この記事は約2分で読むことができます。
「こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように』」(マコ14:36)。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブ5:7)。
再び、美しい園が真理と虚偽、善と悪の戦いの場となります。しかしながら、エデンの園とゲッセマネの園との間には大きな違いがありました。その違いとは何でしょうか。
ゲッセマネでのイエスの祈りを瞑想しましょう。イエスはこの祈りの中で何を願っておられたのでしょうか。血の汗をしたたらせるほどのイエスの苦悩を私たちはどのように受けとめたらよいのでしょうか。
イエスは地上生涯における最大の試練に直面しておられました(マコ14:37~50)。しかし、弟子たちは眠っていて、イエスのために祈ることができませんでした。当然、目覚めたときにも、イエスを力づけることなどできません。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(50 節)。
ここには、完全で愛に満ちた神とは対照的な、弱い人間の姿が現されています。ユダはイエスを裏切り、弟子たちは眠り、目覚めたときには逃げ去り、群衆は夜のうちにイエスを捕らえます(この中には宗教指導者たちもいました)。言い換えるなら、これらはキリスト教神学の基本とも言うべき罪深く、弱く、眠く、貪欲な、すぐに逃げ去る人間の弱々しい道徳的状態をよく現しています。これらは、聖にして自己犠牲的なイエスの愛とは対照的です。
\ 心のサプリのシリーズ別アーカイブはこちら /
*本記事は、聖書研究ガイド2002年第1期『キリストとサタンの大争闘』からの抜粋です。