人の子は必ず……【イエスの勝利】#46

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イエスが在世中になされたすべての御業は、父なる神の御心から出たものでした。罪をあがなうための御自分の死も、復活による死への勝利も、父なる神の御心であることを、イエスはよく知っておられました(マコ8:31、32)。あがないと勝利についてのこの幻のゆえに、イエスはサタンの頭を砕くという創世記3:15の約束の実現を予期することがおできになりました。

善と悪、キリストとサタンの間の宇宙的争闘は、十字架の上で決着することになっていました。この目標に向かって、イエスはひとりで、しかも不動の確信を持って、苦難に満ちたその旅を続けられました。最後には、御自身と御自身に従う人々が勝利することを知っておられたからです。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(マコ8:31)。ルカ24:7、ヨハネ3:14 も読んでください。

これらの聖句に共通して見られる言葉は「……になっている」(「……ねばならない」)です。人の子は渡され、十字架につけられ「ねばならない」のであり、人の子は多くの苦しみを受け「ねばならない」のでした。

人の子はなぜ、これらの苦しみを受け「ねばならない」のでしょうか。それは、キリストの完全な生涯とあがないの死によってのみ、堕落した人類は罪のもたらす滅びを免れるからです(ロマ6:23)。

神は一つの律法を持っておられますが、その律法が破られました。正義の神は、正義であるために、違反者たちを処罰しなければなりません。しかし、この正義の神は同時に憐れみの神であって、その憐れみのゆえに、御自身と同等のイエスを、人類の身代りとなって聖なる神の義なる怒りを受けるために死に渡されました。イエスが死な「ねばならない」のはそのためでした。

この十字架において、神の義は十分かつ完全に満たされました。十字架がなければ、人類の運命は動物と変わらないものとなっていたことでしょう。いや、それ以下のものとなっていたかもしれません。なぜなら、人間は動物と異なり、永遠なるものや天国、この世で経験することのできない事柄を頭に思い描くことができるからであり、それらが思い描くだけで実現しないとなると、ますます欲求不満に陥るからです。人の子が苦しみを受け、死な「ねばならない」のはそのためでした。もしイエスが死んでくださらなかったなら、私たちは永遠(天国)を思い描くだけで、実際にそこに住む望みは与えられなかったことでしょう。

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*本記事は、聖書研究ガイド2002年第1期『キリストとサタンの大争闘』からの抜粋です。

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