためにしてくださる神の力を疑うことは……神に苦痛を与え、私たちの祈りを無効にします」(同上)。
(4)神が私たちに関心を寄せておられるという確信——「イスラエルの神」(16節)。「私たちが神の深い関心の対象であること、つまり神が私たちをいつも御心にかけておられること、神が私たちの現在の幸福と将来の祝福のために働いておられることを理解するのは、神の御心にかなったことです」(同上)。
(5)無欲の精神——「わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主であることを知るに至らせてください」(20節)。ヒゼキヤはユダの運命を心にかけていましたが、それ以上に、神の栄光が現されることを心にかけていました。
イザヤ37:36〜38にはアッシリアへの神の刑罰が書かれています。
◆困難に直面したとき、あなたはまず何をしますか。困ったときだけ神を求める傾向があるのはなぜですか。困難に直面したときこそ与えられた祝福のゆえに神を賛美すべきではないでしょうか。
私たちの神は今日でも罪と危機から救い出してくださる偉大なお方です。私たちはヒゼキヤとユダの民が直面したような苦難と試練に遭い、窮地に追い込まれて神に救いを祈り求めることがあります。結果がどうであろうとも、私たちは神の救出、導き、助けのあらゆる過程で神のみ名に栄光があるように祈りましょう。
「ユダのためと、最高の支配者であられる神の栄誉のためのヒゼキヤの嘆願は、神のみこころにかなっていた。ソロモンは神殿を捧げた時の祝祷において、主が『主の民イスラエルを助けられるように。そうすれば、地のすべての民は主が神であることと、他に神のないことを知るに至るであろう』と祈ったのである(列王記上8:59、60)。特に主は、戦争の時や敵軍の侵略を受けたときに、イスラエルのつかさたちが祈りの家に入って救いを請い願うときに、神は恵みをほどこされるのであった(同8:3 3 、3 4 参照)」(『国と指導者』上巻323 ページ)。
*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。