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ほとんど2000 年前、黙示録の最後の部分で、復活された私たちの主は、「然り、わたしはすぐに来る」(黙22:20)と宣言しておられます。それ以来、クリスチャンはこの宣言の意味をめぐって苦闘してきました。しかし、私たちの見るかぎり、主はすぐには来られそうにもありません。もちろん、主が死すべき人間のように時間に拘束されるお方ではないことはわかっています。使徒ペトロも次のように言っています。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(Ⅱペト3:8)。
主と時間に関するペトロの上記の言葉について考えてください。これらの言葉は私たちをどんな過ちから守ってくれますか。
永遠という意味では、主イエス・キリストはすぐに来られます。しかし、私たちはしばしば[証しのゆえに殺された]祭壇の下の魂と共に次のように叫ぶのです。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」(黙6:10)。
マタイ24:45 ~ 51 にあるたとえを読んでください。イエスがここで教えようとしておられる基本的なメッセージを要約してください。このたとえが私たちアドベンチストにとって非常に時宜を得たものであるのはなぜですか。
再臨の遅れに関して、教会の中に長らく議論が続いています。本当に再臨は遅れているのでしょうか。遅れているとすれば、なぜでしょうか。遅れていないとすれば、なぜキリストは来られないのでしょうか。おそらく、この世にあってこの問題を完全に理解することはできないでしょう。大事なのは、いつキリストが来られてもよいように、常に準備をしておくことです。
◆ もしだれかから、再臨の準備をするとはどんな意味かと尋ねられたなら、あなたは何と答えますか。もしキリストが明日来られるとしたなら、あなたは準備ができていますか。
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*本記事は、聖書研究ガイド2005年第3期『主イエスを体験する』からの抜粋です。