自尊心の回復【健全な精神と感情―心が愛で満たされるとき】#9

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低すぎる自尊心

子どもの頃から、グレッチェン(仮名)は自尊心の問題を抱えていました。それでも彼女は有能で、勤勉で、愛想のいい人だったのです。大学時代、彼女はいつも良い成績で、卒業すると大きな保険会社に就職し、その後しばらくして自分で代理店を設立しました。

操業後ちょうど一年して、グレッチェンは文書業務の補助員を雇いました。彼女が選んだアンジー(仮名)は、あらゆるオフイス・ワーク技能検定試験で高得点を獲得し、コンピューターが得意で、すごく自信に満ちているようでした。最初、アンジーはとても時間に正確でした。ところがまもなくすると、時折二〇分遅れて出勤するようになり、そのうちもっと頻繁に遅刻するようになりました。また彼女は、多くの時間を個人的な電話に用いるようになり、仕事がおろそかになっていったのです。グレッチェンは非常にイライラしましたが、率先して自分の期待をアンジーに伝えることはせず、その代わりに自分を責めていました。自分が良い上司であると思っていなかったからです

グレッチェンの問題の原因は、自尊心の低さにありました。グレッチェンは上司であり、アンジーに対する彼女の期待はもっともなものであり、アンジーの不適切な行為を叱る権利が法的にも倫理的にも彼女にはあったのです。しかし、それについて何もしませんでした。グレッチェンは否定的な感情が生じるままにし、問題が自ずと解決するのをただ願っただけなのです。それでも結局、一人の友だちとの長い会話のあと、グレッチェンは自分が気にしていることについてアンジーと話しました。その友だちが、友好的ではあるけれど毅然とした態度でアンジーに向き合う方法を教えてくれ、頑張り抜くよう励ましてくれたからです。しかし、その会話によって仕事場の問題は解決したものの、グレッチェンの自尊心の低さという問題は解決されませんでした。そちらの解決は、専門家の助けを得るまで続いたのです。

不安そうに鏡に映る自分を見ている男性

自尊心が不充分だと、人間関係、学業の成績、職業上の機能などが悪化します。さらに、自分自身を常に疑うという心理的な不愉快さを味わうことにもなるのです。これは一方の極端な場合で、他方の極端な場合として、人為的に慢心するようになった自尊心は社会的な交流をひどく疎外するとともに、聖書によれば不道徳と見なされています。私たちの才能とか性質を公正かつ適正に分析できる充分な自尊心があれば、理にかなったバランスのとれた行動をすることができます。

ある人たちは他の人たちよりも充分な自尊心を持ちやすい傾向がありますが、私たちの自尊心の大部分は、私たちの外界からの影響によってもたらされます。実際、自尊心は私たちが持っている一番影響されやすい特性の一つなのです。

私が心理学の学生であった時、ある人が今日の大学の倫理委員会ではおそらく許可されないような研究に取り組んでいました。それは、口頭で言った言葉が自尊心に与える影響を解明するための研究でした。この研究はペアになった若者たちを観察することでなされました。それぞれのペアの一方の人は研究チームの一員、すなわち「サクラ」で、もう一方の自主的参加者は、わずかな実験参加料を支払われた学生で、彼らは実験の意図を知らされていませんでした。

自主的参加者は「心理テスト」──実際には、自尊心のテストですが──を受けるように求められ、サクラたちも同じ目的のためにそこにいるふりをしました。待合室で試験待ちをしている時、サクラはペアを組んでいる自主参加者を褒め上げるか、あるいは、その学生自身や彼(彼女)の考えに対して皮肉や侮蔑的なコメントを言うことになっていました。研究者が確認したことは、自尊心テストにおける自主的参加者の結果にサクラの仕業が明らかに影響している、ということでした。

だれもが、叱られたり、褒められたりすることによって、時には劣等感を抱いたり、また時には自分自身に陶酔したりします。こうして人々は、ある時には無意識のうちに、またある時には故意に、他の人たちを向上させたり、傷つけたりしているのです。お互いに対する発言が大きな影響力を持っていることに気づいていたパウロは、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(エフェソ四の二九、傍点著者)と戒めています。この聖句が、他の人たちよりももう少しほめられる必要のある、たぶん生来、不安を感じやすい人たちがいる、と見なしている点に注目してください。私たちの目の色とは異なり、自分自身に対する感じ方は、さまざまな内的・外的な出来事や経過を経験するにつれて変わり続けます。そのことを認識しつつ、人々の自尊心が養われるさまざまな方法を吟味していくことにしましょう。

自尊心に影響するもの

人生初期の経験

人の自尊心の核となるものは、就学前、及び学齢期に形成されるということは広く知られています。この年代の子どもたちは、自分について多くを知らないので、自分自身の才能を見つけることや、自分と他の人たちを比べること、人々が自分について何と言っているのかを聞くことに熱心です。両親、教師、友人、近所の人たちは、子どもたちの自尊心の形成に大きく関係しています。「いつも部屋をきれいにしているね!」とか、「のんびりやさんね。いつもそうなんだから!」といった評価は、影響力があります。子どもたちがこの時期にある時、私たちは、彼らに適正な自己概念を持ってほしいかどうか、また彼らに何を価値あるものと考えてほしいかを、決めなければなりません。

学齢期の子どもたちを使ってのさまざまな研究では、自尊心を養う特徴は一番目に容姿、二番目に社会的受容や人気、三番目に学校の成績、四番目に行儀、五番目にスポーツやゲームの能力、といった結果になっています。身体的に魅力のあることが最も影響力を持っているというのは、興味深いことではないでしょうか。私たちには顔かたちを変える力はほとんどありませんが、生来、魅力的な人が、好ましい容姿に恵まれていない人よりも賞賛され、より大きな自尊心を持つようになることは、よくあることです。このリストにはたった一つの性格特性、行儀が含まれていますが、最後から二番目であることにも注目してください。他の人たちへの思いやりとか、イエスへの愛といった特性は、明らかに報いられていないということです。神が正当な自尊心として理解しておられるものと、世間が理解しているものとの間には、違いがあるのです。

メディア 

人々が、テレビ番組、映画、インターネット、広告板を見るとき、彼らは、社会が価値を置いているものを目にします。外見が真っ先に来ます。男女のモデル、広告主、有名人たちは、社会が最も価値を置くものを決定し、私たちが可能な場合、その標準に達しようとするのを私たちに任せます。それに達する人たちは勝ち組と見なされ、達しない人たちは負け組と見なされるのです。

「いいね」や「通知数」などの数字が映し出されている画面

大抵の場合、金銭も価値を決定するもののパッケージに組み込まれています。お金は、デザイナーブランドの服、高価な自動車や住宅、洗練された職場環境を入手可能にしてくれるので、人々の尊敬をもたらします。

メディアは力も称賛します。著名で影響力のある映画スターであれ、その人の言っていることを誰もが受け入れねばならないほど尊敬されている科学者であれ、力を持っている人は高く評価されます。この人たちのような力がないから自分は失敗者だ、と思っている人がたくさんいますが、それは不幸なことです。

他の人たちからのメッセージ 

ある人たちは、私たちの周りにいる人々のことを「(私たちの)自尊心を映し出す鏡」と呼んでいます。この人たちが私たちに対して、また私たちについて言うことやその言い方が、私たちの自尊心を高めたり、低めたりするのです。しかし私たちにも影響力はあり、私たちのほとんどは、家族、友だち、知人について、あるいは彼らのしていることについて論評するとき、彼らの自己概念にどれくらい大きな影響を及ぼしているか、理解していません。

スペインのマドリッドにある母の住まいの近くにおられる中年の御夫婦を訪問した時のことを、私ははっきり覚えています。米国で教育心理学の博士号を得て帰国し、初めての専門的な仕事に就いたばかりのことです。その御夫人は最近アドベンチストになられ、母が教会でその方の友だちになっていたということで知り合いになりました。

この方の御主人は宗教には関心がなく、最初の挨拶も終わり、おしゃべりに花が咲き始めるとすぐに、「それで、新しいお仕事の収入はどれくらいですか」と、彼は聞いてきたのです。

一言ここで言っておかなければなりませんが、ちょっとした知り合いからのこういった問いかけは、はしたなく聞こえるかもしれませんが、スペインの文化圏では、この手の質問はごく当たり前のことで、特に年長の人ほどこういうことを尋ねます。そういった場合、答えるのが適切なことなので、私は、自分の給料がいくらなのかを告げました。

すると彼は、人を見下したような口調でこう答えたのです。「米国まで行って学位を取ったというのに、それだけしか稼いでいないとは、信じられないですね!」

ぶしつけな質問はさておき、彼の価値体系が私の体系とはまるで違っているということは、明らかでした。そこで私は、お金が必要なことはわかっているけれども、それが最も大切なものだとは思っていないし、奉仕や満足や個人的な成長を、従事している仕事の大切な報酬と考えているんだ、と言って説明しました。彼の顔の表情から判断すると、彼は私の価値観を理解していない様子でした。彼はすぐに話をやめて、家のお決まりの用事に取り掛かったのでした。

私は彼を少しも尊敬していませんが、彼の質問は私の心を揺さぶりました。私はあまり稼いでいなかったので、自分が出来損ないのように感じたのです。彼は私の自己概念をへこませたのです。しかし、当時骨董店を営んでいた彼は、そのモットーも、人生哲学も、基本理念も、「安く買って、高く売りつける」──これ一つでした。金銭以外のものに、彼は価値を見いだせたでしょうか。しかしそうは言っても、彼の言葉で私の自己概念は傷つきました。私の専門分野で高給の仕事を見つけることはなかなかできなかったでしょうから、この気持ちが一日か二日で薄れたのは良いことでした。

業績が悪化して頭を悩ましている男性

個人の業績 

これは、自尊心の成長と保持に密接に関連するもう一つの領域です。より多くの業績を上げ、より大きな価値を業績に置くほど、私たちはより大きな自尊心を覚えるものです。ところが、これも客観的な尺度ではありません。極めて個人的な評価なのです。私はこれまでに、優秀な成績を取り、質の高い仕事をし、すばらしい音楽を演奏できるのに、自分自身を劣っていると見なす若い男女に会ってきました。彼らは自分たちの真価を認めていませんでした。その中のある者は、このような歪曲した見方をしていましたが、その理由は、過去に深く根ざした問題によって自分たちの価値を認めることができなくなっていたからです。他の者は、自分たちに与えられている賜物ではなく、他人が持っている賜物を欲しがるという単純な理由から、自分たちは欠けていると思い込んでいました。

いずれにせよ、多くの肯定と多くの祈りによってのみ、彼らはより良い見方を獲得できるのです。

神のみかたちー人類の起源―

聖書には、私たちの価値を測るための異なった尺度や、私たちの自尊心に対する異なった価値が示されています。箴言をざっと見ていくと、神は私たちの魅力、所有物、業績に価値を見いだしておられないことが、明らかになります。それよりも、むしろ箴言は私たちの価値を、知恵、神への従順、純潔、勤勉、正義、他者への配慮、正直、善行、喜び、節制、謙遜、誠実、公正といったものに結びつけています。これらは、自尊心の源になるべきだと聖書が考える特質なのです。

人類の起原は、私たちの価値を明確なものにしてくれます。聖書は、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記一の二七)と伝えています。人間は創造主のかたちにかたどって、神に似たものとして創造されました。人間は申し分ない身体を持つ高度に知的な存在として創造され、霊的な力、発達し続ける能力を授けられました。罪の出現によって、私たちのものであった無限の可能性が断ち切られたことは事実ですが、たとえ限られたものであっても、私たちの内になお創造主の痕跡が存在していることも事実なのです。

その跡は今日でも目にすることができます。邪悪なこの世において、憐れみ深い人たちが心を動かされ、大きな損失をこうむっても他の人を助け、悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶ者と共に喜び、良いものを愛し、罪とその結果を憎んでいます。罪によってゆがめられた人間のこういった行為の源は、何なのでしょうか。どうやら私たちはまだ神のかたちを有していて、敬虔な行為をするようにという促しを感じるらしいのです。これは進化論者を最も戸惑わせる考えの一つです。一体どうして見返りを求めずに知らない人に他愛的な行為をするのでしょうか。これは適者生存の観念とは相容れませんが、ご自分の善良さと品性を被造物に初めにお与えになった愛情溢れる創造主との関連において、大いに合点が行くのです。そしてこれらの特徴は、被造物の中になおも留まっています。

車椅子に座っている男性に飲み物を配るボランティア

人間は創造主に似せて造られたということに加えて、地を支配し、人間家族に幸福をもたらすために賢く資源を運用する権威を授けられました。このことは、地球を管理するために神が私たちめいめいにお与えになった信頼、すなわち私たちの自尊心を高めるもう一つの特権です。残念ながら、私たちは充分にそれをなしてこなかったとはいえ、神がお与えくださった力と権威を今なお保持していることを思い出す必要があります。その力と権威とは、自尊心の優れた源なのです。

人間の起源は神にあります。私たちは宇宙を統御される神のかたちにかたどって造られました。罪は私たちを損ない、創造当初のかたちを傷つけましたが、それでもなお私たちには神の痕跡があります。しかもこれだけでなく、創造主は、私たちが救いを受けるにふさわしい者、また永遠にわたって成長していく可能性のある者だと考えておられるのです。これらのことこそ、社会が掲げている根拠よりもはるかに優れた自尊心の根拠なのです。

私たちが自分自身の中に見るもの

人々は自分自身について間違った見方をすることがよくあります。私たちは自分の長所と短所を正確に評価できないので、このことが問題を起こしがちです。我が家の犬のベニーは、自分の大きさを間違うことがよくありました。小さい犬なのに、とりわけある状況に置かれると、とても大きいと思い込む傾向があったのです。その状況とは、わたしの家族の誰かがベニーの近くにいて、ベニーが自由に走り回っている大きな犬を見た時でした。ベニーはその大きな犬に近づき、後足で立ち、その大きな犬の頭の側面に前足をのせ、ほとんど鼻と鼻を突き合わせてうなり声をあげるのです。大きな犬たちは鷹揚かつ寛大で、ほとんどの犬がベニーを無視していました。ところが、ある大きな犬はベニーを攻撃し、ベニーの肩に傷が残りました。

小さな犬が大きな犬に喧嘩を売っている画像

聖書は、自分の賜物を正確に評価しなかった人たちについて記しています。モーセの例を挙げましょう。彼は充分な訓練を受け、鍛えられていましたし、何よりも、主が彼を支えておられました。しかしそれでもなお、自分自身に大きな不安を抱いていたのです。彼は、ファラオの所に遣わさないでください、弁が立つ方ではないので代わりに誰か他の人を見つけてください、と神に願い、「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行(か)……ねばならないのですか」(出エジプト三の一一、四の一〇も参照)と言いました。逆の形でイエスは、自己認識がやはり誤っている、と弟子たちにこう警告せねばなりませんでした。「自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか」(ルカ六の四二)。

このように、自分自身の中の悪いものを見ることができない人もいれば、その一方、モーセのように自分の中の良いものを見ることができない人もいるのです。しかし、それらは確かにあるのです。イエスは律法を要約された時、第二に大事な戒めは自分自身を愛するように隣人を愛することである、と言われましたが(マタイ二二の三九)、そこには、自分自身に妥当な量の愛を注ぐべきだ、という意味が含まれています。あらゆる良いものの源であるお方を終始覚えつつ、私たちは良くなされた仕事や自分の中にある良いものには、満足を感じるべきなのです。これは極めて重要な点であって、この源なるお方を拒絶したことが、サタンを間違った道へと進ませてしまったのでした。

私たちは自分の技術や能力、特徴、性格、外見などを判断する際に、よく勘違いします。そしてこのことには、いずれかの極端へ走る深刻なリスクが伴うのです。私たちは自信に欠けているために、あるいは自信過剰で神の祝福を受けることがないために、神がお許しになる挑戦に立ち向かわないかもしれません。この両極端を回避するために、私たちは神と絶えず交わり、信心深い態度を継続的に維持しなくてはならないのです。

他者の目に映るもの

サムエルがイスラエルの新しい王に油を注ぐためにエッサイの家へ行った時、すぐさまエリアブの身長と容姿が彼の目に留まりました。サムエルはその若者の容貌から、エリアブが次の王になる人であるという結論を下しました(サムエル上一六の六)。私たちは目の前の人の外見から強い先入観を抱きやすいものです。

サムエルは偉大な預言者であり、非の打ち所のない裁き司であり、高潔な品性の持ち主であり、人々への影響力はサウル王より勝っていました。サムエルの忠実さは生涯の最初から続いていた、と記録されています。しかしそれにもかかわらず、この件において彼は世の中の規準を用いてしまったのです。そこに彼の間違いがありました。ホワイト夫人はこう書いています。「エリアブは、主をおそれなかった。もしも彼が王位に召されたならば、高慢で過酷な支配者になったことであろう」①

神に召された人が他者を判断する際に間違うのであれば、普通の人が大きな誤ちを犯すのは避けられません。そういうわけで聖書は、人を裁いてはならない、と繰り返し説いているのです。パウロは私たちに、キリスト・イエスにある信仰を通して、神の子らはみな、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女も(ない)」(ガラテヤ三の二八)ことを学ぶべきだ、と教えています。各時代を通じて全人類の生来の傾向となっている偏見を、神はここで具体的に禁じておられます。偏見は人々の自尊心を破壊します。先入観によって判断することは、人々が各自の能力を発揮する公正な機会を与えられないということなのです。

私の家族は三つの大陸の四つの異なる国に住み、働いています。これらの場所でかなりの時間を過ごしてきたにもかかわらず、私たちは偏見の犠牲者になったことはありません。ただし、一つの例外を除けば……。私たちがある国に到着して直ぐのこと、車を購入し、即保険に加入するため、保険代理店に自動車免許証やパスポートのコピーなど必要な書類を預けました。翌日、保険代理店から電話があり、保険の申し込みは受け付けられなかったと言ってきたのです。それからその人が、もしかして家内が私のようにスペインのパスポートを持っていないかと尋ねてきたので、私たちが問い詰めると、その人は、アメリカ人は調停を好まない場合、訴訟に持ち込みやすいので、保険会社はアメリカ人を保険に加入させない方針なのだ、と説明したのでした。

神の目に映るもの

子どもたちに対する神の観点は、社会が重要だと考えている価値とは異なる価値に基づいています。社会は、貧しい人たち、教育を受けていない人たち、違った慣行を持つ民族グループや少数派の宗教グループの一員、あるいは悲劇的な出来事を経験した人たち、虐待された人たちが、自分を無価値な者だと考えるように強要します。ルカによる福音書一五章は、神がどんなものや人に価値を置いておられるかを明らかにしている貴重な箇所です。この章における三つの物語、失われた羊、失われた硬貨、失われた息子には、共通したテーマがあります。それは、人目につかない、不利な条件に置かれている、顧みられない、良くない、取るに足りないものへの神の関心というテーマです。世間の期待からはずれていると感じる者は誰でも、世間から劣っていると見なされる者が、神と天使の特別で親しい配慮を享受できるということを思い出すべきです。この三つの物語の中で主人公たち──羊飼い、女性、父親──は、有利な立場に置かれているものよりも、失われたものをずっと気にかけています。そして、その失われたものが見つかると、全宇宙が喜ぶのです。

小さな子どもを抱きしめる母親

神は個々の被造物──私たちすべて──の中に、驚くべき可能性をご覧になっておられます。神は私たちを孤軍奮闘の状態に捨て置かれず、「あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう」(詩編三二の八)とのお約束どおりに、導き、守り、助けの手を伸ばしてくだいます。神は私たちをとても愛しておられるので、御自分の「瞳」(詩編一七の八)のように大切にしたいと願っておられるのです。

新しい人

使徒パウロは読者に、「神にかたどって造られた新しい人を身に着け」(エフェソ四の二四)なさいと勧めています。新しい人とはどういう人なのかということについて、人々の意見は異なります。

最近のことですが、私は以前の学生との再会のため、自家用車でウッドランド・ヒルズへの道を西に向かって進み、ロサンゼルスに差しかかろうとしていました。その辺りはよく知らなかったので、目的地をカーナビで設定し、最短のルートを選びました。カーナビに従ってインターステート高速道路を降り、ヴェンチュラ通りに向かいました。このルートは時間がかかりましたが、車窓の景色はおもしろいものでした。運転しながら、通りを歩いている人たち、さまざまな店舗や会社を見ることができたのです。その地域の人々がひいきにしているサービスが垣間見えたのですが、床屋、衣料品店、美容歯科と形成外科、特別装飾品店、外車展示場などが、やたらと多いように思いました。ハリウッド周辺に住んでいる人々は、他の人たち以上に外観と印象を大事にしなければいけないのだなと、私は結論づけました。

それとは対照的に、パウロが書いている新しい人というのは、神の方法で築かれた自尊心を持って生まれた人です。聖書に描かれている規準によると、物が私たちをさらに美しくすることはありません。むしろ、品性が真の美しさと自尊心をもたらす鍵なのです。エフェソの信徒への手紙四章二五節から三二節には、神が重要であると見なされる行動が列挙されています。神が私たちに望まれるのは、次のようなことなのです。

・周囲の人たちに対して正直で真実であること。

・かんしゃくを起こすことなく、もしいらだつことがあれば、すみやかに事態の解決を図ること。

・困っている人たちと分かち合うことができるよう、一生懸命に働き、充分なものを得ること。

・語ることによって人を向上させること。

・聖霊を悲しませないこと。

・無慈悲、喧嘩、中傷など、あらゆる悪い行為を捨て去ること。

・人に親切にし、憐れみ深く、赦すこと。

神も、霊的に賢い人間たちも、このような行動や資質が真の価値を持っていると考えるのです。もし自尊心に関する問題を抱えているならば、あなたの起源、つまりあなたが神のかたちに創造されていることに思いを馳せてください。あなたに対する天命、つまりあなたが恵みによって救われていることをじっくり考えてみてください。そうして、「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価」(ローマ一二の三)できる知恵を与えてください、と神に熱心に求めるのです。

参考文献

①     エレン・G・ホワイト『人類のあけぼの』下巻311頁( 昭和46年)。

*本記事は、フリアン・メルゴーサ『健全な精神と感情──心が愛で満たされるとき』からの抜粋です。

著者:フリアン・メルゴーサ博士
ワラワラ大学教育心理学部学部長。スペインのマドリッド出身。マドリッド大学で心理学と教育学の研究をし、アンドリュース大学院から教育心理学で博士号を授与される。スペイン、英国、フィリピン、米国において、教育者、カウンセラー、行政家として奉仕。フィリピンの神学院アイアス(The Adventist International Institute of Advanced Studies)元学長。精神的・霊的健康に関する主な著作に以下の書がある。Less Stress (2006),  To Couples (2004), For Raising Your Child (2002), Developing a Healthy Mind: A Practical Guide for Any Situation (1999). 最近の学術論文に以下のものが含まれる。‘An Adventist Approach to Teaching Psychology’ (70-4, 2008) Journal of Adventist Education.  ‘Professional Ethics for Educational Administrators’(66-4, 2004) Journal of Adventist Education.

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