アダムとエバ【戦いが地上に移る】#16 

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偽りの勢力と救いの勢力―創世記1、2章には、人間に対する神の御心が美しく描かれていますが、3章の出来事は、あたかもナイフで名画を切り裂くように、この田園詩的な光景をズタズタにしています。怒り、ねたみ、高慢、不従順、恥辱、罪悪が、平和、調和、無我の精神に取って代わります。それまで見られた言葉、思い、行為はもはや見られなくなります。「神が人間を人格者として創造されたとき、人は善の源となるはずであったが、それが今、悪の源となった」(ローレンス・O・リチャーズ『教師の注解書』32 ページ)。

このときから、偽りの勢力と救いの勢力が地上の人間の心をめぐって戦っています。アダムとエバ、カインとアベル、ノアと洪水、バベルの塔は、この戦いの始まり、その根底にある争点、動機をよく例示しています。今週(#16~#20、テーマ:「戦いが地上に移る」)の研究を進めながら、偽りの勢力と救いの勢力があなたのうちにどのように働いているか、またどうしたら救いの勢力を選ぶことができるか考えてください。

神の律法は被造物全体を支配します。アダムとエバはエデンの園に置かれたとき、神の律法に従っていました。服従は創造主の第一の要求であり、被造物の最大の特権です。どちらも愛から出たものです。

人類の最初の親であるアダムとエバに神はどんなことを要求されましたか。この要求の本当の意味は何でしたか。

創世2:16、17

「人が神にかたどって造られたことから考えると、〔善悪の知識の〕木は必要であった。ロボットには道徳的な次元はない。それは製作者によって組み込まれたプログラムに従うだけである。ロボットには価値判断をする能力も、善悪を選択する能力もない。真に神に似た者となるためには、人間は道徳的な選択をする自由と選択をする機会とを与えられなければならない。その自由がいかに大きな危険を伴うものであっても、である」(リチャーズ『教師の注解書』32 ページ)。

◆ スコットランドの無神論者J・L・マキーは、もし神が全能なら、善なる決定しかできない自由人を創造すべきで、かつその自由も悪を犯す可能性を持たないものとすべきであった、と主張しています。彼は次のように述べています。「もし神が人間を、あるときは善を選び、あるときは悪を選ぶ者として創造されたのなら、なぜ人間をいつでも善を選ぶ者として創造されなかったのか」。この主張はどこが間違っていますか。もしアダムとエバが善なる決定しかできなかったとすれば、彼らは本当に自由な道徳的存在者であったと言えるでしょうか。

◆ アダムとエバに与えられたテストは、神に従い、正しい選択をするか否かということでした。主権者なる主に従うか強奪者なるサタンに従うか、また自己を捨てるか自己を神とするかということでした。

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*本記事は、聖書研究ガイド2002年第1期『キリストとサタンの大争闘』からの抜粋です。

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