悪霊に取りつかれた人【イエスの奇跡と大争闘】#43

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この出来事(マタイ12:22 ~ 32)の中で、イエスに対するファリサイ派の人たちの非常に強い偏見が明らかになります。イエスが「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」をいやされたのに、彼らはイエスの力強いいやしの行為を神からの祝福とは見ないで、かえってベルゼブルの力に頼ってしたのだと非難するのです。このようなファリサイ派の人たちの反応は民衆が示した反応に応じたものでした。民衆はこの奇跡に「ダビデの子」すなわちメシヤの力を感じます。しかし彼らは、まさかこのイエスがメシヤであるはずはないと否定的な感情と、メシアであるかもしれないという感情の間に動揺しています。そこにファリサイ派の人たちが断定的な言葉を発します。「彼はベルゼブルの力を借りて悪霊を追い出したのだ」と。

イエスは毅然として神の霊による力強いいやしを主張されます。ここで大切なのは神の霊によるイエスの力強い悪霊の追い出しが神の国の到来を示しているということです(28 節)。

このたとえは、「28節に述べられている真理、つまり『神の国』が来ていること、またサタンの国が侵略されていることを強調している」(『SDA 聖書注解』第5 巻395 ページ)。

この章の中で、イエスは私たちに避けることのできない一つの選択を提示しておられます。キリストを選ぶことはすなわち王国に集められることであり、ベルゼブルを選ぶことはすなわち裁きによって散らされることです。私たちはみな大争闘に参加するのです。どちらの側にも立たない中立を唱えることは、自動的に、権利不履行によって、サタンの側につくことを意味します。これが自然の理というものです。

31、32節の赦されない罪が生じるのは、私たちが執拗にキリストを拒み、故意に御国の原則に反する選択をするときであり、罪を罪とみなさないときであり、自分の心をかたくなにして赦しの必要を認めないときです。

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*本記事は、聖書研究ガイド2002年第1期『キリストとサタンの大争闘』からの抜粋です。

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