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ヨハネの時代、征服された王は征服者の足元に自分の王冠を投げ出して服従を表しました。ローマの軍隊はいつも皇帝の像を携え、他国を征服したとき、その像の前に敗北のしるしとして王たちに冠を投げ出させました。私たちのあがない主は、恵みによって私たちの魂を征服されます。私たちは完全な服従のあかしとして主のみ前に冠をおいてイエスの弟子となるのです。
神の創造は驚異です。それは広大な宇宙から原子の複雑な世界にまで及び、美しい日没や優美な花々も神による創造です。神の子らは自然の中に父なる神の愛のしるしを読み取ることができます。
しかし多くの人は神よりも自己を高めようと望みます。彼らは人間を礼拝の中心に置こうとしますが、自分たちの人生から神を締め出すとき、その生きる命もまた意味を失います。人生は偶然の産物、つまり原子が偶然に集まって、何の目的もなく宇宙にまき散らされてできたと思えば、そこには何の希望もありません。社会学者ピーター・バーガーは言いました。「われわれが何の意味もなしに、遠く離れた宇宙の一隅にひとり寂しく取り残されているとしても別におかしくはない」(『天使のうわさ話:超自然の再発見と現代社会』33 ページ)。
これとは対照的に、私たちが宇宙の孤児ではなく、神のかたちに、神との永遠の交わりのために、神によって特別に創造されたと信じるのは、何とすばらしいことでしょうか。
◆神を信じない友人は人生の意味をどのように語るでしょうか。クリスチャンである私は信仰がもたらすすばらしい喜びと希望をどのように語るでしょうか。
*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。