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パウロは聖書に見られる崇高な祈りをもって理想的な教会についての幻を終わっています。神の家族について述べた後(エフェ2:11 〜22)、彼は魂を注ぎ出し、神が教会のために大いなる業をなしたもうように嘆願しています。
「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」(エフェ3:14)。ユダヤ人は立って両手を広げ、手のひらを上に向けた姿勢で祈るのがふつうでした(マコ11:25)。しかしパウロのこの祈りはふつうの、または一時的な感情や思いに駆られた、偶発的な祈りではありませんでした。教会に対する彼の願いは熱く、切実なものであったので、彼は厳粛な思いをもって神の前にひざまずいて祈りました。
パウロは、聖霊とイエスが私たちのうちにお住みになることを述べています。主はこのことをヨハネ14:16 〜18、23 で約束しておられました。神の力は私たちの呼吸の一つひとつ、鼓動の一つひとつの中に絶えず働いていますが、パウロは聖霊が私たちの「内なる人」のすべてに浸透してくださるように求めています。そのとき私たちは「力をもって強められ」るのです。
この力を受けるためには、第一に樹木のように愛に根ざした深い根、建築物のように堅固な土台を持つ必要があります(エフェ3:17)。第二に、「すべての聖なる者たちと共に」この力にあずかる必要があります。私たちは個人としてこの力にあずかるのではなく、信徒の集団である教会全体として与えられ、経験するのです。
聖霊を体験するとき、私たちはキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがわかってきます。「神は、その独り子をお与えになったほどに」は神の愛の長さです。「世を愛された」は神の愛の広さです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで」は神の愛の深さです。「永遠の命を得るためである」は神の愛の高さです(ヨハ3:16)。
「エフェソの信徒への手紙」に記録されているパウロの偉大な祈りは、教会が主の血、息、命を持つキリストの体そのものであることを教えています。主の体の一部、主の教会の一部になるということは人類に与えられた最大の名誉、特権です。
*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。