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エフェソ2:1〜6を読みましょう。神はキリストを甦らせ、神の右に引き上げられました。神は罪に死んだ私たちを甦らせ、神の王座に着かせてくださいます。
罪に死んでいた私たちを復活させるためには、私たちの罪のために死なれたキリストを復活させたと同じ力が必要です。罪の死から復活する私たちは「新しく創造された者」(II コリ5:17)です。
天においてイエス・キリストと共に座に着くとはどういう意味でしょうか。それは私たちが彼と共にその王座に着くという将来の特権をさすのですが(黙示3:21)、実はここにも将来の祝福が霊的なかたちで現世にもたらされるという、いわゆる「現在形の終末論」の実例が見られます(第10 課参照)。
パウロの体は牢獄の中で専制君主ネロによる裁判を待っていました。しかし、彼の心は天におけるあらゆる霊的な祝福のゆえに神を賛美していました(エフェ1:3)。
人から贈り物をもらったとき、自分はその人にいくら借金をしたことになるかと考える人はありません。ところが多くのクリスチャンは、キリストの救いを受けた後で借りを返すのに何かしなければならないと思っています。パウロは神の「限りなく豊かな恵み」(エフェ2:7)について語っています。このような賜物を受けるに値するような功績は人間のうちには何一つありません。贈り物を頂いたときと同じく、私たちのすることはただ一つ、喜んでそれを受け、感謝し、証しと奉仕の働きによって主の恵み、贈り物を人々に分かち合うことです。
◆あなたは救いは功績なくして得られた賜物であること、救いに行いの必要のないこと、すべてが恵みであることをどのように理解していますか。
*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。