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私たちのための神の御業を理解し、受け入れ、聖霊の助けによってそれを自分に対する神のお働きとして理解するとき、私たちは神を畏れるようになります。神を畏れるとは、神を崇め、敬い、忠実に神に従い、その御心に全的に献身することです(申命4:10参照)。
神に栄光を帰するとは、神をほめたたえ、神を崇めることです(詩115:1、イザ42:12、Ⅱペト3:18、ユダ25 参照)。
「宇宙の創造主は真実にして唯一の礼拝の対象である。いかなる人間も、いかなる天使も礼拝を受ける資格がない。礼拝は神だけに与えられた大権である。創造主であるということは、偽りの神々とは対照的に、真実の神を区別する特徴の一つである(エレ10:11、12)。創造主なる神を礼拝するようにという訴えは、第一天使のメッセージが宣布された後の時代にあって、特に時宜を得たものとなった。なぜなら、進化論が急速に広まっていたからである。さらに、万物の創造主としての天の神を礼拝するようにという訴えは、神の創造の御業のしるしである主の安息日にしかるべき注意を払うように教えていた。……もし安息日が神の意図された通りに守られていたなら、それは不信仰と進化論に対する大いなる防壁となっていたことであろう」(『SDA聖書注解』第7巻828ページ)。
◆ 神は自分の力を誇示しようとして私たちに礼拝することを命じておられるのではありません。礼拝は私たち自身の祝福のためです。その祝福がどんな内容のものか考えてみましょう。
悪魔の存在におびやかされる心配はありません。神は全知全能の方です。神の救いを経験をしていることは、神からの信頼を私達がいつも受けているということです。自分の神に対する信頼はいつもゆらぐことがありますが、神があくまでも真実な方であり、神の用いられる武器は恵みと愛である故に、私達は安心して前進できるのです。
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*本記事は、聖書研究ガイド2002年第1期『キリストとサタンの大争闘』からの抜粋です。