イエスの模範【奉仕の主】#56

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僕となるー私たちがイエス・キリストを救い主また主として受け入れるとき、キリストは私たちに対して御自分に従うように招かれます。これは、世が考えるような偉大さへの招きではありません。むしろ、それは奉仕への招きです。自分を無にして僕の身分となられたキリストの心を持つようにという招きです。弟子たちと同様に、私たちもしばしば名誉と権威を求めたがります。しかし、キリストは言葉と行いにおいて、私たちに優しく言われます。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」(マタ20:26)。

私たちはまず第一に、私たちの主また救い主イエス・キリストに、それからイエスの御名において人々に仕えるように求められています。私たちが仕えるのは、強制されてではなく、私たちを愛し、私たちのために御自身をささげられたキリストへの愛からです。このような奉仕だけが、真にキリストに受け入れられるもの、神と人に対する愛の心から出たものです。

この出来事[イエスが弟子たちの足をお洗いになったこと]に言及しているのは使徒ヨハネだけです。マタイもマルコもルカも、ペトロもパウロも、全くそれに触れていません。しかし、この出来事はイエスの品性について多くのことを教えてくれます。

二階広間でのイエスのこの行いは、御自身が仕えられるためではなく仕えるために来られたことをどのように示していますか。

ヨハ13:1 ~ 15

洗足式は、クリスチャンが救い主また主イエス・キリストに対する信仰によって霊的に清められる必要があることを再確認する機会です。イエスもはっきりと次のように言っておられます。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」(ヨハ13:10)。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(ヨハ13:8)。

しかしながら、洗足式はイエスを私たちの救い主また主として再確認する機会であるばかりではありません。それは奉仕の行為でもあります。イエスは弟子たちのために、また私たち一人ひとりのために、完全な奉仕の模範を示されました。御自身は座って、ほかの者に弟子たちの足を洗わせることもおできになりましたが、イエスは自らへりくだって、僕となられました。

イエスが喜んで仕えようとされたことはどんな出来事からも明らかですか。次の聖句は奉仕についてどんなことを教えていますか。

マコ1:32 ~ 34

ルカ9:12 ~ 17

ヨハ2:1 ~ 12

イエスは言葉と行為によって、御自分が仕えられるためでなく仕えるために来られたことを示されました。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とのお言葉は、奉仕の生涯への招きにほかなりません。

◆ 最近、見返りを期待しないで誰かのために奉仕したことがありますか。

*本記事は、聖書研究ガイド2005年第3期『主イエスを体験する』からの抜粋です。

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