土曜日を安息日とする根拠を詳しく解説!

目次

土曜日を安息日とする根拠を詳しく解説!

土曜日を安息日とする根拠は?

聖書は週の第七日、すなわち土曜日を聖なる日、神を崇め礼拝を捧げるべき日と定めていると理解しているからです。

創造主は人間が神に背き罪に堕ちる前に、人類の祝福のために安息日と結婚の制度を定められました。

聖書には、創造週の第七日目に天地創造を完成されたとき「神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである」(創世記2:3)と記されています。

人間がなぜ神を覚え礼拝を捧げるかといえば、「天と地と海と水の源を創造した方を拝め」(黙示録14:7)と天使が呼びかけているように、神が天地の造り主だからです。

神と人間のあり方を定めた十戒の第4条には「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない‥‥それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」(出エジプト20:8,9,11)と、この日を創造主を覚える聖なる日とするように命じられています。

新約聖書においても、主ご自身「いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた」(ルカ4:16)とあるように、それが習慣であったことがわかります。

聖書には、一見安息日を否定するかのような安息日をめぐるキリストとパリサイ人との論争が記されていますが、それは人の祝福のために造られた安息日を、人間が作りだした規則によって重荷にしていた当時の宗教家たちや彼らの守り方についての論争であって、安息日そのものの是非についてではありませんでした。

十字架以前はともかく、十字架後も安息日は守られたのですか?

約40年後に起ころうとしていたエルサレムの滅亡を預言されたキリストは、その時は山に逃れるように警告され、その日が「冬や安息日にならぬよう祈りなさい」(マタイ24:20)と言われました。

安息日でない方が逃げやすいためですが、少なくとも主が十字架から数十年後に起きる出来事に関連して生じる安息日について言及しておられ、否定的なことは何も言っておられないことは注目に値します。

使徒たちを見ても彼らが安息日を無視していないことは明らかです。

それどころか使徒たちも伝道旅行中に、キリストと同じように安息日になると「いつもしているように、会堂に入って行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた」(使徒17:2)のでした。

これは十字架後も彼らが安息日を特別な日として覚え守っていたことを伺わせます。彼らが安息日毎に会堂に行ったのは伝道のためだったにすぎないという解釈もありますが、会堂がない町を訪れた場合も、「安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した」(使徒16:13)とあるように、彼らが安息日を祈りと説教に費やすべき日として理解していたことが記されています。

同じ使徒の働き16章3節には、使徒パウロは、父親が外国人だったテモテにもユダヤ人たちを意識して彼に割礼を受けさせたことが記録されています。

これは初代教会においてデリケートな問題でした。やがて異邦人から改宗したクリスチャンにも割礼を守らせるべきと考えるクリスチャンと、その必要はないとするパウロとの間に大きな論争が起こったことが新約聖書に記録されています。

もし使徒たちが安息日を廃して、聖なる日を他の日にしようとしたら割礼以上の大論争になって当然です。しかしそのことが何も記されていないことは、その変更が全く話題にされず、キリストも使徒たちもその変更について沈黙していることは、安息日が当然のこととして聖日として受け入れられ機能していたことの有力な証拠と考えられます。

土曜日を聖日とすることに対する反論

その1  主が復活された週の初めの日(日曜日)がクリスチャンの守るべき聖日である。

新約聖書にはクリスチャンは主の復活を記念して週の初めの日に礼拝したことが記されているのではありませんか?

クリスチャンの守るべき礼拝日が第七日安息日から週の初めの日に変更されたとすればそのような重大な変更は当然聖書に記されているはずだと考えられます。

その例として、よく挙げられる聖書の箇所が3つありますので、それらを聖書から直接吟味してみることが大切です。

パウロがトロアスに7日間滞在したのち、「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた」(使徒20:7)とありますが、日曜日に人々は聖餐式をし、パウロの説教を聴くために集まっていたのではありませんか?

これを習慣的な日曜礼拝の証拠とするのはいくつかの理由から難しいようです。まず「ともしびがたくさんともしてあった」(8節)夜の集会についてですが、この集まりがまず何曜日に開かれたかに関して註解書によって意見が分かれています。

著者のルカが日没から日没までを一日とするユダヤ式の日の数え方(創世記1:5,レビ23:32)をしたか、真夜中から真夜中までのローマ式の数え方をしたかによって違ってきます。ユダヤ式によれば初めの日が始まるのは土曜日の日没からですし、ローマ式では日曜日の真夜中になります。

前者であればこの集会は土曜日の夜中から日曜の明け方にかけて、後者なら日曜の夜中から月曜の明け方にかけて開かれたことになります。「パンを裂く」という表現は聖餐式を意味することもありますが、食事の表現としても用いられます(マタイ14:19,15:36,マルコ8:6)。

聖餐式を夜中に行うというのは不自然ですので、翌朝早く船旅に出るパウロとの別れの食事会とするのが妥当でしょう。

夜中まで話が長引き青年の一人が3階の窓から眠り込んで落ちてしまいます。その青年を抱き起こし、「また上がって行き、パンを裂いて食べてから、明け方まで長く話し合って、それから出発した」(使徒20:11)とありますが、不慮の出来事が起きたためかパウロが結局一人で食べたのか、いづれにしてもぶどう酒や祈りといった聖餐式に関連した記述は何もありません。

これは1回限りの特別な集会であり、これをもって習慣的な日曜礼拝の根拠とするのは無理のようです。

パウロがコリントの教会員に「私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい」(Ⅰコリント16:2)と書きましたが、これは日曜日にコリントの教会員が礼拝献金を捧げていた証拠ではありませんか?

これはクリスチャンが日曜日に聖日礼拝をしていた聖書的根拠としてよく用いられる聖句です。

パウロが日曜毎に献金を用意し捧げるように勧めているように思えるからです。しかし注意深く聖書を読んでみると、それは新約聖書時代以後に発達した習慣を聖書の中に読み込んでいるに過ぎないことがわかります。

まず第一にこの聖句は週の初めの日が聖なる日だとは何も言っていませんし、教会にその日に献金を携えて出席することも言っていません。パウロは飢饉で苦しむユダヤの弟子たちを助けることを第3次伝道旅行の一つの目的にしていました(使徒11:29,30)。

そこでガラテヤの諸教会に命じたように、コリントの教会員もパウロが到着してから献金を考えるのではなく、収入に応じて、日頃から教会ではなく自宅で「手もと」に蓄えておくように勧めているのです。

週の初めの日が指定されたのは、1週間の生活を始める前に献金を優先的に別にしておいて、使ってしまわないようにするためと思われます。

計画的な献金の勧めの聖句にはふさわしいみ言葉ですが、これを礼拝の日の変更の根拠とするには無理があります。

使徒ヨハネはパトモス島において「私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた」(黙示録1:10)と書いていますが、これは主の復活の日曜日のことではないのですか?

これを日曜日と解釈している註解書が多いのですが、前後関係からそのことを導き出すことはできません。

確かに後世になりますと「主の日」が日曜日を指すようになりますが、黙示録が書かれた1世紀後半はどうであったか確かな証拠はありません。

もしそうであったとすれば、黙示録より後から書かれたと思われるヨハネの福音書が復活の日を、知られていたはずの「主の日」でなく、いつもただ「週の初めの日」としか呼ばないのは解せません。

旧約聖書において「主の日」は終末的な裁きの日を表す表現であるところから(イザヤ2:12,アモス5:18〜20,ヨエル2:11)、ヨハネは未来の「主の日」に移されてそこで幻を示されたという解釈もありますが、10節以降7つの教会について記しているので終末の裁きの「主の日」というより、ただ幻を示された場所(パトモス)と日のことを言っていると解釈するのが妥当でしょう。

もう一つの解釈は、当時のクリスチャンたちが過越と主の復活を年毎に祝っていた(Iコリント5:7,8)そのことを指すのではないかというものです。

初穂が捧げられた日に主が復活された、そのことがIコリント15章20節の「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」という言葉の背景にあると考えられます。今のイースターがその日に該当するという解釈です。

4番目の解釈は、イザヤ58章13節は安息日を「主の聖日」と呼び、キリストご自身も「安息日の主」(マルコ2:28)とご自分を呼ばれたことから、この日は第七日の安息日を指すのだというものです。

『ヨハネの言行録』という外典には「主の日である安息日に」という表現がありますが、結論として黙示録の「主の日」が日曜日を指すと聖書から結論付けるには十分な根拠がないということです。

いずれにしても、この聖句を用いて新約聖書時代に日曜日が聖日として守られていた裏付けとすることはできません。

以上見てきた通り、キリストと使徒たちの言葉から、週の「はじめの日」を聖日とする根拠を見いだすことはできません。

その2 使徒以後の教父たちも日曜日を復活の記念として守っていたことが歴史的に証明されている。

使徒時代後に書かれた歴史的文献から、使徒時代とそれ以後の教会が日曜日を復活の日として守っていたことが証明されているのではありませんか?

聖書の中に週の「初めの日」が復活の記念として聖なる日に定められていると考えている人が少なくないようです。

さらに使徒をはじめそれ以後の初代教会、教父たちも日曜日を復活の記念として守っていたことが歴史的文書から裏付けられていると考えている人も多いのです。

しかし、それらの文書に当たって調べてみると意外な事実が浮かび上がってきます。

初のプロテスタント学者としてローマにある教皇庁立のグレゴリアン大学を最優秀の成績で卒業したサムエル・バキオキ博士は、同大学出版所から『安息日から日曜日へ』という研究書を出しました。

この本は初期のキリスト教会における日曜遵守の歴史を歴史資料に基づき検証したものです。それではその資料をもとに日曜遵守の起こりを調べてみたいと思います。

主の復活が週の「初めの日」に起きたことは間違いありませんが、聖書ではその日が「復活の日」と呼ばれたことは一度もありませんし、また復活と聖餐式を結びつけた例もありません。

聖餐式は不特定の日に持たれていたようです(Iコリント11:18,20,27,28,33,34)。それに聖餐式は復活ではなく、「主が来られるまで、主の死を告げ知らせる」ために執り行われたのです(26節)。

パウロが割礼をクリスチャンとなることや、救いの条件にしようとしたユダヤ人クリスチャンと戦ったことから、使徒たちがユダヤ教の伝統に否定的であったかのように考えがちですが、事実は違います。

エルサレム会議において取り決められた異邦人の改宗者も避けるべきものとして、「不品行と絞め殺した物と血」が挙げられていますし、その理由として「それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです」と言っています(使徒15:19〜21)。

紀元58年から60年ごろもパウロは「種無しパンの祝い」を祝うことや、最後にエルサレムを訪れた時も五旬節を共に祝うことを気にかけていました(同20:6,16)。

エルサレムの指導者であった主の兄弟であるヤコブも、エルサレムの幾万といる「律法に熱心な」ユダヤ人クリスチャンからパウロがユダヤの慣習を否定しているという「根も葉もない」ことで疑われず、「律法を守って正しく歩んでいることが、みなにわかる」よう神殿で清めの儀式にあずかるようにアドバイスをしています(使徒21:20〜26)。

このような聖書の伝統に対する意識で信仰生活をしていた当時のクリスチャンにとって、重要な週毎の安息日が廃されて、その代わりとして新しい聖日が定められるなどということは想像もできないことであったに違いありません。

ある学者は紀元70年のエルサレムの滅亡、神殿の崩壊がパレスチナのクリスチャンが安息日から離れるきっかけになったのではないかと考えています。

確かにエルサレムの神殿の崩壊はユダヤ人クリスチャンにとってユダヤ教との関係において決定的な影響を与えたに違いありません。しかし歴史家のエウセビオス(紀元260〜340年)とエピファニオス(315〜403年)は、エルサレムの初代教会直系の子孫であるクリスチャンたちが、エルサレムの滅亡後も数世紀にわたっていまだに安息日を守っていると証言しています。

これは安息日がエルサレム教会の礼拝の日であり、エルサレムの滅亡が安息日から日曜礼拝のきっかけとはならなかったことの有力な証拠です。

皇帝ハドリアヌスが紀元135年にエルサレムを攻め、ユダヤ人とユダヤ人クリスチャンを追放し、安息日遵守と割礼を禁じました。皇帝の勅令により、外国人と異邦人クリスチャンだけが居住を許されたのです。このことはエルサレムの異邦人クリスチャンに大きな影響を与えたに違いありません。

しかし仮にこの小さな異邦人クリスチャンのグループが安息日に対して否定的になったとしてもその影響力はもはや弱いものでした。

ユダヤ教とはっきりと決別し、日曜の礼拝を世界に広めていくとすれば、異邦人からの改宗者によって構成されていた帝国の首都ローマの教会が日曜礼拝の誕生の地と考えるのが妥当だと思われます。ローマの宗教的、社会的、政治的な状況はその仮説の正しさを実証しています。

日曜日をクリスチャンの礼拝の日とすることは、エルサレムでなくローマで始まったという証拠はあるのですか?

異邦人から改宗したクリスチャンが主力だったローマの教会(ローマ11〜13章)においては、ギリシャ、小アジアの東方教会にはなかったユダヤ教、ユダヤ人との分離の意識が強くありました。

皇帝ネロ(統治54〜68年)が放火の責任をクリスチャンのせいにし、エルサレムの反乱、バルコクバの反乱(132〜135年)ではそれぞれ60万人のユダヤ人が殺されています。諸皇帝はユダヤ人に重税をかけて差別しましたし、セネカ(紀元65没)をはじめ多くの1、2世紀のローマの著述家たちがユダヤ人やその文化、特に安息日遵守と割礼を下劣な迷信として、非難、嘲笑しています。頃を同じくしてクリスチャンによる反ユダヤ文書が数多く出されており、それらの文書もローマの著述家たちと同じようにユダヤ人の習慣である割礼、安息日遵守を非難しています。

安息日非難の文書は各地の教父によって書かれていますが、クリスチャンを安息日から引き離し、日曜日のみを遵守させようとする文書の最も早い時期のものは2世紀半ばの殉教者ユスティアノスによるものです。彼はその反ユダヤ文書『トリュフォンとの対話』の中で安息日はユダヤ人のためだけのものであり、また『第一弁証論』の中で自分たちが初めの日に集うのはそれが「創造の初めの日」だからであり、同じ日に「救い主イエス・キリストが死から甦られたからだ」と述べています。

彼の安息日に対する否定的な考えは、東方教会などからの反対にもかかわらずローマの教会が他の教会にも押しつけようとした安息日の断食の導入に表されています。

このことは教父ヒュッポリタスや数名の教皇、アウグスティヌスなどの歴史資料によっても裏付けられています。教皇シルベスターはこの断食はキリストの死に対する悲しみを表すためのみならず、ユダヤ人と彼らの安息日のご馳走に対する侮蔑を示すためだと言っています。

数人の教父たちは、安息日の断食は、結果としてローマにおいては安息日の聖餐式を除外するように作用し、さらに一切の集会を禁止するようになっていったと証言しています。

このことはクリスチャンから安息日に対する尊崇の思いを奪い、日曜日を断食の安息日から解放される喜びの日として守る強化につながったのでした。

安息日の断食がいつごろに確立されたかははっきりしませんが、ヒュッポリタスは202年から234年の間に、「キリストが言われていない安息日の断食」についてローマで記しています。

教皇イノセント一世(401〜417年)は金曜日と土曜日に聖餐式を行わない伝統を確立しました。

教父ソクラテスは439年頃、ローマにおいて「ほとんどすべての世界の教会において毎安息日に聖餐を祝うが、ローマとアレキサンドリアのクリスチャンだけは古い伝統に基づき、これをやめている」と報告しています。

ソゾメンは440年ごろ、宗教的な集いに関して「コンスタンチノープルとほとんどすべての場所で人々は安息日と週の初めの日に共に集っている」が、このような「習慣はローマとアレキサンドリアにおいては守れたことがない」と言及しています。ローマとアレキサンドリアの教会が特に反ユダヤ色が強かったのです。

以上歴史資料から見てきたように礼拝の日が変えられてきた背景には、ローマ帝国の反ユダヤ政策がクリスチャンをしてユダヤ的なものから縁を切るようにしむけさせ、帝国の首都ローマではその傾向が顕著であったことがわかります。

ほとんどが異邦人からの改宗者によって占められていたローマの教会は、帝国内でしばしば反乱を起こすユダヤ人、ユダヤ教と自分たちを区別したいという意識があり、日曜遵守の採用と安息日毎の断食の推進により、安息日の地位を低めることにおいて先導的役割を担うことになったのでした。

主の復活の日と聖日礼拝を結びつけた記述が聖書にないとなると、安息日に代わる日としてなぜ日曜日が礼拝の日に選ばれたのですか?

ローマ帝国内で差別を受けがちなユダヤ人やユダヤ教のシンボルである安息日と違う日を選ぶとすれば、次の3つの理由から日曜日が最適であったことがわかります。

1)1世紀にはローマ帝国において天体による曜日の呼び方が広まり、週の初めの日が太陽の日、すなわち日曜日にされたことにより、週の最後の日、土星の日の安息日に優る印象があること。

2)2世紀から帝国内において、太陽や皇帝を太陽神として崇拝する考えが日曜礼拝の普及に貢献したこと。

3)初期のキリスト教の文書や絵画にキリストを「義の太陽」として描くことが一般的になっていったことが挙げられます。

すでに聖書から使徒たちには日曜日に復活を祝う考えのなかったことを示しましたが、日曜礼拝が始まったころに生存していたユスティノスもバルナバスも、日曜礼拝の第一の理由として復活よりも創造の初めの日であったことを第一に挙げていることは注目に値します。

ユスティノスの他にエウセビオスもヒエロニムスも「初めの日」に光が創造されたことを日曜日遵守の理由として挙げています。

光が創造された週の初めの日のほうが最後の日の七日目(安息日)より優れていると議論しています。

また反ユダヤ文書である『バルナバスの手紙』や『トリフォンとの対話』には日曜日を「第八日」と呼んでいますが、数字の7で表される安息日に対抗して、新しい時代の始まりとして8という数字を使用しています。

当時のキリスト教会が第七日安息日に対抗する礼拝の日を求めていったとき、サンデー(太陽の日)を選んだ背景には、ローマに存在していた太陽に対する信仰との強い結びつきがあったとされています。

そして、そのことを示す最も良い例証は、太陽神の誕生日とされた冬至の12月25日がキリストの誕生日とされたことです。

結論として言えることは、日曜日の聖日礼拝という習慣はキリストや使徒たちの権威に基づくものではなく、エルサレムの教会より、政治的、社会的、宗教的にユダヤ人と彼らの安息日との分離を明確にする必要に迫られ、異邦人改宗者の多かったローマから、しかも2世紀になってから始まったと思われるということです。

コンスタンチヌス大帝の改宗によりキリスト教が国教となり、彼が発布した日曜休業令によって日曜遵守(312年)は決定的なものになりますが、それ以後もローマ以外の地では第七日安息日が単独で、あるいは日曜礼拝と平行して守られていたことが歴史的に裏付けられています。

380年ごろに書かれたいわゆる『聖使徒の制定文(ConstitutionsoftheHolyApostlesⅦ.23)』には「安息日と主の日の祭りを守るように、なぜなら前者は創造の記念であり、後者は復活の記念だからである」と記されています。

4世紀後半、さらに5世紀になってもまだ創造の記念としての安息日は遵守されていたのです。また、中世のワルド派が第七日安息日を守っていたことは良く知られています。

以上第七日安息日を聖日として遵守する根拠を聖書と初代教会の歴史から見てきましたが、その後キリスト教信仰の中心的な教えであるキリストの復活と贖いの完成の記念として「週の初めの日」を聖日とする信仰が世界的に広まっていきました。

その3 安息日などの律法は十字架によって廃されたのであって、クリスチャンは守る必要がないことを聖書もはっきり示している。

コロサイ人への手紙2章には、「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。‥‥こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです(13,14,16,17節)」と書かれているのではありませんか?

パウロがここで扱ったのは、通常のクリスチャンではなく、異教の禁欲的、神秘的宗教の影響を受けたカルトであることを前後関係から理解することが重要です。

この偽教師たちが、様々な異教の戒律を教会員に強制し、あたかもそれが救いに必要なものであるかのように教え、キリストによる救いの確信を損なおうとしたのです。この教えの特徴は、「むなしい、だましごとの哲学」に基づく、「この世の幼稚な教え(口語訳「世を支配する諸霊」)」(8,20節)に対する恐れでした。

彼らは自分たちで作った規則で、「肉体の苦行」を伴う、「すがるな。味わうな。さわるな」(21,23節)というような禁欲的な定めで教会員を縛ろうとしました。また「御使い礼拝をしようとする者」や、幻を見たと主張する者もあったようです(18節)。

これに対してパウロは、キリストこそ「すべての支配と権威のかしら」(10節)であり、キリストにあって「すべての罪を赦し」「ともに生かしてくださ」るという救いの確信を与えようとしています(13節)。

このようにコロサイ人への手紙2章を注意深く学んでみると、コロサイのクリスチャンは、ユダヤ教から改宗した律法主義的なクリスチャンとはかなり違ったグループであることがわかります。

十字架に釘づけされ、取り除かれた「私たちを責め立てている債務証書」(14節)とは何でしょうか。

もしこれが安息日を含む道徳律としますと、別な問題が新たに生じてきます。それはイスラエルにこの律法を示し、与えたのは他ならぬ神ご自身だからです。この「証書」という言葉は聖書に1度しか出てきませんが、これは当時のユダヤ教の文献などから、罪の記録簿、罪の負債の証書であることが明らかになっています。

イエス・キリストはその負債を十字架の犠牲の死によって払い、債務証書を取りのけてくださったのです。私たちが訴えられ、不利になるのは、罪を犯すからであって、それを定めた律法に問題があるのではありません。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が、罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)と言われているのは、キリストが「肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」(3,4節)。罪の重荷から解放するために、律法そのものを破棄して自責の念を取り除いたのでは、一切の規範がなくなってしまうことになります。

重要なことは、ここでは契約や律法のことが議論されているのではないということです。律法という言葉もコロサイ人への手紙には1度も出てきません。

コロサイ2章16節の安息日とは何のことを言っているのでしょうか?

影に過ぎない「祭りや新月や安息日のことについて、だれにも‥‥批評させてはなりません」とパウロは言っていますが、彼が問題にしたのは、祭日や儀式そのものではなく、それらをキリストとの結びつき(6,19節)より重要視してその守り方を批評してくる異端偽教師たち(禁欲的グノーシス)の態度でした。『使徒の働き』やパウロの書簡を見ますと、パウロは、安息日、ユダヤの祭りを継続して守っていたことが書かれています。それらのことについて異端的な「天使礼拝におぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない」(口語訳18節)、とやかく言わせてはならないと述べています。

ここでの安息日は年毎のユダヤの祭りの安息日を指すという考えもありますが、それは「祭、新月、安息日」すなわち「年、月、日」という表現を、ガラテヤ4章10節の「日と月と季節と年とを守」るという表現と比較してみても妥当ではないと思われます。年毎の祭りの安息日は、「祭り」という言葉の中にすでに含まれていると考えられ、これはやはり週毎の安息日と考えるべきでしょう。

またここで安息日と訳されているギリシャ語の複数形の「サバトン」はいつも週毎の安息日を示し、年毎の安息日には必ず別の表現が用いられています。またこのサバトンという言葉は、半「週」の間(ダニエル9:27)、「週」の初めの日(マルコ16:2)のように「週」と訳すことができます。

いずれにしてもコロサイ2章においては、古い契約における礼典律、道徳律の問題ではなく、禁欲的な異教の影響を受けた異端の問題を扱っているという点が重要です。

「すがるな、味わうな、さわるな」などという戒律や、体の苦行を伴うものもモーセの律法にはありませんし、「祭りや新月や安息日」と記されているものも、旧約の礼典律と違った、年、月、週毎の儀式である可能性も否めません。偽教師たちの定めた戒律などは、影のような、「何のききめもない」(コロサイ2:23)ものであり、本体であるキリストに結びついている者には、異端の教えの批評など意に介することはないというのがパウロの勧告です。

ローマ14章5節には「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい」とあります。「日」にこだわることはないのではありませんか?

この聖句が、聖書が第七日安息日を神が聖別し、祝福をもって聖日としたことを否定する聖句として使われることがあります。しかし、前後関係を調べてみますと、この聖句も第七日安息日の否定を支持するものでないことは明らかです。

ここでは、食べ物のこと、肉食、菜食のこと、特定の日を尊ぶこと、飲酒のことなどが取り上げられていますが、これらはモーセの律法の礼典律や道徳律(第七安息日)を取り上げているのではありません。

「弱い人は野菜よりほかには食べません」(2節)とか「肉を食べず、ぶどう酒を飲まず」(21節)といった表現がありますが、モーセの律法には菜食、禁酒の戒めはありません。パウロはこの当時存在していた様々な慣習について言及しているわけですが、問題は、気にしなくてよいことを気にしている弱い人、またそれを軽蔑する人がいたことです。

食べる人は食べない人を見下し、食べない人は食べる人を裁いていたのです。パウロは信仰の本質に関係ないことで気に病んだり、互いを裁き合うのをやめるようにと訴えています(13節)。彼は何かを追求するとするなら、「平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう」(19節)と訴えています。

6節には「日を守る人は、主のために守っています」とありますが、パウロは彼らを弱い人とは考えていなかったと思われます。なぜならパウロは特定の日を重んじ、安息日は会堂で過ごすようにしていましたし(使徒13:14,42,17:2,18:4)、五旬祭はぜひエルサレムで過ごしたいと旅を急いだことが記されています(使徒20:16)。

そしてそういう自分を強い者、「力のある者」の一人とみなしています(ローマ15:1)。重要なことは何に基づいて、どのような動機からそのことをしているかであり、それぞれ神の御前に良心に従って歩み、人を裁かないことです。

ガラテヤ4章9〜11節でパウロは、「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています」と述べています。日を守ること、たとえば安息日を守ることにこだわることは、福音による自由を棄てることにはなりませんか?

ここでもコロサイ2章と同じように、順序は逆ですが、人々が守っていた日、月、年について述べられています。

第七日安息日を守る必要はないと主張する人々は、このガラテヤ4章を用いて、安息日遵守にこだわることは、律法の行いによる義に逆戻りしたガラテヤ人と同じ過ちを犯すことになると言います。

彼らはガラテヤ人の問題は、福音を聞いて信じたから救われたのに、依然として律法の行いに頼ろうとすることにあるのだから、ガラテヤ人の守ろうとしている日は主として第七日安息日のことを指すのだと解釈します。

しかし、彼らはそこでコロサイの場合と同じ釈義上の誤りを犯すことになります。なぜなら彼らが逆戻りしてしまった4章9節の頼りにならない「幼稚な教え」(口語訳「支配する諸霊」)というのは、コロサイ2章と同じ異教の神々による教えとその霊だからです。

多くの学者が「支配する諸霊」とは森羅万象を支配する、地、水、空気、火、星々などの霊であると指摘しています。ガラテヤ人が守っていた日、月、季節、年も異教の暦によるもので、モーセの律法の安息日や祭りとは別のものです。

パウロは、彼らがなぜ神を知りながら、諸霊の下に逆戻りして、もう一度奴隷のように仕えようとしているのかいぶかっていますが、彼らが守っていた日、月、季節、年などは、ユダヤの礼典律ではありえません。なぜなら改信前の彼らは「本来は神でない神々の奴隷」(ガラテヤ4:8)だったわけで、モーセの律法など知りようがなかったはずだからです。

以上パウロが、第七日安息日はもはやクリスチャンが守る必要のないものであり、むしろ安息日遵守は福音を否定する行いであるといわれる聖句を調べてきました。

これらに共通して言えることは、一見第七日安息日を守ることを否定していると思われる聖句も実はそうではなく、禁欲的な当時の異教の教えに影響を受けた偽教師とパウロとの戦いであったことがわかります。ユダヤの祭りや儀式、そして第七日安息日が争点になっていたのではなかったのです。

パウロをはじめ改宗した異邦人たちも、パウロの指導のもとではユダヤの宗教暦に切り替えていたことが想像されます。

コリント人への手紙の中でも、パウロは日曜日を当時一般に用いられた「太陽の日」という言い方に変えてユダヤ式に「週の初めの日」(カタミヤンサバトン)と呼んでいます(Ⅰコリント16:2)。

またパウロは「真実なパンで、祭りをしようではありませんか」(Ⅰコリント5:8)と呼びかけていますが、ユダヤの宗教暦をパウロが日頃教えていなければこれらの勧めはコリントの教会員には意味をなさなかったことでしょう。

最も重要で明らかな点は、もしパウロが第七日安息日を否定し、週の初めの日に変えようとしたのであれば、これは割礼のような一生に一度のことではなく毎週のことですから、大論争になっていたはずです。ところが新約聖書がその種の論争について全く沈黙を守っていることは、その変更がなかった何よりの証拠であると思われます。

その4 クリスチャンは「恵みの下」にあり、「律法の下」にないのですから、もはや律法に縛られる必要はないのであって(ローマ6:14)、安息日や律法にこだわるSDA教会は「キリストから離れ、恵みから落ちて」(ガラテヤ5:4)しまっている。

ガラテヤ5章4節には「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」とありますが、安息日遵守にこだわるのはキリストの恵みによる救いを否定する律法主義ではないでしょうか?

律法と恵み、律法と福音の関係について誤解と混乱が見られます。パウロの書簡には律法に関して一見否定的に思える聖句が多くありますが、律法の何を否定しているかを見分けることが重要です。

十戒をはじめ聖書の律法を定めたのは神ご自身であり、それは人間の神と人に対するあり方を示す指針です。律法そのものは人間を変え、救ってはくれませんが、人間に「罪の意識を生じ」させ、救い主のもとに私たちを「養育係」として導いてくれます(ローマ3:20,ガラテヤ3:24)。

律法が罪の自覚を生じさせるからといって、律法が悪いのではなく、それに従い得ない人間に問題があるのです。「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう」(ローマ7:7)。律法は清い神の義の品性の写しであり、鏡のように人間の罪の姿を映し出すのです。「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです」(ローマ7:12)。「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです」(ルカ16:17)。制定しておきながら後から廃止しなければならないような律法を与えたとしたら、それは立法者の責任です。義の標準としての律法は変わることも廃ることもありません。

聖書の中で律法が否定的に扱われるところは、みな人間が律法を救いの手段として、行いによって自分を救おうとすることに対してです。人間は誰ひとりとして自分の行いによって神の前に義を主張できる者はなく、律法の行いによって救いを獲得しようとすることは、恵みによる赦しと救いを否定することになるからです。

パウロはそのことについて、「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。

これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」(ガラテヤ2:16)と述べています。

プロテスタント信仰の基本原理である信仰による義認について、パウロはさらにローマ3章で、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。‥‥人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(24,28節)と明確に述べています。

こと救いに関しては二者択一、律法の行いによる義か、信仰による義か、二つに一つです。

キリストの恵みによって救われることを願うなら、律法の行いによる義は否定されなければなりません。パウロが律法を攻撃しているときは、いつもこの救いの方法としての律法です。

神がお定めになった律法そのものを否定したり、攻撃したことは一度もありません。同じ3章の続きでパウロは、「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

かえって、律法を確立することになるのです」(31節)と述べている通りです。そうでなければ無律法主義に陥ってしまいます。

大切なのは動機です。律法に従い、それを主からの力をいただいて守ろうとすることが律法主義なのではありません。

自分の力でそれをなし、それを救いの根拠にしようとすることが律法主義なのです。

安息日遵守であろうが、日曜遵守であろうが、それによって救いを得ようとするなら律法主義となるのです。

聖書には「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にある」(ローマ6:14)とありますし、「キリストが律法を終わらせられた」(10:4)ともあります。恵みのもとにあるクリスチャンは律法から解放されているのではないのですか?

この聖句も今まで学んできたように、クリスチャンは律法の何の下になく、律法の何が終わったのかを前後関係から明らかにすることが大切です。

ロ−マ9章30節からパウロは救いの方法としての律法について論じています。「義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。

しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです」(30〜32節)。さらに続けて「彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです」(10:3)と、イスラエルが救いの方法として自分の律法の行いによる義により頼み、神の義すなわち救い主の贖いに対する信仰による義を拒んだことを指摘しています。そこでパウロは4節に、「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」(「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」口語訳)と、救いの方法としての律法の終結を宣言したのです。

ローマ8章1節には、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」とありますが、「律法の下にない」というのは、違反者を罪に定める律法の刑罰と断罪の下にないと解することができます。

律法が悪いのではなく、律法に従わない罪、従い得ない罪人とその心が問題なのです。キリストによる解放は、律法に従うことからの解放ではなく、一つは律法の裁き、断罪からの解放です。これはイエス・キリストが第二のアダム、人間として罪のない生涯を送り、しかも罪人として、私たちに代わって律法が要求する罪の価の死を十字架で払ってくださったからです。

8章2節からパウロは解放の意味を明らかにしています。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分のみ子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」(2,3節)。

このようにして律法が要求する罪の刑罰はキリストの犠牲によって満たされ、赦しの道が罪人に開かれたのです。

しかしキリストの救いはそれで終わりではないのです。罪の赦しにとどまらず、律法に調和しない人間の罪の心が変えられて、罪そのものから解放され、救われてはじめて救いが達成されるのではないでしょうか。

すなわち神の律法に従おうとしない罪の思い、反抗心からの解放です。キリストの恵みの霊の働きによる生まれ変わり、新生体験による解放です。その解放と救いの目的についてパウロは4節に「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」と言っています。6、7節には「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」と言っています。

この神に対して反抗し、律法に服従しようとしない肉の思い、罪の心が変えられていく過程が聖化です。キリストの恵みに応えようとする者は、このお方を心の王座にお迎えし、内住するキリストの御霊によって新しいいのちを生きることを願い求めるのです。

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」(11節)。

キリストは「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです」(ヨハネ15:10)と言われましたが、クリスチャンが安息日をはじめ神の律法に従うのは、救われるためではなく、すでに無条件のキリストの恵みによって救われた者として、その愛に対する応答としてなのです。

安息日を守ることが救いの条件でないとすれば、それを守る意味をどのように考えているのですか?

日本人が週休を享受できるようになってからまだ100年も経っていませんが、聖書の民は数千年も前から、使用人も含めて毎週休みの日が与えられていたというのはすばらしいことです。

これは人間のみならず動物の健康のためでもあり、まさしく愛の律法だったのです(出エジプト23:12)。律法の目的が、人間を守り祝福を与えるためであるということは十戒のすべての条文に言えることですが、第5条から第10条までは、聖書の神を信じなくてもこれらを守ろうとしている人は多くいます。

しかし第4条に示された週の第七日を覚え、この日を聖とするのは、人間が神によって造られたものであることを認め、この日を創造主としての神の主権を認めるしるしの日とするからです。

申命記5章の十戒は、安息日を守る理由を、「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである」と述べています。

奴隷であったイスラエルが強大なエジプトのパロの力から解放されたのは、ひとえに神の介入と救いの力によるものでした。神の民にとって安息日は創造の記念日であると同時に、救いと解放の記念日でもあったのです。

新約聖書においてはへブル人への手紙3、4章が、安息日と福音、行いによらない信仰による義との関係について教えてくれています。金曜日の夕方、創造の業を終えられた主は「非常に良かった」と言われて7日目に休まれ、人間をその休みへと招いてくださいました。

アダムとエバのために備えられた園において二人が神と共に最初に過ごした1日は安息日でした。彼らの生活は自分たちに課せられた義務や課題から始まったのではなく、すでに用意し完成された神の業を喜び祝うことから始まっています。

人間は自分の業による何の功績もなしに、神と共に創造を祝い、休むことが許されたのです。

このようなわけで、私たちは安息日に休むことによって自分の功績や業を脇に置いて、神がすでに成し遂げられた業を感謝して受け入れる以外にないことを表すのです。

カール・バルトは著書『創造論』の中で、「安息日が禁じていることは、働きではなく働きへの信頼である」。また安息日がめざしているのは、「この完全な明け渡しと降伏である」と述べています。

イスラエルはその不信仰のゆえに神の安息にあずかることができませんでした(3:19)。へブル人への手紙の著者は福音を聞いたクリスチャンたちが、信仰を正しく働かせて、安息にあずかり損なうことがないように呼びかけています(4:1〜3)。

イスラエルのある者たちが安息にあずかることができなかったのは、自分の業に頼り、神の約束に全的に信仰によって信頼しようとしなかったからです。

金曜日の夕方創造の業を完成し、「非常に良かった」と言われて安息日に休まれたこのお方が、同じ金曜日の夕に贖いの業を成し遂げられ、「完了した」と言われて安息日に墓に休まれたのです。

そういうわけで、安息日は創造の記念日であると同時に、キリストの贖いの業によって、人類が罪と死の奴隷から解放された記念日でもあるのです。創造も、贖いも、100%神の業であり、私たち人間はそこに何も自分の業を付け加えることはできません。ただ感謝して神の恵みの業を受け入れるのです。

「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです」(4:9,10)。

安息日に私たちが仕事を休むということは、自分の業を放棄して、神が備えてくださっている贖いと安息を信仰によって受け入れることを意味します。

安息日にクリスチャンが味わう安息と平安は、この神の贖いの業に信仰を持って全く委ね、安んじることから来る安らぎと平安です。

安息日遵守は律法主義的な業のように思われがちですが、安息日こそこのように自分の行いによる救いを放棄した「信仰による義」の象徴なのです。

ユダヤ教思想家のヘッシェルは、「安息日は週日のためにあるのではない。週日が安息日のためにあるのだ。安息日は生存という山の峠ではなく、頂上である。‥‥安息日は人類が神の宝庫から受けとったものの中でもっとも貴重な贈り物である」と言っていますが、私たちセブンスデー・アドベンチストは、創造と贖いの記念日としての聖書の第七日安息日を、そのような神からの貴重な贈り物として大切に守っていきたいと願っています。

なぜならこの日には他のどの日によっても代えがたい豊かな福音の真理が内包されているからです。

この記事は、白石尚『そこが知りたいSDA57のQ&A』からの抜粋です。

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