この記事は約2分で読むことができます。
黙示録12:10 とゼカリヤ3:1 ~ 5 を読んで、大争闘におけるもう一つの争点を見いだしてください。
神は正義を貫く神であると同時に罪を赦す憐れみの神であることができるでしょうか。これらの特性は相容れないものなのでしょうか。もし神の御心に従うことが神の被造物の幸福に欠かせないものであるとするなら、神の御心に背いた者たちに憐れみを与えることは不公平になるのではないか――ルシファーは罪人に恵みと赦しを与える神の権利を疑いました。
罪が神にとってどれほどの板ばさみであるかは容易に理解できます。神は罪を犯した人間を変わりなく愛しておられます(ホセ11:8)。しかし、もし聖なる神が罪人を赦すなら、聖なる神はどのようにしてなおも聖であり続けることができるのでしょうか。
マルティン・ルターは夢を見ました。彼は神の裁きの座の前に立っています。サタンもルターの数々の罪を記した長い巻物を広げて立っています。告発者サタンは神の前に次のように訴えます。「この男は天国に入ることはできない。彼は数え切れないくらい律法を破った。彼は死に値する。彼は忠実で従順な者たちだけに許された天国に入ることはできない」。そのとき、ルターはサタンに巻物から手をどかすように頼みます。サタンは拒みます。ルターはもう一度頼みます。サタンは再び拒みます。そこで、ルターはこう言います。「イエス・キリストの御名によって命じる。お前の手をどけなさい!」。サタンが手をどけたところには、次のように書かれていました。「イエス・キリストの血がマルティン・ルターをそのすべての罪から清める」。
ここに十字架の秘められた計画、つまり神がどのようにして正義と憐れみを両立させることがおできになるのかについての、秘められた計画があります。神は十字架において罪に対する正義の怒りを注がれました。これが神の正義です。しかし、神は刑罰を受けるべき私たちの上にではなく、イエスの上に神の怒りを注がれたのです。これが神の憐れみです。
\ 心のサプリのシリーズ別アーカイブはこちら /
*本記事は、聖書研究ガイド2002年第1期『キリストとサタンの大争闘』からの抜粋です。