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紀元62年のローマ、暴君ネロ即位す。ローマ王宮は悪徳、陰謀(いんぼう)、殺人で満ちていましたが、町はずれの一軒家に一人の囚人が鎖につながれ、護衛に守られて座っていました。そこに数人の親しい人たちが訪ねて来ては彼を励まし、彼の話に耳を傾け、彼の書いた手紙を帝国内の各地にいる信者のもとに携えていきました。
だれもが想像するのは、暗い顔つきで自分の運命を呪い、処刑の不安に苦悶している人間の姿でしょう。しかし、そこにはキリストにあって生き、喜ぶように他のクリスチャンたちを励ます使徒の姿がありました。キリストの救いと恵みを感謝しつつ祈っている信仰の人の姿でした。
何という光景! 何が起こったと言うのでしょうか。エフェソ1:15〜23、3:14 〜20 を読んでください。教会のために祈ったパウロの祈りがその答えを与えてくれます。
使徒時代のキリスト教会は私たちの理想と考えている人がいますが、実は今日の教会とそれほど違っていたわけではありません。エフェソの教会にも問題がありました。「テモテへの手紙」を読むと、エフェソ教会には偽教師、背教者、怠け者、おしゃべりがいたことがわかります(I テモ1:6、7、20、5:13)。パウロはエフェソの長老たちに「残忍な狼ども」が教会に入り込んで群れを荒らすと警告しています(使徒20:29、30)。エフェソ教会は異端を徹底的に排斥したために、逆に愛のない教会になりました(黙示2:1、2、4、6)。このような経験は教会にありがちです。パウロはエフェソへの手紙の中で、理想的な教会の姿について描写しています。
逮捕され、2年間監禁された後、パウロはローマ皇帝に裁判を要求し、囚人としてローマに送られます。その後さらに2年間、彼は護衛の兵士に鎖でつながれたまま軟禁されます。それは年老いた使徒につらい経験でした(フィレ9、10)。彼はネロの前で裁判を受け、無罪となりますが、のちに再逮捕され、投獄され、最後には斬首されます(『SDA 聖書辞典』「パウロ」の項参照)。
いつ死刑になるかもしれない状況の中にあって、パウロはなおもキリストにあって地上の事柄から天上の世界に心を向けています。彼は自分の運命を嘆くどころか、神が豊かに与えてくださる富を思って大いに喜んでいます。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(I テモ2:24 ——㈼ぺト3:9、エゼ33:11、マタ11:28、黙示22:17、ヨハ3:16 参照)。
*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。