この記事のテーマ
私たちは通常、聖書に出てくる家系図や、長い項目リストを読み飛ばしてしまいます。しかし主は、理由があってそれらを聖書に収録されました。聖書の主は、細部にこだわれる神です。主は細かい部分に気づかれます。だから、私たちは神から忘れ去られないのです。
このようないくつかの家系図の例は、神が私たちの家族についてすべてご存じであることを明らかにしていますし、物事のリストは、ほかの人たちが「取るに足りない」とみなすかもしれないものにさえ、神が気を配っておられることを物語っています。イエスは、神がすずめを気遣い、私たちの髪の毛さえ数えておられると言われました。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(ルカ12:6、7)。このような細かいことを大切にされる神は、私たちをも大切にするとともに、私たちを悩ますあらゆることの細部をもご存じです。
それゆえ、私たちは全幅の信頼を寄せ、信頼関係を深め、主が私たちの生活のあらゆる領域を気にかけてくださっているという確信に安んじることができます。そのことは私たちの慰めであり、そうあるべきですが、一方で、このことから、私たちもあらゆる領域を気にかける必要があることを学ばねばなりません。
歴史の神
問1
エズラ1:9~11、ダニエル1:1、2を読んでください。ダニエル書の聖句は、エズラが述べていることを理解するうえで、いかに助けとなりますか。
ダニエル書では全体像が提供されている一方、エズラ記では詳細がいかに述べられているかに注目してください。しかしいずれの聖句もともに、主がすべてを支配しておられることを示しています。
「諸国の歴史は、今日われわれに語っている。神はすべての国とすべての人間に、神の大いなる計画の中における場所をお定めになられた。今日、人々もまた国々も、誤られることのない神の手の中にあるおもりによって量られているのである。各々は自分自身の選択によって、各自の運命を決定している。そして神はそのすべてを支配して、みこころを達成しておられるのである」(『希望への光』586ページ、『国と指導者』下巻143ページ)。
問2
ダニエル5章を読んでください。これらの聖句は、ベルシャツァルへの裁きについて、どのようなことを教えていますか。
バビロンは紀元前539年10月に滅びました。その時、メディアとペルシアの王キュロスがバビロンを征服したのです。愚かにも自分の成功、名声、富を頼りにしたベルシャツァルは思い上がり、最終的に彼が殺されることになる夜に騒がしい宴会を開いていました。天来の手が王宮の壁に、彼の治世は数えられ、じきに終わる、と記しました。ベルシャツァルは自分の運命も偉大なネブカドネツァル王の回心の物語も知っていたのに、教訓を学び取りませんでした。私たちが神の警告に耳を傾けず、神の命令に従わないとき、常に悲劇が待っています。
預言者ダニエルはいつもそこにいましたが、ずっと無視されていました。神が聖であられるという感覚や、生活の中に存在されるという感覚が失われるとき、私たちは困難や問題や悲劇を伴う道を歩むことになり、その道は最終的に死に至るのです。
「自分たちの町に」
問3
エズラ2章とネヘミヤ7章のリストにざっと目を通してください。どのようなことに気づきますか。
ネヘミヤ7章においてエズラ2章(ゼルバベル、イエシュアとともにバビロン捕囚から帰還した人たちのリスト)が繰り返されているのは意図的です。ここでもまた、これらのリストは退屈に思えるかもしれませんが、一つの重要な点を明らかにしています。神は、私たちが気にかけていないかもしれない細かいことを気にかけておられるという点です。
エルサレムの城壁は今や完成しました。そして聖書のこれらの箇所は、エズラやネヘミヤの世代の帰還者たちが、この偉業のためにみな貢献していたことをはっきり示しています。たとえ、彼らにこの成功をもたらされたのが神であったとしても……。今の世代は、たとえその働きが複雑で、多くの妨害に遭い、期待したように早くは完成しなかったものの、先の世代の業績の上に建てたのです。
エズラとネヘミヤの指導は高く評価されるものでしたが、人々も自分の役割を果たしました。それぞれのグループが、異なる時間に異なる仕事に携わりましたが、結果はすばらしいものでした。始め(エズラ2章)と終わり(ネヘミヤ7章)はつながっており、第二神殿が建設されただけでなく、エルサレムの町も改造され、しっかり完成しました。
問4
ネヘミヤ7:72(口語訳7:73)を読んでください。この聖句は、神の御旨の通りにしたいという願いを彼らがいかに実行したかということについて、どんなことを教えていますか。
「イスラエル人は皆それぞれ自分たちの町に住んだ」――いろいろな意味で、帰還も再建もすべてが驚くべきことでした。何年も前に自分たちの町が荒廃し、神殿が破壊され、土地が荒れてしまった民が、今やその同じ土地、同じ町に戻り、すべてを(神殿さえも)再建していたのです。それは彼らにも、また周囲の人々にも奇跡と思われたに違いありません。しかし、それはすべて、神の御旨と御約束に従ってのことでした。
祭司はどこに
きのうの研究で見たように、ユダの人々をバビロンから連れ戻した預言の成就は、間違いなく、驚くべきことでした。
しかし、人間が関わるあらゆることと同様に、問題はありました。そして、その大きな問題の一つは、捕囚後の回復というすばらしい約束にもかかわらず、ユダの人々の多くが彼らの先祖の土地に帰りたいと望まなかったことでした。つまり、彼らはバビロンに残りたがったのです。
なぜそのようなことになったのでしょうか。
問5
とりわけ15節に焦点を合わせて、エズラ8:1~15を読んでください。ここでの大きな心配事は何でしたか。イスラエル国家をかつての土地に再建したいと願う人たちにとって、なぜそれが心配事になるのですか。
実のところ、バビロンにいたユダの人々は、レビ人も含めて、全員が帰還を望だのではありませんでした。いくつかの要素が絡んでいたかもしれません。彼らの多くは新しい土地で生まれ育ち、その土地が彼らの知るすべてでした。彼らの見知らぬ土地へ、長くて、間違いなく危険な旅をして戻ることを望まなかった人も多かったかもしれません。しかし最終的に、さまざまな困難にもかかわらず、彼らは神殿での奉仕のために十分なレビ人を連れて行ったことがわかっています(木曜日の研究を参照)。
「捕囚の地にとどまったユダの人々は、それまでにほぼ150年間、そこにいたのである。古代都市ニップールの発掘作業は、多くの書類を白日の下にさらし、それらの書類は、アルタクセルクセスⅠ世の治世に多くの裕福なユダの人々がメソポタミア地方に住んでいたことを明らかにしている。それゆえ、エズラと仲間の指導者たちにとって、同行したあれほど多くの人を説得して帰還させることは難しい課題であったかもしれない。これらの帰還入植者たちは、バビロンにいるよりもはるかにわずかな快適さの中、かつての祖国で困難な開拓者生活を送ることしか期待できなかった。こういったことを考慮すれば、かつての祖国で同胞と運命を共にするよう、エズラがおよそ2000の家族の説得に成功したというのは驚きである」(『SDA聖書注解』第3巻376ページ、英文)。
神の前に身をかがめる
問6
申命記30:1~6を読んでください。イスラエルの人々に対して、ここではどのようなことが約束されていますか。この約束を、エズラとネヘミヤはどう感じ、どのような意味にとらえたと思いますか。
エズラとネヘミヤは預言を知っていました。2人は、神がイスラエルの人々を捕囚の身から連れ戻してくださることを知っていたのです。私たちはネヘミヤ9章で、彼らがイスラエルの歴史と彼らの問題の理由を理解していたことを見ました。それと同時に彼らは、自分たちの罪にもかかわらず神が憐れみ、導いてくださっていることもわかっていました。
それゆえ、彼らは主を信頼し、捕囚の身からの帰還を成功させてくださると信じていました。しかしそれらの約束は、彼らが途中で多くの問題に遭遇することはないという意味ではありませんでした。私たちはこれまで、今期のほとんどにおいて、神の約束の中にあっても試練や苦難に遭遇したことを見てきました。
問7
エズラ8:16~23を読んでください。ここでの問題は何でしたか。彼らはいかにそれに応じましたか。
約束にもかかわらず、エズラは、その旅がどれほど危険であるかを知っていました。それゆえ、断食と神の前に身をかがめることは、彼らが成功のためにどれほど神に頼っているのかを認める方法でした。この時点で、彼らを待ち受ける多くの危険があるために、助けと保護を王に求めるという考えが、少なくともエズラの頭には浮かんでいました。しかし最終的に彼は、身を守る護衛団を伴ったネヘミヤとは対照的に(ネヘ2:9)、そうしないことを選んだのです。どうやらエズラは、もし彼がそのようなお願いをすれば、主の体面を汚すことになると感じたようです。というのも、彼は王に、「わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります」(エズ8:22)と常々言っていたからでした。この場合には、それがうまくいきました。エズラがのちに、主が自分たちを守ってくださり、無事に目的地へたどり着いた、と記しているからです。
聖なる町で
問8
ネヘミヤ11:1、2を読んでください。この箇所では、どのようなことが行われていますか。なぜ彼らは、だれが(ほかの町ではなく)エルサレムに住むべきかを知るためにくじを引く必要があったのですか。
ネヘミヤ11章は私たちに何を教えているのでしょうか。捕囚生活ののち、この土地に戻った新参者たちの中から、エルサレムに新しく居住する人を得る必要がありました。
どうやら住みやすさにおいては、町の中よりも、田舎ほうが上だったようです。人々は自分の土地、祖先から受け継いだ土地を持っていました。その土地を捨て、エルサレムに行って住むことは犠牲であり、多くの人が、もしそうしたら根を失ってしまう、と間違いなく感じました。生活は新たな課題を抱えるでしょうし、都会生活は農村地域の生活とは違います。新しい、見知らぬ環境へ移ることは、いつでも困難なことです。
福音が広められるべき新しい町や国へ引っ越すというのは、どれほど大変なことでしょうか。大都市伝道には、新しい冒険や困難を引き受けようという意欲が求められます。
「私たちの働き人は、なすべきほどには外に向かって伝道していない。私たちの指導的立場の人は、成し遂げられねばならないその働きに目覚めていない。これまでにほとんど働きがなされておらず、救い主の速やかな帰還の警告を受けるべき何万もの人がいる都市のことを考えるとき、私は、“霊”の力によって、また滅びゆく魂に対するキリストの愛に満たされて、その働きに出て行く男女を見たいと強く願う」(『教会への証』第7巻40ページ、英文)。
問9
ネヘミヤ12:1~26には、なぜ祭司とレビ人の長いリストが掲載されているのですか。彼らと、同じ章の後半部分(ネヘ12:27~47)に記されているエルサレムの城壁の奉献の間には、どのようなつながりがありますか。
神は、物事が適切な方法でなされることを望んでおられます。偉大なことをなすには、その前に、献身し、聖別された人たちが必要です。これらの祭司の家族は、ネヘミヤを助けて城壁を築きました。外部からの干渉を受けずに、生ける神を安全に神殿で礼拝できるようになるためです。城壁は安全のために重要でしたが、献身的な祭司がいなければ、真の礼拝は危機にさらされます。それゆえ、すべての人がさまざまな働きにおいて、果たすべき自分の役割を持っていました。
さらなる研究
参考資料として、『キリストへの道』の「弟子としての証拠」の章を読んでください。
「世にはキリストのゆるしの愛を知り、本当に神の子になりたいと望んでいながら、自分の性格が不完全で、生活にはあやまちが多いために、果たして自分の心が聖霊によって新しくされたのだろうかと疑う人がいます。こうした場合に、決して失望、落胆してはなりません。私たちは何度となく、欠点やあやまちを悔いてイエスの足もとに泣き伏すことでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。たとえ敵に敗れても、神に捨てられ、拒まれたのではありません。キリストは神の右に座し、私たちのために執り成しておられます。……神は、あなたをご自分のもとに取り戻し、みずからの純潔と聖潔をあなたのうちに反映したいと望んでおられます。ただ神に従いさえすれば、すでにあなたのうちに良いことを始められた神は、イエス・キリストの日までその働きを続けてくださるのです。ですから、もっと熱心に祈り、もっと深く信じましょう。自分の力に信頼できなくなったとき、あがない主の力を信じ、私たちを助けてくださる主を賛美しましょう」(『キリストへの道』改訂第3版文庫判90、91ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2019年4期『エズラ記とネヘミヤ記─忠実な指導者を通して神がなしうること』からの抜粋です。