自然〜神様からの贈り物〜【健康な精神と感情ー心が愛で満たされるとき】#12

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罪と人間の介入

フィリピンに住んでいた頃、この国の自然の美しさを楽しむ機会が多くありました。水に囲まれ、一年の半分以上の間、定期的な大雨に恵まれているので、島の植物は繁茂しています。しかし私は、環境汚染の結果をしばしば思い知らされたのでした。

私は、世界総会が経営するマニラ近郊の大学、アイアス(The Adventist International Institute of Advanced Studies)で働いていました。そこではアジアの教会が必要とする大学院レベルの教育を行っています。大学の施設は優れたマスタープランに基づいて拡充されていました。ですから芝生は生き生きとし、同じ形状の上質な建物の間に成熟したココナツの木がうまく配置され、美しい景観が広がっています。しかし、一つの環境問題が進んでいました。近くの町のゴミ捨て場が、大学の敷地の東側、川一本隔てたところにあったのです。

廃棄物が集められ、仕分けられ、そのうちの有機物質が新鮮な土で毎日覆われていたなら、そのゴミ捨て場は十分管理された場所になっていたことでしょう。ところがそうではなく、混ざったゴミが単に積み上げられていくだけで、それ以上の処理は何もなされていなかったのです。その結果、鼻をつく臭いが漂い、ハエがやたらと飛び交い、ゴミから出るメタンガスが発火する時の煙が立ち昇っていました。

学長としての責任上、私はこの問題を深刻に受け止め、現場の清掃人から国の環境・天然資源大臣に至るまで、あらゆる方面の関係者との交渉を試みました。ゴミ捨て場を移転できれば結構なことでしょうが、それは要求しないで、法の規定どおりに稼動させることを要求したのです。私たちの苦情によって時折ゴミ捨て場の操業が停止することもありましたが、ほんのわずかな改善がなされただけで、数週間後にはいつも再開されていました。私の知る限り、その問題は今もなお続いています。

これは、私たち全員が責められるべき環境違反のささいな一例にすぎません。個人の不正な乾電池の廃棄処分から大きな工場の化学物質の河川へのたれ流しに至るまで、人間はこの地球をさんざん痛めつけてきました。その結果、健康的で心地よい環境であったはずのものが、今や人間を脅かしているのです。

浜辺にたくさんのゴミが流れ着いている画像

神は地球とその天然資源を人類にお与えになりました。神がお与えくださる賜物は、神ご自身を、神の愛を、そして神のご品性を明らかにしています。神はあわれみのうちに、創造された時の自然の富と美をたくさん保持しておられるので、自然は今でも生命と喜びを与えてくれます。しかし私たち人間は、神が私たちに与えてくださったものを必ずしも有効に活用してきたわけではありません。私たちは地球の自然な機能を酷使してきました。その結果として、大気汚染、水質汚濁、騒音、温室ガスの放出、森林破壊、野生動物生息地の減少、核廃棄物の投棄、化学肥料の河川や海への流出、魚類の枯渇などを目にしているのです。私たちは自然を引き裂き、枯渇させてきたことの多くの結果をさらに直視しなければなりませんが、その一部はすでに知っています。人や家畜を悩ます新しい疫病、水質の悪化、農業・林業・畜産業・漁業の不振、気候変動による壊滅的な結果などです。

しかし、自然は罪と人間の介入のゆえに損なわれてきたものの、依然として地球に住まうものにとって命と慰めの源なのです。自然はなおも私たちの精神と肉体の健康に貢献しています。自然を通して私たちは創造主へ近づくことができ、そうして霊的な健康を増進できるのです。

完全な環境

創世記二章には、神がエデンに設けられた庭園──最初の人間の家郷として造られた場所──が描かれています。そこにはあらゆる種類の木々があり、食べ物を供給してくれるばかりか、自然の美しさを堪能させてくれました。聖書はさまざまな果実を描写していませんが、今日のさまざまな品種を思う時、エデンの園にあったに違いないものを推測することができます。そこにあった命の木は、完全な健康、幸福、果てることのない命の源となるはずでした。そして善悪の知識の木は、創造主が設定された人間の限界を象徴していました。地中から湧き上がる水の流れに加えて、エデンの園には四つの川が流れており、そこには豊かなミネラル──金、芳香性樹脂、しまめのう──がありました。記述されてはいないものの、他にも多くのものがあったことは間違いありません。なぜなら、エデンの園は筆舌に尽くし難い場所であったからです。

神は御自分のかたちにかたどってアダムとエバを創造された時、彼らを園に置き、管理するように言われました。天来の遺伝形質とすばらしい環境を与えられていた最初の夫婦は、この上ない幸福、申し分ない精神的、肉体的、霊的健康を享受できる最も望ましい条件を備えていました。彼らは不確かさ、不安、心配を知ることがありませんでした。ホワイト夫人は彼らの環境をこのように記しています。

神の子らの家庭として備えられた園には、どちらを向いても美しい潅木や優しい草花があり、あらゆる種類の樹木があって、その多くはよい香りを放ち、おいしい実が実っていた。枝には小鳥が賛美の歌を歌い、その樹陰には地の生き物が、何の恐れもなく共にたわむれていた。

汚れなく純潔であったアダムとエバは、エデンの光景と響きを楽しみ、神は彼らに園を「耕し、守るようにされた」(創世記二ノ一五)。毎日の労働は彼らに健康と喜びを与え、この幸福な二人は創造主の訪問を喜んで迎えた。神は涼しいうちに彼らと歩み、語られ、日々教訓を与えられた。①

罪によってゆがめられ

創世記の最初の二章では、神の素晴らしい創造の力とエデンにおける申し分ない幸福について語られています。しかし三章になると文の調子が変わります。そこには堕落と、アダム、エバ、全人類に対するその恐ろしい結果が、いろいろと描かれています。創世記三章一七、一八節は、罪が被造物に与えた影響をいくつか述べています。

大地は呪われた──エデンの外で、アダムとエバはすぐざま開墾を阻むものに遭遇しました。大地は、雑草、とげのある植物、茨などを生じ始め、恐らくは、害虫たちが作物の健康な生育を妨げたことでしょう。土地と天候はもはやまったく信頼できないため、時として重労働も報われませんでした。

人間は疲労を感じるようになった──堕落する以前、労働は疲労の原因となることなく、身体活動のプラスの効果を生み出していたと思われます。罪が侵入してから、アダムとエバはまったく新しくてつらい感覚を味わいました。それによって、仕事と活動に対する彼らの態度は変わったに違いありません。

畑で働いている人たちの画像

食物に変化が生じた──最初、木の実、種を持つ植物の実、命の木の実から(創世記一の二九、二の一六)完璧な栄養が得られました。創世記一章三○節によると、元々動物たちのためにあった野の植物が、堕落後に命の木の実を補うための食物として加えられました。

罪は新しく造られた世界に、これ以外にも多くの影響を及ぼしました。罪が環境を損なったのも当然かもしれません。確かに、罪は動物と人間の行動を変え、動物たちは弱肉強食を始めました。憎しみ、嫉妬心、利己主義、傲慢によって、人々はお互いに対しても、また動物に対しても攻撃的になりました。創世記三章から六章までに書かれているように、腐敗と暴力がよく見かけられるようになり、神は地の生き物と人々を造ったことを後悔されたのでした(創世記六の六、七)。

パウロは、自然が人間の犯す罪の犠牲になっている、と断言していますが、変化への希望も述べています。「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(ローマ八の二○~二二)。

地球は激しい変容に苦しんでいますが、神は、人間家族が損なわれた環境の悪影響から守られる道を備えてこられました。「あなたたちがわたしの掟に従って歩み、わたしの戒めを忠実に守るならば、わたしは時季に応じて雨を与える。それによって大地は作物をみのらせ、野の木は実をみのらせる」(レビ二六の三、四)。

愛と憐れみに富みたもう神は、元々の環境の大部分と多くの自然の恵みを保ってくださいました。パウロとバルナバがリストラの住民によって神と間違えられた時、パウロはむしろ真の神、天と地と海とその中にあるすべてのものを造られた方を指し示して、こう言いました。「神は……恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」(使徒言行録一四の一七)。自然がなおも与えてくれる豊かな物理的、心理的祝福は、罪によって引き起こされた悲惨を償うために、私たちの愛の神がくださった命と幸福の源なのです。

資源の管理者

私はごく幼い時にこう教えられました。誰かの家を訪ねて食べ物やお菓子を出されたなら、感謝してほほ笑み、出してくれたものをほんのちょっとだけいただきなさい──お代わりなどしてはいけませんよ、と。その理由は所有権に関するものであり、健康とか節制とは無関係でした。実質的に母はこう言っていたのです。「そのお菓子はあなたのものじゃありませんよ。お菓子なら家で食べることができるでしょ。ただし、隣人の好意を無にしてはいけません」。実際のところ、私たちが家でそういったお菓子を食べることはありませんでしたが、それにもかかわらず、私の所有物ではないもの、隣人の所有物を、私はむさぼってはならなかったのです。母は私に、自分のものを大事にする以上に人様のものを大切にしてほしい、と願っていたのでした。

神は私たちに、地球とその資源を与えてくださいました。それらは依然として神のものです(詩編二四の一)。ある人たちは、燃料や食料につぎ込むお金がありさえすれば、必要であろうとなかろうと、好きなだけ消費してもかまわない、と思っています。彼らは、自分がどれくらい消費しているかなど、まったく顧みません。しかし、そもそも最初から人間の役割はこの地球で働き、地球を世話することだったということを思い出すのは重要です(創世記二の一五)。

神はこの地球に含まれているすべての資源を私たちにお委ねになり、賢く管理するように求めておられます(創世記一の二八)。そういうわけでイスラエルの民は、今日でも有意義な倹約の勧めを与えられました。例えば、イスラエル人が鳥の巣を見つけたなら、母鳥とひなの両方ではなく、どちらかを取ることになっていました(申命記二二の六)。イスラエル人はまた、地球や貧しい人や野生の動物の世話をすることも期待されていました。動物や貧しい人が食べられるように、七年毎に土地を耕さずに休閑地とし、ブドウ畑やオリーブ畑も手入れをせずに放置しなければならなかったのです(出エジプト記二三の一○、一一)。

人類に与えられた管理の職務は、動物にも及びます。聖書の初期の時代から、動物は人間を支える仲間、また資源とされています。神は動物より高次の存在である人間に、動物を保護し、賢明に活用する責任を託してこられました。

羊飼いと羊の画像

聖書は、労働力、食料、衣服、輸送力、戦闘支援を供給するものとして、牛、山羊、ろば、羊、らば、馬を描いています。こういった動物はまた、おとなしい犠牲としても用いられました。動物たちの死は、キリストの至高の犠牲の代価と痛みを予表する影だったのです。

動物は助け手であり、また仲間です。その親しさは、アダムがそれぞれの動物を命名した場面に描かれています(創世記二の一九)。人間と動物はともに住み、ともに働き、困窮と疲労を分かち合う関係になりました。罪の到来とともに動物もまた堕落したようです。「それは堕落し、[人間と動物]はこの地で堕落の道を歩んでいた。神はノアに言われた。『すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている』」(創世記六の一二、一三)。私たちはまた、動物たちが洪水から救われるために人間と箱舟の中の空間を分かち合っている姿も目にします。

洪水後、神はノアと彼の子孫のみならず、「あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と」(創世記九の一○)契約をお立てになりました。ですから、地球の住民の究極的な幸福のための神の御計画には、人間家族と同様、動物も含まれているのです。イザヤ書一一章六、七節には、狼、小羊、豹、山羊、牛、獅子、熊たちが、小さい子どもに導かれながら、安らかに草を食べている様子が描かれています。

委託されたあらゆる資源を大切にすることは、重大な結果を伴う厳粛な責任です。聖書は、神が「怒りを現」される時──「小さな者にも大きな者にも報いをお与えになり、地を滅ぼす者どもを滅ぼされる時」(黙示録一一の一八)──が来た、と明記しています。ある学者たちは、このような終末論的メッセージの中で用いられる「地」という言葉は、象徴的に神の民、聖徒を指している、と信じています。しかし間違いなくこの聖句は、このような狭い解釈を超えるものであり、神が創造されたものをあえて損なう人たちをとがめる聖句としても理解することができるのです。

自然の祝福

環境心理学という新しい研究分野がありますが、その研究では、自然と自然環境が人間に対してどのようにプラスの影響を及ぼすかを観察します。たいていの研究結果に示されている事実を見ると、最も健康な人たちは、自然の近くにいて、気分を良くしたり、身体的な活力や安らぎを得るために自然の要素を用いたりしている人たちなのです。こういう方法を実践している人たちは、自然の中に行けない時には、家や作業場に自然を持ち込むように推奨しています。

オランダのユトレヒトにあるオランダ健康サービス研究所のヨランダ・マアスと彼女の同僚たちは、人々の緑地との近さと健康状態の関係について、二五万七八二人の男女のデータを収集しました。② 一般開業医の診療所で働き続けた研究者たちは(すべてのオランダ人にはかかりつけの医者がいる)、身体的・精神的な二四の病状に関するデータを得ることができました。二四の内の一五の病状に関して、公園や森林から八〇〇メートル以内に住んでいる人たちの健康は、特に良好でした。緑地から二四○○メートル以上離れて住んでいる人たちは、上記の人たちほど健康状態が良くありませんでした。この相関関係は、不安やうつといった精神障害のある人や、家庭でより多くの時間を過ごす人たち(例えば、子どもとか高齢者)の間で最も強く見られました。この研究結果から説明しうることは、自然の日光(より多くのビタミンD摂取が可能)、新鮮な空気、運動、自然環境との感覚的なふれあいなどには、有益な効果があるということです。さらにこの結果から、神は、自然環境の中で最も機能できるように人間をお造りになったということを思い起こすことができます。

自然豊かな森の中で木々の間から日が差している様子

英国にあるエセックス大学のジュールス・プリティと彼の同僚たちは、さまざまな自然環境や自然条件が身体や精神の健康に及ぼす影響を確かめるための実験的研究を進めています。③ 彼らは、数ある利点の中でも自然の中での運動が、血圧を下げるとともに、自尊心や気分に関するさまざまな測定値を有意に改善することを発見しました。また他の研究では、(一)都会居住者の増加に伴って精神障害が増加している、(二)病棟のベッドから自然を眺めることのできる入院患者は回復が早い、(三)癒しの庭、園芸療法、自然散策など、自然の中で過ごす時間が治療計画に含まれていると、カウンセリングの効果が高まる、(四)窓から緑樹を眺めることのできる事務職員は、受けるストレスがより少なくて済む、(五)仕事場に植物があると、コンピューターの使用者はよりすばやく操作できる……といったことがわかっています。

植物性食品と漢方薬は、神が人間に与えられた最大の賜物です。植物の実、種子、葉、根を用いることは、あらゆる種類の病気を予防し、病の多くを治癒する最善の方法です。代々にわたって世界の多くの地域の人々は、地の産物の中に特効薬を見つけ、その多くは医学的に検証されてきました。例えば、米国国立癌研究所の天然物部門では、世界中の五万種の植物を研究しています。④ミズーリ植物園、ニューヨーク植物園、イリノイ大学シカゴ校、ハーバード大学アーノルド植物園、ホノルルのビショップ博物館との契約を通して、多くの植物と海藻の研究が、癌という問題の解決を求めてなされています。

祝福から呪いヘ

必要な保護と維持管理をしない限り、祝福は呪いに変わることがあります。北フィリピンのイフガオ州にあるバナウェ、ボントックなどの村々の美しい棚田は、すばらしい眺めだけでなく、申し分のない環境システムを提供しています。そこでは畦が排水溝の役割を果たし、灌漑と排水が正確に調整できるので、農夫は質の良い米の収穫を得られます。このシステムは、すべての農夫が継続的な努力を続け、水と土壌を管理するために共同体の規律を守らなければならない社会単位でもあるのです。またこの棚田システムは、小さな農業単位を保持し、重い鋤や機械の使用、諸問題を生み出す大規模開発から土地を守ってきました。

しかし、イフガオ州にあるその素晴らしい棚田が、消滅の危機にあります。なぜでしょう。この耕作された丘陵の信じがたい美しさを発見した訪問者たちが、その驚嘆すべきものを見ようと至る所から群がってきており、地元の人たちは、棚田を耕すよりも屋台を立ててスナックや土産を観光客に売ったほうが高収入を得られることに気づいてしまったからです。そのため、地元民の多くが、観光客相手の商売をするために農業をやめつつあります。彼らは、放置すれば棚田は荒廃してしまい、棚田がなくなったら観光客も消えてしまうという認識に欠けているようです。このような話は、私たちが環境のためにどんな良いことをしているかを知り、それを維持・改善するために何を必要としているのかを見いだす必要のあることを思い起こさせてくれます。

私たちは自然環境を通して、食料、薬、レクリエーションなどを得るだけでなく、神をよりよく知ることができます。自然は、私たちが神を理解する助けをしてくれるとともに、祝福の真の源を私たちに思い起こさせてくれるのです。「御力をもって大地を造り 知恵をもって世界を固く据え 英知をもって天を広げられた方。主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ 稲妻を放って雨を降らせ 風を倉から送り出される」(エレミヤ一○の一二、一三)。このように聖書は、自然に残されている素晴らしいバランスのみならず神のご品性も伝えています。神は天地を創造し、被造物全体を保持しておられる優しいお父様なのです。

聖書中の人物の例を読むとき、自然は祈りと瞑想を通して神との出会いを深めてさえくれることを思い起こすことができます。アブラハムの従者がイサクのために嫁探しに出かけていた時のこと、ある夕方、イサクは瞑想をしに野原に出て行きました(創世記二四の六三)。バプテスマのヨハネは、その生涯にわたってユダヤの荒れ野に行き、神と交わっていました(マタイ三の一)。そして、言うまでもなくイエスは、「人里離れた所に退いて祈っておられた」(ルカ五の一六)とあるように、寂しい場所や荒れ野で何度も祈られました。

あなたは被造物への天来の影響を見失うような都会に住んでいるかもしれませんし、あるいは自然のただ中に住んではいるものの、自然環境に慣れすぎて、もはや創造主について考えることがなくなっているかもしれません。詩編一○四編を今一度読んでみると、自然の力とすべての被造物に対する神の愛のバランスを見ることができます。このような御言葉によって刺激を受け、主を称える祈りをささげ、神が被造物に命を与えるためにしてくださったあらゆることに感謝してください。詩編一九編二、三節を何度か繰り返し唱えてみましょう。「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る」

参考文献

①     エレン・G・ホワイト『ミニストリー・オブ・ヒーリング』253頁(平成17年)。

②     Joland Maas, et al., “Green Space, Urbanity, and Health: How Strong Is the Relation?” Journal of Ep idemiology Community Health 60 (2006): 587–592.

③     For reports on research by Jules Pretty, visit http://www.essex.ac.uk/bs/staff/pretty/green_ex.shtm.

④     National Cancer Institute, National Institutes of Health. “Natural Products Repository.” Developmental     Therapeutics Program, NCI-NIH.  http://dtp.nci.nih.gov/branches/npb/repository.html.

*本記事は、フリアン・メルゴーサ『健全な精神と感情──心が愛で満たされるとき』からの抜粋です。

著者:フリアン・メルゴーサ博士(英: Julian M. Melgosa, PhD)
ワラワラ大学教育心理学部学部長。スペインのマドリッド出身。マドリッド大学で心理学と教育学の研究をし、アンドリュース大学院から教育心理学で博士号を授与される。スペイン、英国、フィリピン、米国において、教育者、カウンセラー、行政家として奉仕。フィリピンの神学院アイアス(The Adventist International Institute of Advanced Studies)元学長。精神的・霊的健康に関する主な著作に以下の書がある。Less Stress (2006),  To Couples (2004), For Raising Your Child (2002), Developing a Healthy Mind: A Practical Guide for Any Situation (1999). 最近の学術論文に以下のものが含まれる。‘An Adventist Approach to Teaching Psychology’ (70-4, 2008) Journal of Adventist Education.  ‘Professional Ethics for Educational Administrators’(66-4, 2004) Journal of Adventist Education.

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