心得違いの奉仕【奉仕の主】#60

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たとえイエスの御名による奉仕であっても、私たちのイエスとの関係を妨げる場合があります。イエスとの関係は人々に奉仕しようとする動機の中心・基礎です。このことを理解していないと、さまざまな問題が生じます。心が高慢になり、自分たちが救われ、神に受け入れられるのは善行のゆえであると考えるようになるかもしれません。あるいは、人々への奉仕に没頭するあまり、イエス御自身と交わる時間がなくなることになります。

イエスがマルタの家を訪問されたときの出来事の中に、心得違いの奉仕の実例を見ます。多くの点において、マルタは献身の模範です。彼女はイエスを神の御子、キリストであると信じていました(ヨハ11:27 参照)。先の見通しがつかないときにも、なお信頼しています(ヨハ11:21、22 参照)。ところが、ここでは彼女は奉仕に没頭するあまりイエスとの関係を妨げられています。

「イエスへの奉仕」に没頭したことが、マルタ自身にも、彼女のイエスとの関係にも影響を及ぼしたのはなぜですか。

ルカ10:38 ~ 42

マルタは思い悩んでいました。ここで用いられているギリシア語動詞は強い意味を持ちます(英語欽定訳は「苦労の多い」と訳しています)。パウロは同じ動詞を用いてフィリピの信者に「思い煩うのはやめなさい」と勧めています(フィリ4:6)。ペトロはこれを名詞として用いて、すべての心配事・思い煩いを主にゆだねるように訴えています(I ペト5:7)。しかし、マルタは心配事を引きずり、心は分裂と動揺、葛藤で満ちていました。

マルタはまた混乱していました。ギリシア語動詞は外面的な興奮を暗示します(英語欽定訳は「苦しんでいた」と訳しています)。マルタは内面的に動揺していたばかりでなく、外面的にも興奮していました。イエスのための彼女の奉仕は見当違いのものでした。その結果、イエスの足もとに座って、親しく交わる代わりに、彼女はイエスに次のように訴えます。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(ルカ10:40)。

◆ 人々への奉仕によってイエスとの関係が妨げられないようにするために、どうしたらよいですか。主のための奉仕でも、私たちの主との関係が妨げられるべきでないのはなぜですか。

クリスチャンがイエスの御名によって人々に奉仕するときに直面するもう一つの危険は、ほかの人と競合することです。つまり、自分自身をほかの人と比べたり、自分の奉仕をほかの人の奉仕と比較したりしがちになることです。この問題に関して、ルカ9:49、50、コリントI の1:11 ~ 13 を読んでください。イエスの教えと使徒パウロの態度からどんなことを学ぶことができますか。

マタイ25:31 ~ 46 に記されているイエスの教えは、人々への奉仕がクリスチャンの信仰経験の重要な指標であることを暗示します。羊と山羊を分けることについてのこの記事は、人々への奉仕にかかわっていない人たちが永遠の裁きを受けることを暗示します。救いが信仰を通して恵みによって与えられるという真理に関連して、これらの聖句をどのように説明したらよいのでしょうか。奉仕の業は救いに必要なのでしょうか。天国に入るためには、飢えた人々に食べさせ、裸の人に着せ、病人の世話をする必要があるのでしょうか。

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*本記事は、聖書研究ガイド2005年第3期『主イエスを体験する』からの抜粋です。

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