イエスと共に座す【祈り:イエスの言葉を聴く】#46

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19 世紀、中国への宣教師となったハドソン・テイラーは、病気、迫害と戦いながら中国各地にキリストを宣べ伝えました。キリストと交わるとき、彼の重荷は軽く思え、キリストから離れるとき、自分は空気なしに水中に潜っているダイバー、また水の出ないホースを持って燃えさかる建物の中にいる消防士に等しいと感じました。彼は親しい友人に書いています。「私は尊い主に距離をおいて従っていたことをいつも後悔しています。自分がどんなに悪い心を持っているかを私は知らなかったのです」。信仰に悩む彼を変えたのは「主はぶどうの木、私たちはその枝」という思想でした(水曜日の学び参照)。キリストのそば近くあることがあまりに尊いと感じた彼には、キリストから少し離れることも、主のみ顔が見えないことも耐えられない苦痛でした。今回はキリストにつながる、キリストのみ声を聞く、キリストにあって実を結ぶことの意味を学びます。

イエスは最後の時間をご自分の弟子たちとの親しき交わりのうちに過ごされました。祈りはただイエスと語り合うことだけではありません。祈りはイエスが私たち一人ひとりに教えようとしておられるそのみ声に耳を傾けることでもあります。

弟子たちと最後の夜を過ごされたイエスはどんな励ましの約束を語られましたか。

ヨハ14:1〜4

ご自身が飲むべき苦難に直面しているとき、イエスは弟子たちを覆う暗い闇を追い払おうとされました。イエスが実際に言われたのは「神に信頼しなさい。そして、わたしにも信頼しなさい」ということでした。この「信頼しなさい」(believe in Me)という表現はヨハネの福音書だけに見られます。イエスに信頼するとは知的な信仰以上のものを意味し、主と親密な関係に入ること、主と一つになることを意味します(ヨハ17:20、21)。このような関係に入るとき、イエスに耳を傾けるための時間を持つことが私たちの第二の天性となります。

日常の思い煩いに私たちの心が振りまわされていれば、イエスに信頼することはできません。イエスに信頼することがなければ、イエスに耳を傾けることも不可能です。

主の在世当時のユダヤでは男女が婚約すると、男性は女性の父の家に行き、その敷地に婚約者のために家を用意するという習わしがありました。家ができ上がると、彼は婚約者をその家に住まわせました。イエスはこの婚約の愛の言葉を弟子たちに当てはめられたのです。彼はご自分の花嫁である教会のために場所を用意するために天の父の家に行かれ、やがて花嫁を迎えに来られます。

「こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハ14:3)。

婚約者から離れている間、花嫁になる人はいつも婚約者のことを考えています。イエスの来られるのを待つ私たちも同じです。心が本当にイエスに向いていれば主のみ声が聞こえます。

*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。

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