ベトサダの池で【イエスの奇跡と大争闘】#41 

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意味のある奇跡―奇跡とは人間の持つ限界のゆえに理解不可能な出来事を言います。それらは科学や自然界の法則を超越したもので、通常の物理現象では説明できません。

聖書はイエスが在世中になされた35の奇跡について記しています。それぞれの奇跡は特定の目的を持ち、サタンと死と罪に対するイエスの使命を遂行する上で重要な役割を果たしました。これらの奇跡はまた、善と悪の闘いが個人の生活と密接なところでなされていることを示しています。

今週(#41~#45、テーマ:「イエスの奇跡と大争闘」)は、特にイエスの5つの奇跡に焦点を当て、それらが人々にどのようないやしと命と真理をもたらしたかを学びます。奇跡はイエスの力と権威を例示していますが、同時に、人々を罪の結果から救うために父なる神から遣わされたイエスの使命を証ししています。インターネット、スペースシャトル、臓器移植の時代にあっても、人間は自分では自分を罪から救うことができません。

このいやしの奇跡からすでにイエスに対するユダヤの指導者たちの反感が急速に高まりました。イエスの立場は神の無限の慈愛をいやしの業に示すことでした。「わたしの父は今もなお働いておられる」(ヨハネ5:17)という言葉の真意を考えてみましょう。

この人の単純な生涯を考えてみます。38 年間も病気だった彼は、希望、家族、友人を含めてすべてを失っていました。彼は競争の犠牲者でした。というのは、池の水が動くと、いやしを信じる人たちが彼を押しのけて池に入ったからです。私たちと同じく、彼は自分自身の罪と人々の罪の結果に苦しんでいたことになります。

いやされた後で、この人はもう一度イエスに会います。そのときイエスは、「もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」(5:14)と言われました。この言葉から、いやされた人の病気が彼の悪習慣から来ているとも解釈できます。

こうして自分をいやしてくださったお方がイエスであることを知ったこの人は、ユダヤの指導者たちに自分をいやしたのはイエスだと話します。そのときのユダヤの指導者たちの反応は、その人がいやされたことを喜ぶのではなく、イエスの行動が安息日遵守の律法に違反するものだということでした。それに対してイエスは、安息日であってもわたしの父は働いておられる、だからわたしも働くのだと答えられます。この言葉は神を汚す言葉だとユダヤの指導者たちは主張し、イエスを亡き者にしようと策略をめぐらすのです。

◆ ユダヤの指導者たちは律法の擁護者を自認していました。しかし彼らの律法は神のみ心を表していませんでした。イエスの立場は彼らの律法を数段超える神の愛の律法でした。ここに私たちの立場があります。

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*本記事は、聖書研究ガイド2002年第1期『キリストとサタンの大争闘』からの抜粋です。

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