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ダビデの生涯には浮き沈み、成功と失敗がありました。しかし、彼の最大の危機はバト・シェバとウリヤと主に対して罪を犯したときに訪れました。ダビデが犯した姦淫と殺人の罪は、神の御心にかなう者(サム上13:14)でさえ律法を守ることができないのだとサタンが主張する上でこの上ない機会を提供しました。サタンの歓喜は大争闘における神の立場に対する挑戦でした。しかし、神は次のように宣言されます。「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」(ロマ5:20、21)。
この詩編の中で、ダビデの経験は問題の中核に迫っています。すなわちダビデが神の前に悔いくずおれたということです。
「ダビデの心が正しくされたとき、赦しが与えられ、聖霊が再び彼の心を清めるためにお働きになることができた。彼が清められるとき、神はシオンと神のすべての民を祝福するためにダビデを通してお働きになるのであった」(ローレンス・O・リチャーズ『教師の注解書』236 ページ)。
私たちが清い心と確かな霊を求めるとき(詩51:12、口語訳51:10)、神の恵みを受け、勝利の歌を歌うことができるようになります。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(Ⅰコリ15:57)。
◆ 詩編51:12(口語訳51:10)をヘブライ語聖書で読むと、「神よ、わたしのために清い心を創造し」となっています。神によって清い心を創造していただけるよう祈りたいものです。
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*本記事は、聖書研究ガイド2002年第1期『キリストとサタンの大争闘』からの抜粋です。