共に歩まれるイエス【健康な精神と感情ー心が愛で満たされるとき】#13

目次

イエス・キリストによる回復

神は我が家にオティリアを遣わされ、イエスをより良く知る機会を与えてくださいました。私の家族は母、祖父、姉と私でした。

オティリアは父と同郷のアドベンチストですが、父が亡くなる前後に訪問してくれました。彼女は、答えられた祈り、安息日の祝福、イエスとの親密な友情を持つ喜びについて話してくれました。姉と私がよちよち歩きの頃から、オティリアは私たちを教会に招待してくれたのですが、母は無関心で、何年もその招きをていねいに断っていました。それにもかかわらず、私たちはオティリアを尊敬していました。親切で、心から信仰に熱心で、しかも聖書を良く知っていたからです

オティリアの粘り強さのおかげで、姉と私が十代の頃、家族はアドベンチスト教会に出席し始め、その教えに興味を示すようになりました。私はいくつかの信条に悩みましたが、オティリアは教条主義的な女性ではありませんでした。彼女は私にこう言ったのです。「何が正しくて何が正しくないか、あなたを説得するのはわたしの責任じゃないの。正しい道に導いてくださるよう、神様に祈りなさい。心から熱心に祈るなら、遅かれ早かれ、神様は答えてくださるわ。そうしたら、神様がおっしゃることは何でもするのよ」

当時九十代の祖父と姉が、まず洗礼を受けました。約一年後、母と私があとに続きました。私が経験した内なる葛藤は、神との親密な関係を深め、祈りを頼みとし、私たちが望むなら、神は私たちを教え、導き、祝福してくださることを実感できる助けとなりました。生まれて初めて、自分の選択について絶えず祈る態度を身につけました。その時以来、イエスと親密に語る機会を多く持っています。この関係によって、神の御臨在の確かさと比類のない心の平安を自覚するようになりました。

イエスにある歩みから与えられる祝福は、霊的なものばかりでなく、身体的また感情的なものも含みます。宗教性、信仰、霊性、祈り、赦し、希望、教会出席といった要素は、健康とプラスの関係を持っている、という研究結果が相次いでいます。宗教は人々のアヘンであると言い、宗教は妄想だと非難してきた何世代もの時代が過ぎ、科学が、神との強い関係は人々の心と体に良いものである、と認めているのです。三〇年前、私が心理学の学位を得た頃には、そのような見解の専門的な論文は見当たらず、祈り、宗教、霊性に関する研究もなされていませんでした。今や心理学の分野における専門的な会議では、こういった主題に関する研究発表が数多くなされ、そのほとんどが有益な影響を報告しています。

聖書には、イエス・キリストから来る真の喜びに満たされている人たちが、多く描かれています。これは、クリスチャンが痛みを経験しないという意味ではありません。むしろ、満ちあふれる天来の至福によってイエスの恵みのゆえに、悩みに打ち勝つことができるという意味なのです。イエスの生涯は父なる神と霊的に結合した至高の模範です。

イエス・キリストにあって、イエスと親しい関係にある者は、霊的成長、より良い生活、幸福を促進する道を進んでいきます。本章では、真の幸福の源として、また苦痛と苦難に満ちた世界で喜びに満ちた生活を送る模範として、イエスに注意を向けます。さらに本章のあとの方では、喜びの生活に至る道──祈り、聖書に基づく瞑想、礼拝、赦しの実践、他者への奉仕、神への信頼、希望──について論じます。

イエスとの個人的関係

マルコによる福音書一章二一節から三八節には、イエスがカファルナウムで過ごされたある安息日のことが描かれています。イエスは、その朝一番に会堂で教えられ、権威ある言葉によって人々に深い感銘をお与えになりました。イエスは汚れた霊を追い出し、礼拝のあと、ヤコブとヨハネと一緒にシモン・ペトロの家に向かわれました。ペトロのしゅうとめが病気だとわかると、イエスは彼女をお癒しになりました。それから日没時、町中の人が戸口に集まり、病人や悪霊に取りつかれた者を連れてくると、イエスは彼ら全員のいろいろな病を癒し、すべての悪霊を追い出されました。そのような一見すると疲労困憊の安息日のあとに、イエスはどうなさったでしょうか。少し眠られると、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ一の三五)のです。

イエスは、父なる神との良い関係を深めていく必要性を私たちにお示しになりました。イエスは、伝道の働きにおいて過重な要求を抱えておられたにもかかわらず、定期的に父なる神との交わりに入っていかれました。イエスは神との交わりの中で、苦痛が和らげられ、日々必要とする身体的、精神的、霊的力を得られたのです。

私たちもイエスのように、仕事、家族、健康、経済などのさまざまな重圧にさらされるかもしれませんが、イエスと交わる時、そのような重荷から解放されます。私にとってイエスとの交わりには、二つのコミュニケーションのプロセスが含まれます。まず私は、賛美、祈り、感じていることの分かち合いなどを通してイエスに語りかけ、次にイエスが、聖書、他の人たちから与えられる助言や瞑想などにより与えられる印象を通して私に語りかけてくださるのです。(私はどちらかというと、聴くよりも多く語る傾向にあります。もっと耳を澄まして聴く必要があるようです!)

カウンセラーは、さまざまな精神障害を持つ人たちを助けるのに誘導イメージ療法を用います。例えば、ストレスに苦しむクライアントは、美しい岸辺の景色を眺め、温かい、柔らかいそよ風を感じ、かもめの鳴き声を聞いている自分を想像するように勧められます。クライアントは、海水の匂いを思い起こし、柔らかな砂の岸辺をゆったりと静かに歩いている姿を思い浮かべるのです。ぬるい海水の中に足を浸し、しばらくそこに立ち止まり、そこから出て来て陽のぬくもりを肌に感じ取るかもしれません。イエスについてもっと学びたいという意欲を起こさせるために、私は福音書の聖句を瞑想する時、この種の誘導イメージ療法を実践することがあります。そうすると聖句の理解が深まり、聖句のメッセージを理解するのに大きな効果が得られるのです。

浜辺に座る女性の画像

誘導イメージ療法を活用する時は、神が瞑想を導いてくださるように祈ってから始めるべきです。また、聖書の意味をよくわからせてくれる良い注解書の助けを得ることができます。

例えば、マタイによる福音書九章九節から一七節に書かれているレビ・マタイの物語を取り上げてみたいと思います。『各時代の希望』上巻二八章におけるホワイト夫人の注解も合わせて読んでみてください。それから、占領下のパレスチナで徴税人が担っていた役割について考えることもできるでしょう。彼らは異邦の帝国に雇われた単なる税金取りではなく、同胞を利用する裏切り者だと思われていたのです。私たちは、イエスがマタイの家に立ち寄り、御自分の弟子になるように求めた時のマタイの思いと表情を想像することができます。このような選びを極めて不快に感じたであろう宗教学者たちの非難も思い浮かべることができます。新しく弟子に任命されて興奮しているマタイが、仲間の徴税人や怪しげな評判の人たちを招いて引き合わせた一行も思い描くことができます。この評判の悪い人たちのただ中で、イエスが上座からお伝えになったかもしれない希望と憐れみに満ちたメッセージについて考えることもできます。そのイエスの言葉が、居合わせた人たちをいかに感動させ、いかに彼らの人生に大きな変化をもたらしたかを推測できます。

社会から見捨てられた人たちと接する際にイエスが示された敬虔な御品性を注視しながら、私たちはこういったことを鮮やかな生き生きとした言葉で心に描き出すことができます。こうしてこの物語を私たち自身の経験に適用し、私たちの暮らしの恥ずべき部分を吟味し、彼らを受け入れられたように私たちを受け入れ、ほほ笑み、赦してくださるイエスを仰ぎ見ることができるのです。

イエスとの協力関係

信徒の共同体は、私たちがイエスと心を通わせる時、私たちが必要とする霊的な支援を与えてくれます。つまり、私たちが精神的バランスと健康を保ちつつ、霊的に成長できる環境を提供してくれるのです。医学博士のマリリン・バエツはサスカチュワン大学の心理学部の教員です。彼女と同僚たちは、カナダで地域健康調査を実施しました。① 七か月にわたり、調査チームは一五歳から人生最期の年齢を迎えた人まで、三万七〇〇〇人のデータを得ました。収集した情報は、精神障害羅患率、礼拝出席頻度、霊的(精神的)価値観に関するものでした。彼らの研究で明らかになったのは、二つの変数──精神障害(うつ病、躁病、パニック障害、対人恐怖症)と教会出席──の間には高いけれどもマイナスの相関関係があったということです。これは、礼拝出席率が高くなればなるほど、精神病の発症率が低くなるという意味です。そして、この結果が物語っているのは、精神障害によって人々は教会に行くのを妨げられているか、教会出席によって人々は精神障害の発症から守られているか、いずれかであると解釈されます。しかし、後者の解釈も前者の解釈も同じくらいあり得ることなのです。

米国立健康管理研究所の上級研究員ジェフ・レビンは、宗教と健康の関係に関する研究を何百も分析しました。② それによって彼は、宗教に所属することが二五の病気や障害に対する防御因子になり、二六の疾患による死亡の危険を減らし、三一種の癌による死亡を抑えるという証拠を見いだしたのです。防御されていた母集団は、以下の宗教グループでした。アーミッシュ(ペンシルバニア州に移住し、近代文明から離れて共同生活をしているプロテスタントの一派)、仏教僧侶、カトリックの修道女、ヒンズー教徒、フッタライト(南ダコタ、モンタナ、カナダなどで農業を営み、財産共有を実践する再洗礼派の人たち)、ジャイナ教徒(禁欲と不殺生などの戒律を守る、紀元前六世紀からインドにある宗教グループ)、ユダヤ教徒、モルモン教徒、イスラム教徒、パールシー教徒(インドに住む、善と悪の歴史観を持つゾロアスター教徒の子孫)、セブンスデー・アドベンチスト、トラピスト会修道士。

『ナショナル・ジオグラフィック』誌が行った長寿の研究によって、五つのグループが他の市民と比べて明らかに健康的で長生きであることが確認されました。③ 五つのグループの中の四つは民族グループ、残り一つが宗教グループで、その宗教グループがカリフォルニア州ロマリンダのセブンスデー・アドベンチストだったのです。

なぜ宗教グループに属することで健康と幸福が増進するのでしょうか。専門家が提示した要因をいくつか列挙します。

宗教は健康なライフ・スタイルを増進する傾向があります。

多くの宗教は、アルコールや他の精神活性物質の使用を思いとどまらせ、食事や運動の重要性を強調し、結婚や家庭生活を神の道として示すことで見境のない性行動を認めません。また、神を崇める方法として、すべてにおいて節度を奨励しています。

宗教は適切な社会的ネットワークを提供します。

たいていの宗派は、人々が集まり、支え合う友情を育む機会を提供しています。このような人たちは他者を助け、必要が生じれば、逆に助けてもらいます。牧師も信徒も、正式なカウンセリングや私的なカウンセリングをするかもしれませんし、また多くの活動は、互いを思いやり、共通の信仰と価値を持つ人たちと協力して行われます。

宗教は霊的な支援を提供します。

多くの宗教グループは、礼拝、瞑想、聖典研究、グループでのその他の霊的活動を提供しています。このことは共同体の教化やメンバー全員の幸福に貢献します。祈りは個々になされるとともに共同でもなされ、病気や困難に直面している人たちのためにささげられます。

宗教は希望に満ちた信頼する態度を教えます。

信仰を持つ人たちは、現世においても来世においても、より良いものを希望する傾向があります。彼らは神に信頼し、ストレスの少ない生き方をする可能性が高いのです。というのは、至高者が自分たちの生活を支配してくださっていると信じているからです。それゆえに信じる人たちは、病気、事故、親しい人の死など、失うものがあったとしても、宗教的な望みを持たない人たちよりもうまく対処できます。

宗教は祈りと瞑想の実践を強調します。

祈りと瞑想はさまざまな臓器に有効に働くという証拠があります。ハーバード大学医学部の教授で研究者のハーバート・ベンソンは、人間の臓器への祈りの効果を研究し、祈りは新陳代謝を抑制し、心拍数を下げ、呼吸数を減らし、脳波周波数を増やし、血圧を下げ、心の平静をもたらし、身体全体の健康を増進する、という結論に達しました。④

宗教が与える精神的・肉体的健康のメリットに加えて、真理をもって共に礼拝する人たちには霊的祝福も多く与えられます。教会に行かないという選択には、リスクが伴います。教会共同体から離れて神の原則に忠実であろうとする人たちにも同じことが言えるのです。スペインにある私の教会の会員であった二、三のアドベンチストの家族が、教会組織に幻滅を感じ、もはや地元の教会に出席しないことにしました。「私たちはそれでも安息日に礼拝し、アドベンチストとして生きていきますよ。でも指導者たちが神の僕でない教会に出席し続けることはできませんね」と、彼らは言っていました。

教会員の何人かはこの家族と連絡を取り合い、最初、彼らは野外や仲間の教会員の家で礼拝していました。ところが、月日が流れるにつれて集会は一定でなくなり、最終的には礼拝をやめ、彼らは信仰を失いました。牧師も教会員たちも彼らを教会に呼び戻そうとしましたが、無駄でした。不完全であっても信じる者の共同体が与える支援から、彼らは離れてしまっていたのです。不幸にも世界中の多くの教会でこの種のことが起きています。

誰も座っていない教会の長椅子の画像

安定した集団による礼拝は、神が私たちに感化を及ぼすことがおできになる理想的で安全な環境を提供してくれます。このことを確信していたに違いないダビデは、次のように祈りました。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを」(詩編二七の四)。

 「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」(ルカ四の一六、傍点著者)と伝えられています。「安息日にイエスと弟子たちが……会堂へおいでになったように、礼拝の場所に出かける家族は幸福である」⑤

精神的な健康における他の要因

聖書は、霊的・感情的・肉体的幸福をもたらす態度や習慣を多く提唱しています。それらはすべて、私たちとイエスとの親しさに関係しています。

赦し

親しい人によって痛みを与えられる時、私たちの心は深く傷つきます。伴侶、親、子ども、兄弟姉妹、友人、教会の仲間、同僚など、私たちの生活にいちばん喜びを与えてくれるはずの人たちによって、極めてしばしば、私たちは憤慨させられるのです。そして、こういった人たちから受けた心の傷が、怒り、苦々しさ、憎しみ、復讐心など、私たちの精神的・霊的健康をむしばむ極めて否定的な感情を生み出します。逆にクリスチャン的な道に目を向ける時、赦しは、平和、喜び、神との親密な関係を私たちにもたらします。そういうわけで、パウロはコロサイの教会の人たちを励まして、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」(コロサイ三の一三)と言っているのです。

Forgive(赦し)と書かれた文字

オハイオ州のデートン大学のマーク・S・ライと同僚たちは、離婚を経験し、独身者コミュニティー友の会に所属する一九九人の人たちを研究しました。⑥ この研究の焦点は、元伴侶を赦すことが被験者の幸福に与える影響でした。この研究で、赦しは幸福と密接に関係していること、換言すると、元伴侶を赦している人たちは、赦していない人たちよりも幸福を享受していることが明らかになったのです。赦しはまた、うつ病や怒りと反比例の関係にありました。換言すると、被験者が元伴侶に示す赦しが少なければ少ないほど、より多くのうつ病と怒りを経験していたということです。

赦すというのは、傷つけた人への敵対感情や敵対意識にとらわれないことです。誰かのせいで私たちの心が痛む時、憎んだり、復讐したりするのは人間の生来の反応のようですから、私たちは神の霊の支援がある時にのみ、心から赦すことができます。赦しに伴って与えられる霊的な祝福に加えて、赦すことでさらに満ち足りた人間関係ができ、敵意とストレスは和らぎ、不安を抱いたり、うつ病になったりする確率が減ります。さらに赦す経験を通して、私たちの血圧は下がり、薬物を使ったり、悪用したりする危険性を減らすことができるのです。

奉仕

うつ病に対する多くの治療計画の中で最も大事な部分として、うつ状態にある人が充実した時間を過ごすための実際的な活動プログラムがあります。カウンセラーたちは大抵、他の人を利する何か有益なことをするように指導しますが、これはうつの気分を散らすのに有効な方法だとわかっているからです。

イエスは他の人たちを助けるために多くの時間を用いられました。「イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです」(使徒言行録一○の三八)と聖書に記されています。実際、他の人たちを助けるために何かをすることは、幸福の源であるとともに、私たちが主のみ足跡に従っていることの証拠なのです。最後の審判において、このことが私たちの救いを証明します。「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』」(マタイ二五の三四~三六)。

信頼

チュービンゲン大学の名誉教授で神学者のユルゲン・モルトマン(一九二六~)は、最近の記事の中で次のように書いています。

ソ連の古き悲しき時代、あらゆる人がその国境において、社会主義警察国家に恐れ入ったものでした。長い努力の甲斐あって、やっとビザを取得し、膨大な書類を提出したあとで、人は自分のパスポートを一人の係官ではなく、通例、四人の係官に提示しなくてはならなかったのです。最初の係官はビザの正当性とパスポートの有効性とスタンプが適正に押されているかどうかをチェックし、二番目の係官は最初の係官がチェックしたものを正確にチェックし、三番目の係官は二番目の係官をチェックし、四番目の係官は最終的に三番目と二番目と最初の係官をチェックしなければなりませんでした。ウラジーミル・レーニン(一八七○~一九二四)の次の訓戒が最高の支配力になっていたのです。「信用するのは良いことだが、管理する方がもっと良い」⑦

私たちと神との関係の中で、モルトマンはレーニンの訓戒に代わるものを提示しています。「管理するのは良いことだが、信頼する方がもっと良い」

光とハートを背景に手と手が触れ合おうとしている画像

信頼は、人生の厳しい現実と将来の逆境の恐れに立ち向かうための唯一の道ですが、私たちは人間にではなく、神に信頼しなくてはなりません。聖書の真ん中辺りにある聖句には、このメッセージが含まれています。「人間に頼らず、主を避けどころとしよう」(詩編一一八の八)。日々の歩みの一歩一歩を導き、終末の時に救いを完成してくださる、という神の約束に信頼するとき、私たちはうまくやっていけるのです。

希望

少年時代、自分がほしいと思う玩具や靴を得るのに一生懸命働かなくてはなりませんでした。それらを得るために私は何かをするか、または、ある標準に到達しなくてはならなかったのです。雑用、学校の成績、悪い癖を直すこと……など。待っている時は希望の時でした。玩具の夢をよく見たものですが、この夢は目標に達するまで、約束した義務を果たすのに大きな支えとなりました。でもいったん夢見ていたものを手にすると、目標のない、ひいては希望のない状態に取り残されました。私は希望すべき何か他のものを必要としたので、母の所に行って、他の玩具がほしい、とよく言ったものでした。平たく言うと、希望する何かが得られるまで、私は生活に満足できなかったのです。

希望は健康に不可欠なもの──肉体的にも精神的にも、治りたいと望んでいる病人たちは、そうなりたいとほとんど、あるいはまったく望んでいない人たちより、早く回復するという充分な証拠があります。霊的な領域では、希望はさらに効力を発揮します。「人生は真昼より明るくなる。暗かったが、朝のようになるだろう。希望があるので安心していられる」(ヨブ一一の一七、一八、傍点著者)。

希望は行動を動機づけ、健康であるために欠かせないものですが、また宗教経験の中核的要素でもあります。この希望は、単なる物質的なものへの希望ではなく、聖書に繰り返し約束されているように、永遠の救いへの希望です。神は御自分の子どもたちに宗教的な希望を惜しみなく、豊かに与えてくださいます(二テサロニケ二の一六)。希望は、喜び、平和、信頼をもたらします(ローマ一五の一三)。希望はイエスの再臨に焦点を合わせており、「祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望む」(テトス二の一三)積極的な生き方を私たちにさせるのです。

有名なイタリアの詩人ダンテ・アリギエーリ(一二六五~一三二一)は『神曲』において、地獄を含むさまざまな終末論的場所を描いており、地獄の門には、多くの警告とメッセージが記されています。その最も有名なものが、「一切の望みを捨てよ、汝ら我をくぐる者たち」という言葉です。ダンテの地獄絵は、聖書が伝えているものとはかなり違いますが、彼の想像力の中で、望みの喪失が私たちの直面する最悪のものだという点は興味深いことです。

もしあなたがバランスのとれた楽しい生活を目指し、不完全なこの世においてさえ、申し分ない健康を保ちたいと望むのであれば、このように言っておられるイエスの言葉に従ってください。「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう」(ヨハネ一五の四、口語訳)。

参考文献

①     Marilyn Baetz et al., “How Spiritual Values and Worship Attendance Relate to Psychiatric Disorders in the Canadian Population,” Canadian Journal of Psychiatry 51 (2006): 654–661.

②     Jeff Levin, God, Faith, and Healing (Hoboken, N.J.: John Wiley & Sons, 2001), 32.

③     Dan Buettner, “The Secrets of Long Life,” National Geographic 208 (2005): 2–27.

④     Herbert Benson, Timeless Healing (New York: Scribner, 1996).

⑤     エレン・G・ホワイト『教育』297頁(昭和48年)。

⑥     Mark Rye et al., “Forgiveness of an Ex-Spouse: How Does It Relate to Mental Health Following Divorce?” Journal of Divorce and Remarriage 41 (2004): 31–51.

⑦     Jürgen Moltmann, “Control Is Good—Trust Is Better: Freedom and Security in a ‘Free World,’ ” Theology Today 62 (2006): 465.

*本記事は、フリアン・メルゴーサ『健全な精神と感情──心が愛で満たされるとき』からの抜粋です。

著者:フリアン・メルゴーサ博士(英: Julian M. Melgosa, PhD)
ワラワラ大学教育心理学部学部長。スペインのマドリッド出身。マドリッド大学で心理学と教育学の研究をし、アンドリュース大学院から教育心理学で博士号を授与される。スペイン、英国、フィリピン、米国において、教育者、カウンセラー、行政家として奉仕。フィリピンの神学院アイアス(The Adventist International Institute of Advanced Studies)元学長。精神的・霊的健康に関する主な著作に以下の書がある。Less Stress (2006),  To Couples (2004), For Raising Your Child (2002), Developing a Healthy Mind: A Practical Guide for Any Situation (1999). 最近の学術論文に以下のものが含まれる。‘An Adventist Approach to Teaching Psychology’ (70-4, 2008) Journal of Adventist Education.  ‘Professional Ethics for Educational Administrators’(66-4, 2004) Journal of Adventist Education.

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