時が来ました【イエス:大祭司の祈り】#51 

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かつて天と地は一つでしたが、罪が両者を引き離しました。サタンの目的は神と人の離反、夫婦、家庭、教会、民族、国々などの関係を破壊することです。ヨハネ福音書には天と地、神とサタン、光と闇、命と死、真理と偽りというような対照の言葉や表現が多く出てきます。神性と人性を備えたイエスが来られたのは天と地を近づけ、彼が私たちの大祭司となり、再び神と私たちを一つにするためでした。今回、ヨハネ17章にあるイエスの祈りを学び、神との会話にどんな意味があるのか、私たちに何を教えているかを考えましょう。

十字架の前夜、イエスは11人の弟子たちを祈りによって力づけようとされました。この時、主はご自身のために祈り(ヨハ17:1〜5節)、次に弟子たちのために祈り(6〜19節)、最後にすべての信者のために祈られました(20 〜26 節)。

キリストの「時」が来ていました。この「時」は、世界が創造される以前から計画されていたものでした。彼は地上生涯を通してご自分の「時」を予期しておられました。キリストにとってその死の時は栄光の時でした。キリストは父なる神の栄光をあらわし、父なる神はキリストの栄光をお現しになるのでした(ヨハ17:1)。

「栄光」と「一粒の麦の死」、「上に上げられる」と「すべての人を引き寄せる」との関係を考えてください。

ヨハ12:23、24、31、32

十字架は栄光とはほど遠いものに見えます。その時、イエスは人間としての尊厳を奪われ、ご自分が救うために来られた人々によって辱められました。しかし、信じがたいことですが、十字架はイエスにとってこの上ない栄光と喜びに満ちた時でした。この栄光は、イエスと父なる神が世界を創造する前に持っておられ(ヨハ17:5)、また自己犠牲の愛という栄光でした。イエスは十字架の苦しみの後に来る大いなる結果を予期しておられました(イザ53:10、11)。

十字架の残酷な死を目前にしてのイエスの喜びの理由は何でしたか。

ヨハ17:24

信仰によってイエスは時間と空間を超越されました。彼は現在のやみの中に未来の栄光を見通されました。主は地上のやみを越えて、父なる神のみもとに行くことがおできになりました(ヨハ17章)。イエスは私たちにも、ご自身を通して「父のもとに行く」ように招いておられます(14:6)。私たちは、「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づ」くことができます(ヘブ4:16)。

*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。

*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。

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