主は復活された【イエスの勝利】#50

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サタンとその同盟者たちは、ローマ人がイエスの墓を封印したときにイエスの使命も終了したと考えました。しかし、サタンの考えはむなしい期待に終わりました。罪人のための場所である墓は、「罪を犯したことがな」いお方にとってどんな力を持つというのでしょうか(Ⅰペト2:22)。「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」(使徒2:24)。コルク栓で火山の噴火を抑えることができないように、サタンはイエスを墓に押し止めることができませんでした。

カルバリー以降、サタンは執拗に、イエスの十字架と復活がなかったと人々に信じさせようとしています。人間の知性はこれらの事実を否定します。理性はこれらの事実を理解するにはあまりにも未熟で不完全です。科学はそれらを実証することができません。しかし、イエスがトマスに言われたように、「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハ20:29)。

霊的な事柄は霊的に理解されます。私たちは真の信仰によって、感覚を超えて、「成し遂げられた」と言われたお方がまた復活されたお方である事実を理解することができます。

「キリストを死人の中からよみがえらせたのと同じ力が、教会をよみがえらせ、これに『すべての支配、権威、権力、権勢……また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名』にまさって、キリストと共に栄光をさずけるのである(エペソ1:21)」(『各時代の希望』下巻319 ページ)。

「わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ロマ6:4)というパウロの言葉にはとても重い意味があります。キリストを受け入れて、私たちは「新しい命に生きている」のです。このことは不思議なみ摂理によって、この世に、今の時代に、生を受けた私たちにとって、人生の転換点となる宣言です。

十字架は私達に対する神からの最高で究極的な答えです。十字架のキリストを見上げるとき、神の本質がわかるのです。「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(Ⅱコリント2:2)とパウロは述べました。

「われわれは、キリストの一生について毎日瞑想する時間を持つがよい。イエスの一生の要点を一つ一つとらえ、各場面ことに最後の場面を想像のうちにとらえるべきである。このようにして、われわれのために払われたイエスの大犠牲を心に思いめぐらすとき、キリストに対するわれわれの信頼はもっと堅固になり、われわれの愛はめざめさせられ、われわれはもっと深くキリストの精神を吹き込まれる」(『各時代の希望』上巻80 ページ)。

あなたは十字架をいつも見上げています。キリストの精神があなたの中に深く吹きこまれています。あなたの教会はこのキリストの精神がみなぎっていますか。キリストの十字架が私達クリスチャンの真の原動力となっていますか。

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*本記事は、聖書研究ガイド2002年第1期『キリストとサタンの大争闘』からの抜粋です。

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