礼拝の影響力【礼拝の主】#55

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霊と真理をもって神を礼拝するとき、私たちは個人的な変化を体験します。聖なる神の御前に立ちながら、変えられないということはありえません。

初期のクリスチャンが礼拝のために集まったとき、どんなことが起こりましたか。彼らの礼拝はどんな影響力を持ちましたか。

使徒2:46,47

まことの礼拝は私たちに個人的な感化をもたらします。詩編作者は次のように言っています。「主の家に行こう、と人々が言ったとき わたしはうれしかった」(詩編122:1)。「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます」(同16:11)。霊と真理をもって神を拝むとき、私たちは喜びに満たされます。異常な興奮や過度の感情に流される危険もつねにありますが(一部の礼拝に見られるように)、その一方で、霊も真理もない、冷淡で生命のない礼拝に陥る危険もあります。

礼拝が個人的な信仰の表現であることは言うまでもありませんが、聖書は共同体としてささげる公同の礼拝について語っています。たとえば、ペトロとヨハネが牢獄から解放された後でささげられた礼拝は、初期のクリスチャンにどんな感化を与えていますか(使徒4:24 ~ 31)。このことから公同の礼拝の持つ意味に関して何を学ぶことができますか。

礼拝によって喜びに満たされた初期のクリスチャンは、大胆に神の言葉を語る準備ができていました。彼らはほかの人たちの信仰とあかし、神への愛の表明によって力づけられ、励まされました。私たちもそうあるべきです。私たちは信仰と希望、愛を分かち合うことによって、互いに励まし合うのです。公同の礼拝は私たちを神に、また相互に近づけ、キリスト、しかも十字架につけられたキリストの福音を宣べ伝える意欲で満たしてくれます。そのような経験をもたらさない礼拝は真の礼拝ではなく、単なる形式的な礼拝です。

◆ 真の公同の礼拝のあるべき姿について、あなたはどのように考えますか。

礼拝と十字架―新約聖書の中から、十字架上のキリストの死についての聖句をいくつか選び出してください。キリストの死と赦しについて瞑想し、感じたことを書いてください。主が赦しの意味を十分に理解させてくださるように祈ってください。そのとき、私たちは主を礼拝したいという望みに満たされるはずです。キリストの十字架以上に、私たちが神を礼拝すべき理由はほかにないからです。

永遠にわたって神を礼拝することは、贖われた者たちの特権となります。私たちはあらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に属しています。私たちの文化的背景は異なっていても、その礼拝は美しい賛美の調べとなって響き渡ります。「救われた諸国の民が『安息日ごとに』よろこびの礼拝をもって神と小羊を拝するとき、天と地は声を合わせて賛美するのである(イザヤ書66:23)」(『各時代の希望』下巻294 ページ)。

*本記事は、聖書研究ガイド2005年第3期『主イエスを体験する』からの抜粋です。

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