「父よ、彼らを守ってください」【イエス:大祭司の祈り】#53

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世を去るイエスの最後の関心は誰のことでしたか。

ヨハ17:11

イエスは去ろうとしており、彼は弟子たちを父なる神の守りにゆだねます。……弟子たちは邪悪な世に残され、罪との戦いにおいて特別な恵みを必要としました。クリスチャンはみなこの守りの力を要求することができます。神は彼らを耐えられないような試練に遭わせられません(Iコリ10:13)。天の力と光によって戦うかぎり、彼らはサタンの攻撃に対して難攻不落ですが、神に守られることを選ぶ者たちだけを神はお守りになります。神の勧告に反して故意に自らを敵の領域に置く者は、神の力によって守られることを期待することができません

『SDA 聖書注解』5巻1052 ページ

私たちは超自然的な悪の勢力が常に働いているこの世に生きています。私たちは弱い人間であって、自らの力や世俗的な武器をもって悪の勢力と戦うことはとても無理です。自分自身の力でサタンと戦うのは、おもちゃのパチンコで戦闘機を打ち落とそうとするようなものです。私たちは天の力、神の力に頼る必要があります。祈りは、キリストと同じように神の力を受ける最良の方法です。

「人としてキリストは、人性と神性とを結合する天来の電流によって、ご自分の人性が充電されるまで、神のみ座に嘆願された。世の人々にいのちを与えるために、イエスはたえまないまじわりを通して神からいのちを受けられた」(『各時代の希望』中巻101 ページ)。私たちは祈りの生活を通して自己犠牲の愛という力を充電され、額にみ名が書かれ、顔は栄光で輝くようになるでしょう。 イエスは弟子たちのうちに教会の種をごらんになりました。教会は時代を超えて全世界に広がり、数え切れない大群衆となり、御座の前で神の救いをほめたたえるようになるのでした(黙示7:9、10)。それはイエスの喜びでした。彼はヨハネ17:13で、私たちもこれと同じ喜びに満ちあふれるようにと祈っておられます。そのためには、ぶどうの枝が木につながっているように、私たちも神につながっている必要があります。そのとき初めて、私たちは神の御名の力、神に仕える喜びを体験することができます。

*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。

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『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
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