放蕩息子【勝利の模範イエス】#40

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罪人に対する神の応答は、神についてのサタンの主張と正反対です。これらのたとえは、神がその大いなる愛のゆえに、ひとりの失われた人を救うために全天を捧げ尽くしてくださることを示しています。

放蕩息子のたとえは、息子の父親を通して神の愛を描写しているだけではありません。それはまた、人間が自らの失われた状態にどのように応答するかを描写しています。弟は何かを求めて罪の荒れ野に旅立っていきました。自己が彼の目標であり、自己過信が彼の神でした。このような生き方の行き着く先は「豚飼い」しかありません。そのとき、彼は父の愛を思い出して、家に帰る決心をします。

「放蕩むすこは、かつての落ちつかない若者だったときには、父親を厳格で恐ろしい人のように考えていた。ところが今は、その考えがなんと変わったことであろう。そのように、サタンに欺かれているものは、神を厳格苛酷な方のように思う。神は、罪人を厳しく見張っていて、責める方であって、真に正当な理由がない限り、助けを与えようともしなければ、迎えいれてくださらないものと、彼らは考える。また、彼らは、神の律法を、人間の幸福を制限するもの、重苦しいくびきとみなして、それからのがれようと望む。しかしながら、キリストの愛によって、目が開かれた者は、神があわれみ深いお方であることをさとる」(『キリストの実物教訓』184 ページ、『豊かな人生の秘訣』142 ページ)。

◆ 兄の場合も、自己がその目標、自己過信がその神となっていました。彼は「くれなかったではありませんか」(ルカ15:29)と言っています。彼は何年も父に仕え、従ってきました。そうすることで、父の歓心を買おうと考えたからです(28 ~ 30 節)。これは律法主義を表しています。このたとえによれは、真の勝利者は兄と弟のどちらでしょうか。

今週(#36~#40、テーマ:「イエスのたとえに見る大争闘」)学んだたとえ話の中に、私達の福音への応対が最後の結果に結び付いていく様子を見ることができます。種まきのたとえでは、受け入れる心の状態が問われます。麦と毒麦のたとえでは、福音を受けたように繕おうとする姿が問われます。ぶどう園のたとえでは、神の子さえも殺しかねない人間の罪の深さが問われます。婚礼のたとえでは、しがらみに囚われている姿が問われます。放蕩息子のたとえでは、兄の姿の中に見る独善性が問われます。あなたはどのように福音を今日受けとめておられるでしょうか。

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*本記事は、聖書研究ガイド2002年第1期『キリストとサタンの大争闘』からの抜粋です。

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