【創世記】起源(2013年1期SSガイド本より)

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目次

この記事について

*本記事は、L・ジェームズ・ギブソン(英:Lay James Gibson)著、安息日学校ガイド2013年1期『起源』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

第1課 天と地の創造者、 イエス

第1課 天と地の創造者、イエス

自らが創造するものよりも偉大なもののみが、それを創造することができます。したがって、宇宙よりも偉大な存在者のみが宇宙を創造することができました。この存在者が聖書に啓示されている神、つまり私たちが礼拝し、仕える神です。なぜなら、ほかの何にも増して、神は私たちの創造主だからです。

この神、つまり宇宙を創造し、宇宙空間に何十億もの銀河をちりばめられた方が、地上に来て、人間として私たちのうちに住み、驚くべきことに、私たちの罪を御自身に負われたのです。

私たちは時々、「信じられないほどいい話」を耳にします。しかし、堕落し、苦痛に満ちた世界に住む罪深い私たちにとって、私たちの創造者の愛、つまりキリストの人格において世に下り、決して切れることのない絆で御自身を私たちに結びつけられた方の大いなる愛についての素晴らしい真理を知ること以上に「いい話」がほかにあるでしょうか。

このような素晴らしい真理に応答するために、私たちはどのように生きたらよいでしょうか。

初めに

「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)。

この短い聖句に、多くの深い真理が含まれています。その最も深遠な真理の一つが、宇宙にはそれ自体の始まりがあるということです。この考えは今日の私たちにとってはそれほど不思議に思われないかもしれませんが、被造物が永遠の昔から存在しているという古来の信仰に真っ向から対立するものです。宇宙に始まりがあるという考えが一般的に受け入れられるのは、「ビッグバン」(宇宙大爆発)生成論が確立される20世紀以後のことです。それまでは、宇宙がつねに存在したと、多くの人々は信じていました。宇宙が創造されたという考えに多くの人が反論するのは、それが何らかの創造者を暗示させるからです(事実、ビッグバンという呼び方は創造された宇宙という考えをあざけることを意図したものでした)。しかし、宇宙に始まりがあるという証拠が明らかになるにつれて、少なくとも今のところは、ほとんどすべての科学者がそれを受け入れています(かつては神聖不可侵と思われていた科学的な見解ですら、しばしば変更され、論駁されています)。

ヘブライ11:3を読んでください。創世記1:1と同様に、ヘブライ11:3は私たちの現在の知識では説明できない神秘と事柄に満ちています。しかし、この聖句は、宇宙が前から存在した物質から形成されたのでないことを私たちに教えているように思われます。宇宙は神の言葉の力によって創造されました。つまり、物質とエネルギーは神の力によって存在するようになりました。

何もないところからの創造は“エクス・ニヒロ”(無から)の創造として知られています。私たちはよく、いろいろな物を作ることのできる人間を賞賛しますが、人間は何もないところから創造することはできません。私たちは前からあった物質の形を変えることはできますが、“エクス・ニヒロ”から創造する力を持っていません。それができるのは神の超自然的な力だけです。これは神と人間の決定的な違いの一つであって、私たちの存在そのものが創造主に依存していることを思い出させます。

事実、創世記1:1の「創造された」という動詞は、神の創造活動に関連してのみ用いられるヘブライ語の基語から来ています。人間ではなく、神だけが、この種の創造を行うことができます(ロマ4:17参照)。

天は物語る

問1

「天は神の栄光を物語り大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく声は聞こえなくても」(詩編19:2〜4—ロマ1:19、20参照)。これらの聖句が真理であることを実感したことがありますか。現代科学はどんな意味で、創造主としての神の力と知恵をさらに深く理解する助けになりますか。

いかなる種類の宇宙も、生命を維持することはできません。事実、生命が存在するためには、宇宙はきわめて精密に設計されていなければなりません。まず、安定した物体が創造されるためには、あらゆる物質の構成要素である原子が十分に安定していなければなりません。原子の安定度は原子の各部分を支える力に依存しています。原子は互いに引きつけ合い、かつ反発し合う分子で充満しています。この牽引と反発の力は微妙なバランスを必要とします。もし牽引力が強すぎると、大きな原子だけができ、水素がなくなります。水素がなければ、水も、したがって生命もありません。もし反発力が強すぎると、水素のような小さな原子だけができ、炭素や酸素ができません。酸素がなければ、水も生命もありません。ご存知のように、炭素もあらゆる生命に欠かせないものです。

さまざまな種類の多くの化合物を生み出すためには、原子は安定していると同時に、相互に作用し合う必要があります。生命に必要な化学反応を可能とするためには、分子を支える力と分子を破壊する力との間にバランスが必要です。

この宇宙が生命に正確に適応しているのを見て、科学者たちは驚嘆します。彼らの多くは、この宇宙が一人の知的存在者によって設計されたように見えると言っています。

生命が存在するためには、世界はまた賢明に設計されていなければなりません。温度の範囲は生存に適したものでなければなりません。よって、太陽からの距離、自転の速度、大気の組成などはすべて適度のバランスを保っていなければなりません。その他の多くの細部において、世界は注意深く設計されていなければなりません。じつに、神の知恵がその被造物のうちに現されています。

御言葉の力

問2

エレミヤ書51:15、16、詩編33:6、9を読んでください。天地創造には、神の知恵のほかに、どんな属性が現されていますか。この属性は天地創造にどのように現されていますか。この真理は私たちにどんなことを教えていますか。

神がどのようにして創造の業をなさったかを正確に知ることはできませんが、それが神の力強い御言葉によってなされたと書かれています。宇宙のあらゆる部分にあるあらゆる力は、神の御言葉にその起源を持っていました。この世界のあらゆる燃料に含まれるあらゆる力は神の力から出ていました。宇宙全体のあらゆる重力、軌道上を回るあらゆる星、あらゆるブラックホールは神の力から出ていました。

最大のエネルギーはたぶん、原子そのもののうちにあります。わずかな物質が大きなエネルギーに変換される核兵器の威力を見れば、そのことがよくわかります。しかし、科学者によれば、すべての物資が大きなエネルギーを含んでいます。もしわずかな物質が核兵器のような莫大なエネルギーを生み出すとすれば、全世界の物質に蓄えられているエネルギーの量はどれほどになると思いますか。しかし、それも宇宙の物資に蓄えられているエネルギーに比べれば無に等しいものです。宇宙を創造するために用いられた神の力を想像してみてください。

神の創造の働きはすべて「自然の法則」によって制限されると、多くの科学者は信じていますが、これは聖書に反する考えです。神は自然の法則によって制限されるお方ではありません。むしろ神が自然の法則をお定めになったのです。神の力は、私たちが「自然の法則」と呼ぶ型に必ずしも従うとは限りませんでした。

たとえば、基本的な「自然の法則」の一つに、「質量およびエネルギー保存の法則」と呼ばれるものがあります。この法則によれば、宇宙における物質とエネルギーの総量は一定です。もしこの法則が絶対的なものであるなら、どのようにして何もないところから宇宙が出現するのでしょうか。神の創造的な御言葉は科学の「法則」によって束縛されることはありません。神は御自分のあらゆる被造物を支配し、思いのままに御心を遂行されます。

天と地の創造者

問3

創世記1:1〜3、14、コロサイ1:15、16、ヘブライ1:1、2を読んでください。新約聖書の著者たちは創造主をどのように特定していますか。その答えはどのようなことを暗示しますか。

ヨハネはイエスを「言」(“ロゴス”)と表現し、彼を神と同等視しています。さらに詳しく言えば、イエスは万物を創造された方です。ヨハネの時代においては、“ロゴス”という言葉は創造的な原則を表すために一般的に用いられました。ヨハネの読者は創造的な原則あるいは創造者としての“ロゴス”の概念について知っていたことでしょう。ヨハネはこの一般的な思想をイエスに当てはめ、イエスが真の創造者であると言いました。人となって私たちのうちに住まれたロゴス、イエスは初めに存在されただけでなく、宇宙を創造された方でした。つまり、創世記1:1は、「初めに、イエスは天地を創造された」と読むこともできるわけです。

コロサイ1章にあるパウロの言葉も、ヨハネの言葉と同様に、イエス・キリストを創造主と認めています。イエスによって、万物は創造されました。パウロはほかに二つ、イエスの属性を付け加えています。第一に、イエスは見えない神の姿です。私たちは罪深い存在であるため、父なる神を見ることができません。しかし、イエスを見ることはできます。神がどのような方であるかを知りたいと思うなら、イエスの生涯について学ぶことです(ヨハ14:9)。第二に、パウロはイエスを、「すべてのものが造られる前に生まれた方」と呼んでいます(コロ1:15)。この文脈においては、「すべてのものが造られる前に生まれた方」とは、起源でなく、地位をさします。長子は家族の長であって、財産を受け継ぐ者でした。イエスが「すべてのものが造られる前に生まれた方」であるというのは、イエスが創造主として、また受肉(私たちと同じ人性をとられたこと)を通して、正当な人類家族の長であるという意味です。イエスは創造された方ではありませんでした。イエスは永遠から父なる神と共におられました。

ヘブライ1:1、2はコロサイの聖句と同じ論点を繰り返しています。イエスは万物の相続者と定められた方、世界を創造された方です。加えて、イエスは神の性質を正確に表す方、別の言い方をすれば神の姿です。

私たちと共におられる創造主

問4

ヨハネ2:7〜11、6:8〜13、9:1〜34を読んでください。これらの聖句は神の創造力についてどんなことを啓示していますか。

これらの奇跡はそれぞれ、神御自身が創造された物的世界に対する神の力を私たちにかいま見させてくれます。

まず、水を直接ぶどう酒に変えるためには、どのようなプロセスが必要とされるのでしょうか。私たちにはわかりません。実際、イエスがここでなさったことを行うために、少なくとも私たちが現在知る範囲の自然の法則を超えた行為がなされています。

魚とパンの奇跡では、イエスは5つのパンと2匹の小さな魚を取り、群衆を充分に養い、余ったパン屑が12の籠いっぱいになるまでにそれを増やしておられます。すべての食物は原子と分子でできていました。最後には、食物の原子と分子は群衆に食べさせ始めたときよりもはるかに増えていました。もし神の超自然的な介入によらないとしたら、余分な分子はどこから来たのでしょうか。

また、目の不自由な人がいやされたとき、どんな肉体的変化が彼に起こったのでしょうか。彼は生まれつき、目が不自由でした。したがって、彼の脳は視神経を通して目から送られたメッセージの像を結ぶように刺激を受けたことが一度もありませんでした。つまり、入ってくる情報を処理し、像を結び、その意味を理解するためには、彼の脳は配線し直される必要がありました。次に、目そのものに何らかの欠陥がありました。おそらく、光受容体の一部がDNAの異変によって傷ついていたのでしょう。あるいは、出生時に、網膜や視神経、水晶体といった目の部分の発育を支配する遺伝子に何らかの異変が起きたのかもしれません。あるいは、目の正常な機能を阻害する何らかの機械的な損傷が生じたのかもしれません。

彼がどのような原因で目が不自由になったにせよ、イエスの言葉はふさわしい場所に分子を生じさせ、目に入った光が像を結ぶように、正常な感覚器官、神経結合体、脳細胞を形成しました。こうして、彼は今までに見たことのない像を認識する能力を身につけたのでした。

さらなる研究

「創造の業は決して科学によっては説明できない。どのような科学が生命の神秘を説明することができるだろうか。

神が世界を創造されたとき、物質を創造されなかったという理論には、根拠がない。この世界を形成するにあたって、神は以前から存在する物質に依存されなかった。反対に、万物は、物的なものも霊的なものも、神の御声によって主エホバの前に立ち、神御自身の目的のために創造された。天とその万象、地とそれに満ちる一切のものは、神の御手の業であるばかりでない。それらは神の口の息によって出現した」(『教会へのあかし』第8巻258、259ページ、英文)。

「神がどんな方法で創造の働きをなさったかは、人間にあらわされていない。人間の科学は、至高者の秘密をさぐり出すことはできない。神の創造の力は、神の存在と同様に理解することはできない」(『希望への光』24ページ、『人類のあけぼの』上巻32ページ)。

第2課 天地創造ー世界を形づくる

第2課 天地創造ー世界を形づくる

科学者たちは、世界が生物の生存に適当であるのを見て驚きます。それもそのはずです。創世記1章に始まって、聖書全体にその設計と目的が明らかにされているからです。形も中身もない惑星を手始めに、神は初めの3日間に居住地のための世界を形づくり、あとの3日間でそれを満たされました。今週の研究は天地創造の週の最初の3日間に焦点をあてます。

ある学者たちは、神が自然界に対して目的を「置こう」とされたという考えに異議を唱え、神はただ物的世界に「自立」を許し、それ自身のうちに備わっている自然のプロセスによって発展するのを許されただけであると主張しています。これは、さまざまな種類の「有神論的進化論」を唱える人たちのうちに見られる一般的な考えです。しかし、そのような考えは聖書や、天地創造に関する私たちの理解と相容れないものです。宇宙はそれ自身のうちに備わった意思というものを持ちません。全宇宙は神から独立した存在ではなく、むしろ神がお造りになった被造物に御自分の愛を表すために選ばれた活動の舞台です。

混沌

問1

「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創1:1、2)。これらの聖句は、主が地上に生物を創造される前の、地上の状態についてどんなことを啓示していますか。

聖書は天地創造の物語をもって始まり、神が創造主であるという記述をもって始まっています。聖書は次に、被造物を置くために神が世界を準備し始めたときの、世界の状態について描写しています。物語が始まるとき、地球はすでにありましたが、形がなく、中身もなく、暗く、水で覆われていました。続く聖句は、神がどのようにしてこの世界を生物が宿るにふさわしい場所に形づくり、その後、生き物で満たされたかを描いています。聖句は、地球の岩や水がいつ存在するようになったかを語っていません。書かれているのは、世界が必ずしも生存に適した場所ではなかったということだけです。世界が被造物の生存に適した場所となったのは、神がそのように造られたからにほかなりません。

問2

イザヤ書45:18は、天地創造における神の意図についてどんなことを教えていますか。

地球が初めて出現したとき、それは生存には不適当な場所でした。最初に岩と水が造られたときと、環境と生き物が造られたときの間に、どれだけの期間があったのかについて、聖書は何も語っていません。ある学者は、それは直後だっただろうと考えますが、別の学者は長い期間の後だったかもしれないと考えます。

はっきり言って、それは私たちにはわかりませんし、またそれほど重要な問題でもありません。いずれにしても、地球の素材は神によって造られ、その後、神のお選びになった時期に、生存に適した環境を神が造られたのです。重要なことは、すでに存在する材料に左右されない主が、ある時点ですでに造っておられた材料、つまりその「初期の」状態では“トフボフ”(「混沌」)であったものを用いられたということです。その後で、神は御言葉の力をもって、私たちの棲息可能な世界を創造されたのです。

光あれ

問3

「神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(創1:3 ~5)。これらの聖句は天地創造の1日目についてどんなことを教えていますか。

これらの聖句から、さまざまなことを推論することができます。

第一に、光は神の命令に応答して出現しました。神の御言葉は天地創造の状態を決定する効力を持っています。

第二に、その光は「良い」ものでした。神が光を「見た」と聖句にあることを不思議に思うかもしれません。神がすべてのものをご覧になることに疑いを感じるでしょうか。要点は、神によって造られた光が神の目にも良いものであったということです。光が良いものであるのは、神御自身がそれをそのように評価されたからです。

もう一つの要点は、神が光を闇から区分されたことです。光も闇も神の支配のもとにあって、どちらも神の活動と知識に影響を与えることはありません(詩編139:12参照)。神は光の部分と闇の部分の時間に名前をつけ、それらを「昼」と「夜」と呼んでおられます。神は時間の創造者なので、区切られた時間に名前をつける権利を持っておられます。時間の支配者である神は、時間に制限されることはありません。むしろ時間の方が、神に依存しています。

この聖句のもう一つの要点は、闇の期間と光の期間が共に一日を構成していたことです。天地創造の物語の中に「昼(日)」の意味についてさまざまなことが書かれています。この問題については後で考えますが、ここでは第1日が今日私たちが観察する一日と同じように、闇の期間と光の期間によって構成されていたことに注目します。

また、光は神の臨在に伴う特徴の一つです。光は天地創造の1日目に発明された、と考える必要はありません。というのは、神は地球が創造される前から存在し、その臨在はしばしば光と結びついているからです(ヨハ1:5、黙22:5)。天地創造において、光はそれまで闇であった地球にもたらされたのです。

天の創造

「神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ』。神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である」(創1:6~8)。

神は大空を造り、その役割を定め、それを天と名付けられました。大空(天)の役割は下の水と上の水とを分けることでした。今日、私たちは「空」という言葉を使い、それが私たちの環境の一部である大気圏と、太陽や月、星々のある大気圏外の宇宙とに区分されることを知っています。

大気圏は天地創造の2日目に形づくられた「天」の一部であるように見えます。大気圏は水が上に向かって移動する手段を提供します。水は蒸発し、大気となり、地上のあらゆる場所に運ばれていきます。そして、創世記2:6にあるように霧となり、あるいは雨となって、地表に戻ります。

神は大空に名前を付けることによって、大空に対する主権を表されました。名前を付ける行為は、神が空間を支配される方であることを暗示しています。空間はいかなる意味においても神の行為を制限するものではありません。なぜなら、神がそれを造り、かつ支配されるからです。1日目の世界の光と同様、大空の創造も2日目が終わる前に完了しています。ここにも、夜の闇の期間と昼の光の期間がありました。

「大空」という言葉の意味については、さまざまな議論があります。ヘブライ語の“ラキア”は一枚の薄板にのばされた金属板を意味することがあります。「大空」という言葉はここから来ています。批評家たちは、古代のヘブライ人が地球の上には固い表面があると実際に信じていたと言います。実際にはそのようなものが存在しないので、したがって、聖書の記述が誤りであると彼らは主張します。しかし、これは誤った推論です。この文脈において、「大空」という言葉は単に上の空、つまり大気圏と宇宙そのものについて用いられています。私たちは直接的な文脈によって、語られている内容を理解する必要があります。創世記の中で、鳥は「大空の面」を飛ぶものとして描かれています(創1:20)。しかし、ほかの個所を見ると、大空は太陽や月の見えるところです(創1:14)。明らかに、鳥は太陽や月のある“ラキア”を飛ぶことはありません。

生きるための空間

問4

創世記1:9~13を読んでください。ここに描かれている信じがたいほどの神の創造力について想像してみてください。この記述は、「ニワトリが先か、卵が先か」という古くからある疑問に対して、どんな論理的な答えを与えてくれますか。

このときまで、地球は水で覆われていました。御自分が創造しようと計画された人類に、生きるための空間を提供するために、神は地の表面を変え、水を受け止めるための入れ物を造り、海を形づくられました。それによって、大陸が乾いた所となって、水の上に現れました。これは地球を取り巻く自然界の、あるものを分割するという、3度目の行為でもありました。(第1は光と闇の分割、第2は上の水と下の水の分割、第3は乾いた地面と海の分割でした)。

この3度目の分割においても、神は御自分が分けられたものに名前を付けておられます。乾いた所は「地」と呼ばれ、水の集まった所は「海」と呼ばれています。ここでも、空間に対する神の主権が例示されています。神は地と海の配置を点検し、それを「良い」と宣言されます。

天地創造の3日目については、その日になされた2番目の創造の出来事が記録されています。乾いた所は、神が間もなく創造なさる生き物に、食物を供給する場所となる空間を提供します。神は乾いた所(地)から植物を芽生えさせられます。具体的に、草と植物、果樹の名があげられています。これらは地球上の生物のための食物の源となるのでした。聖句には、どれほど多くの種類の植物が造られたか示されていませんが、初めから多様な植物があったことが示されています。事実、今日わかっていることからしても、信じがたいほど多様な植物の形態があったに違いありません。また、やがて全ての植物に進化する元となる1つの祖先がそこに置かれたのではなく、むしろ、初めから多様な植物があったということについて、聖書は明確です。進化論的生物学の基礎である、一つの植物の祖先という概念は聖書の記述と矛盾するものです。

全能の神の御言葉

問5

次の聖句は神の御言葉の力についてどんなことを教えていますか。IIコリ4:6、イザ55:11、IIペト3:5

いかなる種類の闘争や抵抗もなしに、神は御言葉の力によって、無から(“エクス・ニヒロ”)創造なさったと聖書は教えています。創造に関するこのような見解は、古代世界のあらゆる民族の中でもヘブライ人に特有のものです。聖書以外の創造物語のほとんどは、創造に伴う闘争と暴力について語っています。たとえば、古代バビロニア人の創造物語の中で、怪物アプスとその妻ティアマトが神々を生んだ後で、彼らを滅ぼそうとしますが、ティアマトは戦いによって殺されます。彼女の死体は二つに切り離され、一方は天となり、もう一方は地となりました。

現代人もまた、よく知られた暴力による創造物語を作り出しました。この物語によれば、神はわざと資源の乏しくなる世界を造り、個人の間に競争をもたらし、その結果、弱い者が強い者によって滅ぼされるようにしたといいます。この現代の物語によれば、時間の経過とともに、有機体はどんどん複雑なものになり、最終的には、一つの共通の祖先から人間や、その他のあらゆる生きた有機体が生まれたといいます。

しかし、進化論の「神々」(突然変異と自然淘汰)は聖書の神と同じではありません。聖書の神は弱い者を守り、すべての生き物を養われる恵み深い方です。死や苦しみ、その他の害悪は神によって生じたのではありませんでした。むしろ、それらは神の善なる支配に対する反逆の必然的な結果として生じたのです。進化論の神々は競争を用いることによって、また強い者が弱い者を滅ぼすことによって、創造します。さらに悪いことに、彼らは死と苦しみをもたらします。それどころか、死と苦しみは彼らの創造の手段そのものです。

このように、創世記1章と2章はいかなる意味においても現代の進化論と相容れないものです。進化論はその中心において聖書にある天地創造の記録と対立します。

さらなる研究

聖書は明らかにしていませんが、地上に生命が存在するずっと以前から、宇宙が存在したと信じるに十分な証拠が聖書にあります。第一に、ヨブ記38:4~6で、神が世界を形づくられたとき、喜びの声を上げた生き物がいたと、神は語っておられます。このことは、地球が創造される前から、宇宙には先住者が住んでいたことを暗示します。コリントIの4:9には、傍観する宇宙のことが書かれていますが、これも同じ先住者のことを言っているのかもしれません。第二に、アダムとエバが罪を犯す前に、蛇がエデンの園にいました。黙示録12:9によれば、この蛇は天から追放されたサタンです。イエスもこの出来事を見たと言っておられます(ルカ10:18)。エゼキエル書28:14、15には、初めは完全であったが、後に反逆した覆うケルブのことが書かれています。このことは、サタンが反逆する前に一定の期間があったこと、またサタンも宇宙に生存していたことを暗示します。これらの聖句は、アダムとエバが最初に創造された存在者ではなかったことを示しています。

「地球が創造主のみ手によって造られたとき、それは非常に美しかった。その表面には、山や丘や野原があって変化に富み、きれいな川や美しい湖水が、ここかしこにあった。しかし、山や丘は、現在のように、けわしく、荒けずりでなく、恐ろしい絶壁や裂け目などはなかった。地球の骨組みをなす岩かどは、肥沃な土地におおわれて、いたるところで、緑の草木が繁茂していた。気味の悪い沼や、不毛の砂漠はどこにもなかった。どちらを向いても、優雅な灌木や優美な花が視線をとらえた。丘は、今はえているどんな木よりも堂々とした樹木で飾られていた。空気は、臭気で汚染されておらず、清らかで健康的であった。周りの景色は、どんなりっぱな宮殿の飾り立てられた庭園よりも、はるかに美しかった。天使の群れは、その光景をながめて感激し、神のすばらしいみわざに歓喜の声をあげた」(『希望への光』19ページ、『人類のあけぼの』上巻17、18ページ)。

第3課 完成した天地創造

第3課 完成した天地創造

今回の研究では、天地創造の後半の3日と安息日の休みに関する聖書の簡潔な記述について学びます。この記述は創世記1章及び2:1〜3に見られますが、これに関連した数々の記述が聖書のほかの個所にも見られます。天地創造の記録についての最も驚くべき側面の一つは、天地創造が1日ごとに分割されていることです。私たちが1週と呼ぶ7日からなる時間的なサイクルを、神があえてお選びになった理由は何でしょうか。

聖書は直接的には述べていませんが、その手がかりはあります。最も重要な手がかりとなるのが、神と人との交わりのための特別な時間である安息日そのものです。神が週を定められたのは、一定の時間的な期間を通常の仕事のために定めると同時に、一定の時間的な期間を私たちの神との関係を思い起こすために聖別するためでした(マコ2:28参照)。それは、神が真の供給者であって、私たちが全面的に神に依存していることを覚える助けとなるのでした。

理由はともかくとして、創世記における天地創造の記録を読むと、天地創造が素晴らしい配慮と目的をもってなされたことがわかります。偶然によるものは一つもありません。

太陽、月、星

問1

創世記1:14〜19を読んでください。天地創造の4日目には、どんなことがなされていますか。自然界についての私たちの現在の理解にもとづいて考えるとき、これはどのように理解したらよいですか。

第4の日はたぶん、天地創造のほかの6日以上に議論の対象となっているところでしょう。もし太陽が4日目に造られたとすれば、天地創造の初めの3日は何によって区分されたのでしょうか。他方、もし太陽がすでに存在していたとすれば、4日目には何が起こったのでしょうか。

天地創造の4日目の出来事をめぐる曖昧さは、論理的な矛盾よりも、むしろ複数の可能性から来ています。

第1の可能性は、太陽は4日目に造られたが、初めの3日の光は神の臨在から、あるいは超新星のようなほかの光源から出ていたという考えです。この考えは黙示録21:23と一致します。新しい地では、神がおられるので、太陽は必要ではありません。

第2の可能性は、太陽と月、星がそのときにそれぞれの働きを与えられたという考えです。詩編8:4(口語訳8:3)はこの考えに一致するように思われます。古代ヘブライ語学者C・ジョン・コリンズは、創世記1:14の語法によれば、これら二つの解釈のうちのどちらも可能であると述べています(『創世記1〜4章—言語学的、文学的、神学的注解』57ページ、2006年、英文)。

第3の可能性は、太陽はすでに存在したが、雲や火山灰によってぼやけ、4日目までは見えなかったか、完全には機能しなかったという考えです。この可能性は、今日同じような状況が起きている惑星金星と比較することができます。

この聖句はこれらの解釈のいずれについても、はっきりと支持も排除もしているようには思われません。また、この問題に関する強力な意見を禁止するものでもありません。賢明な方法は聖書に書かれていること以上の事柄を深読みしないことです。私たちの理解力には限界があることを認めるべきです。天地創造の領域においては、特にそうです。今日、どれほど多くの科学的神秘が存在するか考えてみてください。それらは実験科学によって解明されるためにここにあるのですが、いくら研究しても神秘のままです。太古の昔に隠された出来事について、わからないことがあったとしても不思議ではありません。

空中と水中の動物の創造

問2

創世記1:20〜23を読んでください。これらの聖句に、偶然性を暗示する証拠が何かありますか。

水中と空中の生物が造られたのは5日目のことでした。多くの人は、天地創造の2日目と5日目の間に関係があることを認めています。水は2日目に大空と分離され、どちらも5日目に生物で満たされました。天地創造の出来事は意図的な型に従った順序で起こり、神の活動が配慮と秩序をもってなされたことを示しているように思われます。言い換えるなら、天地創造の記録にはいかなる偶然性の余地も見られません。

水中の生物も空中の生物も、複数形で書かれていることに注意してください。これは、多様な有機体が5日目に造られたことを示しています。それぞれの生物には、産み、増える能力が与えられました。多様性は当初から見られました。一つの祖先からほかのすべての種が生まれたのではなく、それぞれの種が多様な個体を生み出す能力を与えられていたように思われます。たとえば、ごく普通に見られる鳩から、400以上の種類が生まれており、少なくとも27種類の金魚が知られています。神は御自分の生物のそれぞれに多様な子孫を生み出す能力を与え、被造物にさらなる多様性を与えられました。

創世記1:21で、神は御自分の造った生物を見て、良しとしておられます。このことは、それらがうまく設計されており、見た目に魅力的で、欠陥がなく、創造の目的に調和していたことを暗示します。

鳥ほど、私たちの想像力と驚きをかき立てる生き物はあまりいないでしょう。鳥は実に驚くべき生き物で、素晴らしく設計されています。彼らの羽毛は軽くて丈夫、硬くてもしなやかです。翼の各部分は強くて軽い支柱を持った、いくつもの小さな羽枝によって一つに結ばれています。鳥の肺は、息を吸い込むときにも吐き出すときにも酸素を取り入れることができるような設計になっています。それによって、力強い飛行に必要な量の酸素を取り入れることができるのです。これは骨の一部に空気の袋があることで可能になります。これらの袋は酸素の流れを良くすると同時に、鳥の体を軽くし、飛行を維持し、制御しやすくしてくれます。鳥は驚くべき構造を持っています。

陸上動物の創造

創世記1:24〜31によれば、地上の動物と人間は6日目に造られました。2日目と5日目の間に相互関係があるように、3日目に陸と海が分離されたことと、6日目に地が満たされたこととの間にも相互関係があります。秩序の神にふさわしく(Iコリ14:33比較)、ここでも天地創造の出来事が秩序正しく、目的を持った順序でなされていることがわかります。

5日目に造られた生き物と同様、この聖句の表現によれば、多くの種類が天地創造の6日目に造られていることがわかります。多様な獣、家畜、這うものも造られています。一つの先祖から、地上のあらゆる動物が出たのではありません。神は多くの種類の異なる、別々の系統の動物を創造されたのでした。

創世記1:11、21、24、25に見られる「それぞれの」(「種類にしたがって」)という表現、あるいはそれに類似した語句に注目してください。一部に、この言葉を用いて、ギリシア哲学から来た思想である、固定した「種」の思想を裏付けようとする人たちがいます。古代ギリシア人は、各自は型と呼ばれる不変の理想の不完全な表現であると考えました。しかし、種の固定説は、あらゆる自然が罪の呪いのもとで苦しんでいるという聖書の教えと相容れないものです(ロマ8:19〜22)。種が創世記3章の呪いに表されているように変化したことを、私たちは知っています(エレン・G・ホワイトは、地上における「三重の呪い」、つまり堕落以後の呪い、カインの罪以後の呪い、そして洪水以後の呪いについて記しています)。多くの苦しみと暴力をもたらす寄生虫や食肉動物もそうです。「それぞれの」という言葉の意味は、用いられている文脈を調べることによって正しく理解されます。

創世記6:20、7:14、レビ記11:14〜22を読んで、上記の「それぞれの」や、それに相当する表現がどのように用いられているかを調べることは、創世記1章の語句を理解する助けになります。

「それぞれの」や、それに相当する語句は、何らかの生殖に関する規則を意味するものではありません。むしろ、それぞれの物語には、多様な生き物の種類が含まれていたという事実をさしています。一部の聖書の翻訳は「さまざまな種類の」という言葉を使っていますが、こちらの方が文脈にかなっているように思われます。この言葉は種の固定性ではなく、6日目に造られた生物の多様性を意味しています。天地創造のときから、多種多様な植物と動物が見られました。

完成された天地創造

天地創造が6日間で完成した後で(人間の創造については後で学びます)、聖書は初めて第7の日に言及しています。

問3

創世記2:1〜3を読んでください。特に、神がすべての業を完成されたことを強調している1節に注意してください。このことが第7の日の深い意味を理解する上で重要なのはなぜですか。

この聖句にある「安息」を意味するヘブライ語は“シャバット”で、“サバス”(安息日)という語と密接な関係があります。それは何らかの計画が完了し、作業を停止することを意味します。神は疲れて、休息を必要とされたのではありません。神は創造の業を終えて、休止されたのでした。神の特別な祝福が第7の日に与えられています。それは「祝福」され、さらに「聖別」されています。分けられて、特別に神に捧げられたという意味です。このように、神と人間との関係において、神は安息日に特別な重要性を与えられました。

問4

マルコ2:27、28を読んでください。安息日の目的は何であると、イエスは言われましたか。

安息日は神の必要のために定められたのではありません。それは人の必要のために、神によって定められたのです。最初の週の終わりに、神は創造の業を休み、御自分の時間を被造物との関係に捧げられたのです。人間は宇宙における自分の立場を理解するために創造主との交わりを必要としました。神と語り、神の創造された世界を眺めたときに、アダムとエバが経験した喜びと驚きを想像してみてください。この安息の規定に含まれる知恵は、罪以後、さらに明らかになります。神を見失わないために、また物質主義や過労に陥らないために、私たちは安息日の休みを必要とします。

文字通りの日

問5

創世記1:5、8、31を読んでください。天地創造の1日は何によって構成されていますか。ここには、これらの1日1日が今日の私たちが経験する文字通りの24時間からなる1日と異なることを暗示するものが何かありますか。

天地創造の1日がどのような性質のものであったかは、多くの議論の的となっています。一部の人たちは、その1日1日が普通の1日であったのか、それともずっと長い期間をさすものであるのかを問題にしています。天地創造の1日1日に関する聖句の記述がこの問題に対する答えとなります。それぞれの日は夕べ(暗い時間)と朝(明るい時間)からなり、連続的に数えられています。つまり、それぞれの日は、今日私たちが経験するのと同じ1日、夕べと朝、暗い時間と明るい時間であることをはっきりと示すような方法で表現されています。これ以上に週の日々をはっきりと、明白に描写する言葉を見いだすことは困難です。「夕べがあり、朝があった」という反復された表現は、それぞれの日が文字通りのものであることを強調しています。

問6

レビ記23:3を読んでください。ここから、天地創造の週の7日すべてが、私たちが経験するのと同じ種類の1日であったことについてどんなことがわかりますか。

古代ヘブライ人は安息日の性格について少しも疑問を抱いていませんでした。それは普通の長さの1日でしたが、神からの特別な祝福で満ちていました。神の週6日の働きと、私たちの週6日の働きがはっきりと比較されていること、また神の休みの日と、私たちの休みの日が同じように比較されていることに留意してください(出20:9、11参照)。これらの日が文字通りの1日であったことを認めない多くの学者でさえ、聖書の記者たちがそれらを文字通りの1日と理解していたことは認めています。

さらなる研究

先にも述べたように、創造週の1日1日は暗い期間の夕べと明るい期間の朝からなるものとして数えられ、特定されています。これらの日を、今日私たちが経験する日と同じものと考える以外に、それらを解釈する合理的な方法はありません。一部の人たちは、たとえば詩編90:4やペトロIIの3:8のような聖句を用いて、天地創造の各日が実際には1000年を表すと主張します。このような結論は聖句によって示唆されるものではなく、またこれらの日が何十億年を表すと考える人たちによって作り出された問題を解決するものでもありません。

また、もし創世記の1日1日が長い時代を表しているとすれば、化石の記録に見られる順序は天地創造の連続した6「日」に造られた生きた有機体の順序に一致しているはずです。したがって、最初の化石は第3の「日」に造られた植物でなければなりません。次は最初の水中動物と空中動物でなければなりません。最後に、最初の陸上動物が見られるはずです。化石の記録はこの順序に一致していません。水中生物が植物の前に来ており、陸上生物が空中生物の前に来ています。最初の化石の果樹とその他の花木がこれらすべてのグループの後に現れます。唯一の類似点は、人間が双方の記録の最後に現れることです。

「聖書の記録は、創造週の一日一日が、その後のすべての一日と同様に、夕があり朝があったことを明らかにしている」(『希望への光』24ページ、『人類のあけぼの』上巻30ページ)。

「しかし、不信仰者の仮定、つまり最初の週の出来事は完成されるまでに7つの莫大で不定の期間を必要としたという考えは、第4の戒めの安息日の基礎と真っ向から対立するものである。それは、神がきわめて明白にされたことを不明確で、曖昧なものにする。それは最悪の不信仰である。なぜなら、創造の記録を信じると告白する多くの者たちにとって、それは偽装された不信仰だからである」(エレン・G・ホワイト『霊の賜物』第3巻91ページ、英文)。

第4課 聖書のテーマ、天地創造

第4課 聖書のテーマ、天地創造

創世記1:1~2:3は聖書に見られる多くの天地創造に関する聖句の基礎となるものです。創世記1章と2章にはっきりと言及している聖句もあれば、間接的に言及している聖句もあります。たとえばコリントIIの4:6のように、直接聖句を引用しないで、特定の言葉や思想を何度も繰り返しています。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」。対照的に、直接言及しているのはヘブライ4:4です。「なぜなら、ある個所で七日目のことについて、『神は七日目にすべての業を終えて休まれた』と言われているからです」。これは創世記2:2からの引用です。

今回は、創世記の記事に言及しているさまざまな聖句に目を向け、ほかの聖書記者たちが人間の起源についての文字通りの記述としてそれらをどのように理解していたかを学びます。

創世記2章における天地創造

「これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき」(創2:4)。

創世記1:1~2:3は、神がこの世界を創造されたことについての最初の記録です。それは、私たちがクリスチャンとして信じているほかのすべての真理の基礎となるものです。

しかし、天地創造の記録はそこで終わっているのではありません。創世記2:3から2章の終わりにかけて、特にアダムとエバの創造に関して、さらに詳しいことが書かれています。したがって、創世記2:4(上記)は同1:26~29で要約されているアダムとエバの創造についてのより詳しい歴史への序言であると理解すべきです。現代の一部の学者は、創世記1章と2章の間に矛盾があると主張しますが、モーセやほかの聖書記者たちはそのようには考えなかったことでしょう。もし物語が矛盾していると考えていたなら、モーセはそれらのことを、これほど近いところで書くことはなかったはずです。矛盾は聖句にあるのではなく、聖句の中に矛盾を読み込む者たちのうちにあります。

問1

マタイ19:4~6を読んでください。イエスは創世記1章と2章の歴史的真理をどのように肯定しておられますか。

離婚に関するファリサイ派の人々の質問に答えて、イエスは創世記1:27と2:24を引用しておられます。この中で、イエスはどちらの聖句も同じ歴史的な出来事、つまりこの世界と人類の創造について述べていると考えておられます。創世記1章と2章が天地創造に関する一致した記録、私たちの存在と目的の基礎となる教理・教えであることについて、これ以上の証拠が必要でしょうか。私たちはたまたま、偶然、ここにいるのではありません。私たちは神にかたどって造られた存在です。創世記1章と2章に啓示された天地創造の記録は、私たちの起源についての神の特別な啓示です。

詩編における天地創造

問2

詩編8編を読んでください。それは創世記1章とどんな関係にありますか。

問3

詩編104編を読んでください。ここで、天地創造と摂理に表された神の慈愛のゆえに、神がどのようにたたえられていますか。

詩編104編の主題の順序が創世記1章の主題の順序にならうように巧みに作られていることに注意してください。詩的表現が各聖句を通して生き生きと描かれており、その教えは神の力と知恵、慈愛に、またすべての被造物が創造主に依存していることにまで及んでいます。この詩編の中に、創世記の記録を文字通りに受け取るべきでないと思わせるものは何ひとつありません。

問4次の詩編は創世記1章とどのような相互関係にありますか。詩編24:1、2、33:6、74:16、17、89:12(口語訳89:11)

詩編は創造主に対する賛美で満ちています。創世記1章を思い起こさせる言葉で表現されていることもあれば、より一般的な言葉で表現されていることもあります。いずれの場合も、天地創造に関する記述は創世記1章と首尾一貫しており、創世記が神の息子・娘としての私たちの起源を理解する基礎であることを思い起こさせてくれます。

ヨブ記における天地創造

問5ヨブ記38:1~21を読んでください。次の聖句は天地創造にどのように言及していますか。4~7節、8~11節、12節、16節、19節

ヨブ記全体の文脈を心に留めておくことは重要です。ヨブは大いなる悲劇に襲われ、神に忠実に従っていた自分がなぜこのような目に遭うのか理解に苦しんでいました。主は38章~41章で、ヨブの苦しみに満ちた問いかけに応えて、御自身の創造力について語り続けられます。

ヨブ記42:1~6にある、主に対するヨブの応答を注意深く読んでください。ヨブがそのように応答した理由について学ぶことは、私たちが悲劇に直面したときに神に信頼する上で助けになります。

ヨブは天地創造の要点を説明することができませんでした。そこで、彼は自分の身に起こったさまざまな出来事にかかわらず、神の偉大さを認め、神に信頼するようになります。私たち自身も、天地創造の多くの疑問に答えることができません。ヨブの模範はどのようなときにも神に信頼するように私たちに教えています。私たちは、少なくとも今は、人生のさまざまな事柄について多くの疑問に答えることができないでしょう。しかし、今は理解できないように思われる事柄について、永遠にわたって学ぶ時が来ます。

現代の私たちはヨブよりもはるかに多くのことを理解することができます。重要なのは、創造の不思議な業を通して、信じ難い神の愛と力に信頼するようになることです。

預言書における天地創造

「神である方、天を創造し、地を形づくり造り上げて、固く据えられた方混沌として創造されたのではなく人の住む所として形づくられた方主は、こう言われる。わたしが主、ほかにはいない」(イザヤ書45:18)。

イザヤ書45:18は、神が計画的に人間の住む場所を用意されたことを強調しています。したがって、この地球が生命に適した場所であるのは偶然によるものではありません。

太陽系のほかの惑星とは異なり、この地球を人類の生存に適した場所としている特徴のいくつかについて考えてください。まず、水が豊かにあります。火星にも水が存在する証拠はありますが、火星や地球以外の惑星には、まとまった量の水がありません。地球に特有の、もう一つの特徴は、約21パーセントの酸素と79パーセントの窒素という大気の構成です。ほかの惑星の大気は、二酸化炭素かヘリウムでできています。生存に適した大気を持つのは地球だけです。太陽系のほかの惑星とは異なり、地上の気温の範囲は地球の生存に適したものです。これは、たとえば太陽からの距離、大気の構成、地球の質量、自転の速度といった、昼と夜の長さを決めるいくつかの要素の組み合わせによるものです。これらすべての特徴のゆえに、地球は生命を支えるに適した唯一の惑星となっているのです。

問6次の聖句は創世記1章に描かれた出来事について何と述べていますか。イザ44:24、イザ45:12、エレ51:15、16、アモ4:13、ヨハ1:9、ゼカ12:1

新約聖書における天地創造

問7使徒言行録17:22~31を読んでください。この説教はどのような状況において語られましたか。冒頭の言葉に続いて、パウロはこれらの識者に対して何と語っていますか(24、25節)。彼は創造主なる神と人間の関係について何と述べていますか。26~28節

この聴衆には、ストア学派とエピクロス学派の哲学者たちがいたことでしょう。ストア学派の人たちは、自然界が誰かによって設計されたと考えていましたが、エピクロス学派の人たちはそれを否定していました。どちらの人たちも真の神を知りませんでしたが、設計についての彼らの議論は今日もなされている議論に似たところがあります。

ここで重要なことは、これら異教の思想家・知識人に対する証しの中で、パウロが直接、万物の、また全人類の創造者としての主について論じていることです。パウロはこれらの人たちとほとんど共通点を持っていませんでした。そこで、彼はすぐに、自分たちが共通して持っているもの、つまり自分たちが存在しているという事実について語り、この否定できない現実にもとづいて自分の議論を構築しようとしたのでした。このことからも、天地創造が聖書の重要なテーマであることがわかります。

マタイ19:4~6、マルコ2:27、ルカ3:38、ヨハネ1:1~3、コリントIIの4:6、ヘブライ4:4、ヤコブ3:9、ペトロIIの3:5、ユダ11、14を読んでください。注目したいのは、これら新約聖書の記者たちがそれぞれ、直接的であれ間接的であれ、創世記の天地創造の記録に言及している点です。ここにも、起源に関する創世記の記録がすべての聖書記者によって広く受け入れられていた証拠を見ることができます。

問8黙示録4:11、10:5、6を読んでください。天の存在者たちは、神が創造主であることについて何と言っていますか。

天地創造は偶然によってではなく、神の御旨によって成されました。二つ目の聖句[黙10:5、6]には、明らかに出エジプト記20:11への言及が含まれています。ヨハネ1:1~3と同様、ここからも、ヨハネが天地創造の記録に精通し、そのことを確信していたことがわかります。それ以外のことを信じるのは愚かなことです。

さらなる研究

聖書は神についての、また神と私たち人間およびこの世界との関係についての書です。天地創造の出来事は独特で、超自然的なものです。それらは少なくとも二つの理由で、科学的探求の領域を超えたものです。第一に、それらは特異性を持ったものです。特異性を持つということは、一度しか起こらないということです。科学は特異性を扱うものではありません。なぜなら、科学は異なった状況のもとで反復したり、試験をしたりすることができないからです。第二に、天地創造の出来事は超自然的に起こった出来事です。それらは、神が被造物を支えておられることからくる必然的な結果ではなく、神の特別な、直接的な行為でした。科学は第二原因のみを扱うものであって、少なくとも現在の科学の立場では、神の直接的な行為にもとづく説明を受け入れません。天地創造の出来事は独特で、超自然的なものなので、科学の領域を超えています。

このことが重要なのは、起源についての人の考え方がその人の人間性や個性に重要な影響を及ぼすからです。自分の起源を理解することがきわめて重要であるゆえに、神はそれを聖書における最初の主題とされたのです。聖書の教えは、天地創造の記録が史実であることにもとづいています。科学によってこの世界の真の歴史を学ぶことができると主張することは、神の直接的な行為によらないでそれを説明することができると主張することです。このような誤りがさらなる誤りをもたらしています。

「人間は自然の原因によって創造の業を説明しようとする。神は決してそれを啓示しておられない。人間の科学は天の神の秘密を探り出すことはできないし、途方もない創造の業を説明することもできない。神の存在理由を説明することができないのと同様、それは全能の力による奇跡であった」(エレン・G・ホワイト『預言の霊』第1巻89ページ、英文)。

第5課 天地創造と道徳性

第5課 天地創造と道徳性

人間は「人権」について語るのが好きです。マグナ・カルタ(1215年)から、フランス人権宣言(1789年)、そしてさまざまな国連人権宣言に至るまで、人間は「絶対的権利」、つまりだれも奪うことのできない権利を持つという思想が奨励されてきました。人権は人間であることのゆえに与えられているというのです(少なくとも、理論上は)。

しかし、ここにも問題があります。人権とは何でしょうか。人権はどのようにして決められるのでしょうか。これらの権利は変えられるものでしょうか。もしそうであるなら、どのようにして変えられるのでしょうか。そもそも、人間が人権を持つべきであるのはなぜなのでしょうか。

一部の国では、女性は20世紀になるまで投票する「権利」を与えられていませんでした(今でも投票権を認めていない国があります)。しかし、政府はどのようにして「絶対的権利」を国民に与えることができるというのでしょうか。

これは難しい問題です。その答えは人間の起源の問題と密接に関わっています。今回は、この問題について考えます。

私たちは創造主に依存している

創世記2:7で、神はアダムを個人的に創造し、彼を動物ではなく知的、道徳的存在者としておられます。聖句には書かれていませんが、神は御自分の手を使って、土の塵を意図された形と大きさに形づくられたと考えることができます。宇宙の偉大な主権者は身をかがめて、手を汚して、人を造るようなことはされないと考えるかもしれませんが、聖書は創造主を天地創造に深く関わられた方として啓示しています。聖書はたびたび、神が自発的に物質や人間に手を触れられたことを記録しています。出エジプト記32:15、16、ルカ4:40、ヨハネ9:6はそのよい例です。事実、キリスト御自身の受肉、つまり肉体をとって人となられたこと、そして日ごとに私たちと同じように被造物に手を触れられたことは、神が身をかがめて、人間の間で「手を汚す」ようなことをなさらないという考えを論破するものです。

問1

創世記2:16、17を読んでください。神はアダムに何と命じておられますか。この命令は何を意味していますか。

神はどんな権限によってアダムとエバに規則を与えられたのか、と私たちは尋ねるかもしれません。この状況を家族の中の子どもの状況と比べてみてください。子どもの両親はその子のために家庭と生活に必要なあらゆるものを備えます。彼らは子どもを愛し、子どもの最高の利益を心にとめます。彼らのすぐれた経験と知恵は、もし子どもがその指導を受け入れるなら、子どもを多くの不幸から守ります。中にはこの指導を快く思わない子どももいますが、子どもが生活必需品を両親に依存している限り、両親の規則に従うことは義務であると、一般に考えられています。

同じように、私たちもつねに命と生活必需品を天の父なる神に依存しているので、神の指導を受け入れることはいつでも適切なことです。神は愛の神であるゆえに、つねに私たちの幸福のために必要なものを備えてくださる神に信頼することができます。

神にかたどって

問2

創世記1:26~28を読んでください。人間には、動物に与えられていないどんな特別な属性が与えられましたか。

「神のかたち」とは、具体的に何を意味するのでしょうか。この問題は多くの議論を生み出しました。考え方もさまざまです。しかし、聖句は考え方の本質について、ある程度の手がかりを与えています。第一に、神にかたどって造られたということは、私たちがいくつかの点で神に似ているという意味です。神のかたちの重要な側面の一つは、神が人間にほかの被造物を支配する権限をお与えになったことです。神は万物の主権者ですが、人間に魚と鳥と地上の動物を支配する権限を与えることによって、人間を主権にあずからせてくださったのです。

さらに、神が人を「我々」にかたどって、つまり複数の、三位一体の神にかたどって造られたことに注意してください。次に、神は人を男と女に創造されました。神のかたちが完全に表現されるのは個人においてではなく、関係においてです。三位一体の神が三者の関係において現されるように、人間における神のかたちは男と女の関係において表現されます。関係を築く能力は神のかたちの一部です。言うまでもなく、関係は責任と義務、つまり道徳性を意味します。このことは、道徳性が天地創造の物語にその基礎を置くことを強く暗示します。

問3

創世記9:6、ヤコブ3:9を読んでください。人間が「神にかたどって」造られたという思想は、道徳性という概念とどれほど密接な関係にありますか。

人間は何千年にもわたって、道徳性の問題と闘ってきました。正しい道徳性とは何かについて考える以前に、道徳性についての思想そのものが多くの難解な問題を提起します。人間はなぜ、カブトムシやノミ、チンパンジーなどと違って、道徳的良心、善と悪を区別する能力を持つのでしょうか。本質的に道徳とは無関係の物質(クオーク粒子、グルーオン粒子、電子など)から造られた人間が、どのようにして道徳的観念に気づくことができるのでしょうか。その答えは聖書の初めの数章にあります。それらは、人間が「神にかたどって」造られたことを啓示しています。

一つの血から造られた

創世記2:23で、アダムは自分の妻に名前をつける役割を与えられ、彼女を“ハバー”と呼んでいます。この言葉はヘブライ語動詞の“ハヤー”(「生きる」)と関係があります(ユダヤ人はときどき、これと関連した表現“レハイム”「生命に!」を用います[相手の健康と幸せを祈ってささげる乾杯の言葉])。「エバ」(“ハバー”)というヘブライ語は「命を与える者」と訳すことができます。エバという名前は、彼女がすべての人類の祖先であることを意味します。私たちはみな、文字通りの意味において、一つの家族です。

問4

使徒言行録17:26を読んでください。人類がみな兄弟であることを、パウロはどのように天地創造と結びつけていますか。マタイ23:9と比較

私たちはみな、一人の女エバと一人の男アダムから生まれたという意味において一つです。神は私たちすべての者の父です。この事実は、人間の平等性の基礎となるものです。もしすべての人がこの重要な真理を認めていたなら、人間関係はもっと違ったものになっていたはずです。私たちがどれほどひどく堕落しているか、罪がどれほどひどく私たちを傷つけているかを知りたいと思うなら、人間がしばしば動物を扱うよりもひどい方法で互いに傷つけ合っているという悲しい事実を見るだけで十分です。

政治的、国家的、民族的、そして経済的なさまざまな要因が人類を分裂させています。おそらく、経済的な要因は最も重大な要因の一つと言えるでしょう(決してカール・マルクスが思い描いたようにはなりません。世界の労働者は決して団結しませんでした。むしろ、国籍のゆえに互いに闘ってきました)。今日、常にそうであったように、貧しい人たちと富める人たちは疑惑と軽蔑の目をもって互いに相手を見ています。こうした感情はしばしば暴力に、そして戦争につながります。貧困の原因を取り除くために、私たちは今も格闘しています(マタ26:11参照)。しかし、神の御言葉ははっきりと教えています。裕福であっても貧しくても、私たちはみな自分の起源[神によって創造されていること]のゆえに尊厳に値する者です。

私たちの創造主の品性

神は御自分にかたどって私たちを創造されました。これは、とりわけ私たちが品性において神に似る者となるようにされたという意味です。したがって、私たちは人間的に可能な限り、神に似る者となるべきです(神に似るとは、決して神の位に昇ろうとすることではありません)。神の品性を反映するという意味において神に似る者となるためには、神の品性がどのようなものであるかを正しく理解する必要があります。マタイ5:44~48を読んでください。これらの聖句は神の品性について、また私たちが自分自身の生活において神の品性を現すべきことを教えています。

問5

ルカ10:29~37を読んでください。ここにも、神の品性について、またそれが人間のうちに現されるべきことについて、何と教えられていますか。フィリ2:1~8参照

イエスが語られたこの物語には、互いに敵対している異なった民族に属する二人の人物が登場します。しかし、イエスによれば、彼らは隣人同士でした。それぞれが相手に対して責任を負っています。彼らが相違点を捨てて、憐れみと同情をもって相手に接したとき、神はお喜びになりました。

神の国の原則とサタンの支配の原則との間には、何と大きな違いが見られることでしょう。神は強い者に対して弱い者の面倒を見るように求められますが、サタンの原則は弱い者が強い者によって排除されることを求めます。神は平和的な関係からなる世界を創造されましたが、サタンはそれを完全に歪めてしまったために、多くの人は「適者生存」を正常な行動原則と見なすようになりました。たとえ私たちが「自然選択*」(強者が弱者を支配すること)という悪しき過程によって存在するようになったとしても、私たちはそのような生き方をすべきではありません。もしそのような考えを受け入れるなら、私たちは神にも、また神が定められた自然の原則にも従っていないことになります。私たちは「自然選択」の恩恵を受けていない人たちを犠牲にしてまで、自分の利益を求めるべきではありません。

*環境の影響により異なる遺伝形質を持つ個体間に繁殖成功率にばらつきが生じ、成功率の低いものはますます数が少なくなって環境への適応が不利になるが、成功率の高いものはますます数が多くなって環境への適応が有利になるという説。

道徳性と責任

問6

先の研究で、アテネの住民に対するパウロの説教について学びました(使徒17:16~31)。彼の議論の流れに従って、初めから終わりまで再読してください。彼は特に起源と道徳性の問題についてどんな重要な結論を述べていますか。

アテネの住民に対するパウロの説教は天地創造をもって始まり、裁きをもって終わっています。パウロによれば、世界とその中のすべてのものを造られた神はこの世界を裁く日を定めておられます。道徳性が与えられているということは責任があることを意味します。私たちはみな自分の行為と言葉に対して責任を問われます(コヘ12:14、マタ12:36、37参照)。

問7

黙示録20:11~13、マタイ25:31~40を読んでください。これらの聖句は道徳性と密接な関係にあるどんなことについて、はっきりと教えていますか。

これまで生きていた人はみな、神の前で裁きを受けます。イエスのたとえにある二つの集団の違いは、各人が必要の中にある人をどのように扱ったかということです。創造主の関心は、人間がお互い、特に必要の中にある人をどのように扱うかにあります。天国には、自然選択の原則が入り込む余地はありません。それは平和の神の性質に反するものです。

聖書にはっきりと教えられていることは、この世に欠けている正義がいつの日か神御自身によって実行されるということです。さらに、裁きの思想は道徳的な秩序を意味します。もし人を裁くための道徳的基準がなければ、神は裁くことも、罰することもなさらないからです。

さらなる研究

聖書によれば、アダムは最初の人間で、神によって特別に土の塵から造られました。道徳性の起源についての私たちの理解はアダムの起源に根拠を置いています。したがって、道徳性に関する聖書の観念は起源に関する聖書の観念と密接な関係にあります。

アダムを最初の人間と認めることはまた、アダムやその他の人間の祖先とされているいかなる化石の可能性にも反駁します。では、これらの化石はどこから来たのでしょうか。いくつかの可能性が考えられます。

第一に、人類に似た化石は、知性は正常だが、成長の様式が現代人とは異なる人類の型であった可能性です。第二の可能性は、それらの化石が自身の生活様式や環境的なストレス、その他の要因によって退化していたことです。第三の可能性は、それらが私たちに理解できない方法で被造物を堕落させようとするサタンの直接的な試みの結果であったことです。その他の可能性は、それらが形態学的には人類に似ていても、実際には人類ではなかったことです。さまざまな人々がさまざまな説明をしていますが、問題を解決する直接的な証拠がないので、独断的な解釈を避けることが最善です。化石は「5億年前に中国で創造された」というラベルを付けて出てくるわけではありません。地球の歴史に関する私たちの理解は学者によって大きく異なります。それは化石を解釈する手がかりにはなりますが、私たちの解釈を立証するものではありません。それらは結局のところ、解釈以外の何ものでもありません。

第6課 天地創造と堕落

第6課 天地創造と堕落

ある喜劇俳優がジェラルディンという名の女を演じていました。ある独白の中で、彼女は高価な新しいドレスを身に着けて、家に帰ってくる牧師の妻として登場します。彼女の夫(同じ役者が演じている)はそれを見て、怒ります。すると、ジェラルディンは金切り声で答えます。「悪魔が私にこのドレスを買わせたのよ!私は買う気がなかったのよ。悪魔が誘惑したのよ」

この話は笑い話とされています。しかし、私たちの世界とその中の悪に目を向けるとき、サタンは決して笑い話ではすまされない存在であることがわかります。

ある人たちにとっては、悪魔という観念は、真剣に受けとめるべきでない古い迷信の1つです。しかしながら、聖書の言葉は、疑いの余地がないほどはっきりしています。サタンは敗北した敵ですが(黙12:12、Iヨハ3:8)、この地上にいて、神の被造物に対して可能な限りの混乱と破壊をもたらそうとしています。

今回は、サタンの最初の攻撃に注目し、そこから何を学ぶことができるかについて考えます。なおもサタンの攻撃の下にある私たちが、キリストにあって私たちのものである勝利を主張できるようになるためです。

蛇は最も賢かった

問1

創世記3:1を読んでください。蛇の姿をしたサタンがどのように描かれていますか。この描写の真実性がこの聖句の中にどのように啓示されていますか。

蛇の狡猾さはその誘惑の仕方に表れています。彼は直接的な攻撃を仕掛けるのでなく、むしろ女を会話に誘い込もうとしています。蛇の言葉は、少なくとも二つの問題点を含んでいることに注目してください。第一に、彼は神が本当にそのようなことを言われたのかと尋ねています。同時に、彼は神の寛大さを疑わせるような質問をしています。事実上、彼はこう言っているのです。「神は本当にあらゆるものをあなたから取り上げておられるのか。神は園のどの木からも取って食べてよいと言われたのではないのか」。故意に神の命令を間違って引用することによって、蛇は女に自分の言葉を訂正させ、首尾よく彼女を会話に誘い込んでいます。蛇の戦略は確かに「狡猾」です。

もちろん、これは驚くほどのことではありません。イエスは悪魔を偽り者、偽りの父と呼んでおられます(ヨハ8:44)。黙示録12:9で、悪魔は全世界を欺いていますが、私たちセブンスデー・アドベンチスト・クリスチャンも決して安全ではありません。サタンはその狡猾さ・欺瞞性を失ってはいません。彼は今も、エバに用いて成功したのと同じ戦略を用います。彼は神の御言葉と神の意図に関する質問をし、疑いを抱かせ、私たちを「会話」に誘い込もうとします。彼の策略に抵抗するために、私たちは目を覚ましていなければなりません(Iペト5:8)。

女と蛇

問2

創世記3:2、3を読んでください。女は蛇に何と応答していますか。彼女はどんな過ちを犯しましたか。

エバは神の命令をはっきりと知っていました。そのことは彼女に過失があったことを示すものです。それにもかかわらず、少なくとも聖書に書かれていることを見る限り、彼女は神の言われたこと以上のことを言っています。神はアダムとエバにはっきりと、善悪の知識の木からは食べてはならないと言われましたが、それに触れてはならないとは、ひと言も言っておられません。何が彼女にそう言わせたのかは明らかでないので、その理由についてあれこれ推測しないほうが最善です。しかし、その木に触れさえしなければ、その実を食べる誘惑を感じることも少ないと、彼女が考えたことは明らかです。なぜなら、触れることのできないものを食べることはできないからです。

今日、私たちもしばしば同じ問題に直面します。すべての点においてではなく、ほとんどの点で聖書に一致している教えを説く人がいます。聖書に一致していない、そのわずかな点がほかのすべてのことをだめにする場合があります。たとえ真理に交じっていたとしても、誤りは誤りです。

問3

マタイ15:7~9を読んでください。人間の考えを神の御言葉に付け加えることに関して、イエスは律法学者とファリサイ派の人々を何と叱責しておられますか。このことを黙示録22:18、コロサイ2:20~23と比較してください。自分を罪から守ってくれると考える規則を作ることには、どんな危険がともないますか。

罪が問題となるのは、規則がないからではなく、心が堕落しているからです。一般の社会においても、すでに十分な法律があるのに、犯罪を抑止するためにさらなる法律を求める声があります。私たちに必要なのは新しい法律ではなく、新しい心です。

「証拠」によって欺かれる

問4

創世記3:4~6を読んでください。アダムとエバを堕落に導いたのはどんな原則ですか。誘惑に打ち勝つ助けとなるのは何ですか。

サタンはエバを会話に引き入れることに、また神が語られたことと、その理由について疑いを抱かせることに成功しました。彼は今、神がエバに真実を語っておられないと告げ、神が彼らに果実を食べることを禁止される動機について説明します。サタンによれば、神がアダムとエバによいものをお与えにならないのは、彼らを低い能力のままにしておくためです。サタンはこのように説明することによって、神が彼らに特定の果実を食べることを禁じておられるのではないかという先の疑問を裏づけるのでした。

エバは三つの「証拠」にもとづいて、果実を食べることが自分の祝福になると考えるようになります。第一に、エバにとって、その木はいかにもおいしそうに見えました。たぶん、蛇が果実を食べているのを見たのでしょう。その果実がどれほどおいしいかを、蛇が語ったかもしれません。アダムとエバがそれを食べてはならないと言われていたのに、エバがその木が「いかにもおいしそう」であることに気づいたのは興味深いことです。このことからも、人間の感覚と明らかな「主の言葉」がどれほど異なるものであるかがわかります。

エバが果実を食べる気になった第二の「証拠」は、それが目を引き付けるものであったことです。園の木はどれも美しかったでしょうが、なぜかエバはサタンの差し出した果実に特別に心を引かれました。

エバがその果実を食べたいと望んだ第三の理由は、その果実に人を賢くさせるような力があったことです。蛇は彼女に、その果実を食べると知識が増大し、神のようになると約束しました。皮肉なことに、聖書によれば、彼女はすでに神に似ていたのです(創1:27)。

エバはだまされたが、アダムはだまされなかったと言われています(Iテモ2:14)。もしアダムがだまされなかったのなら、なぜ彼は食べたのでしょうか。神よりもエバに従うことによって、アダムは意識的に神に背いたのです。今日、これと同じ態度がしばしば見られます。私たちは容易に他人の言うことや行うことによってだまされがちです。彼らの言葉や行為が神の御言葉とどれほど異なっていても、です。アダムは神に聞き従うよりも、エバに聞き従いました。その結果、人間は悪夢のような歴史を経験することになります(ロマ5:12~21参照)。

エデンにおける恵みと裁き(その1)

堕落後の、創世記3章における主の初めの言葉はすべて質問です。「どこにいるのか。……お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。……何ということをしたのか」(創3:9、11、13)。

問5

これらの質問の後に、この章における神の最初の宣言—神の最初の事実についての陳述—が出てきます。神は蛇に向かって何と言われますか。それは何を意味していますか。創3:14、15参照

これらの聖句に暗示されていることについて考えてください。堕落した世界に対する神の最初の宣言は、実際には人間に対する有罪宣告ではなく、サタンに対する有罪宣告です。それどころか、サタンに対する有罪宣告の中にさえ、神は人類に福音の希望と約束を与えておられます(15節)。神はサタンの運命を宣言すると同時に、人類の希望を宣言しておられます。アダムとエバの罪にもかかわらず、主は直ちに彼らに贖いの約束を啓示しておられます。

この約束の後に初めて、つまり15節で恵みと救いの希望が与えられた後に初めて(「最初の福音の約束」とも言われている)、主がアダムとエバに裁きを宣言しておられることに注意してください。「神は女に向かって言われた。『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む』。……神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い……』」(創3:16、17)。

このことを忘れてはなりません。つまり、救いの約束が裁きに先立つということです。裁きは福音という背景においてのみ、与えられます。そうでなければ、裁きは有罪宣告以外の何ものでもないことになります。聖書ははっきりと述べています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハ3:17)。

エデンにおける恵みと裁き(その2)

創世記1章と2章で、神は次のように宣言(命令)しておられます。「天の大空に光る物があれ。……地は生き物を産み出せ。……人が独りでいるのは良くない」。これらの宣言はみな天地創造と、その中の人間の創造に関連しています。昨日の研究で学んだように、聖書に記録されているその次の宣言は創世記3:14、15に見られます。そこで、主は人間に福音を提示しておられます。

このように、聖書においては、神の最初の宣言は天地創造に関連して、次に贖いに関連してなされています。この贖いは裁きそのものに関連してなされます。それもそのはずです。結局のところ、もし裁きがなければ、つまり免れるべき有罪宣告がなければ、何が福音の目的で、何が「良い知らせ」なのでしょうか。「福音」という概念そのものの中に、有罪宣告、つまり私たちの免れる有罪宣告という概念が含まれているのです。それが「良き知らせ」なのです!

私たちは神の律法を犯しました。神はこれらの違犯をお裁きになります。しかし、キリスト・イエスにおいて、私たちはこの裁きが必然的にもたらす有罪宣告を免れています。

問6

創造、福音、裁きは聖書の初めの部分だけでなく、終わりの部分にも出てきます。黙示録14:6、7を読んでください。これらの聖句はどんな意味で、創世記の初めの3章と関連がありますか。つまり、これらすべての聖句には、どんな共通の思想が見られますか。

黙示録14:6、7には、創造主としての神が宣言されています。これは創世記の冒頭部分の中心テーマです。しかしながら、黙示録14章では、「永遠の福音」が初めに来て、その後で裁きが宣言されています。創世記3章と同じです。裁きはありますが、福音より前ではありません。従って、私たちの伝える現代の真理のメッセージの土台は恵み、つまり福音でなければなりません。この福音とは、私たちが有罪宣告を受ける身でありながら、イエスによって赦され、清められ、義とされて立つことができるということです。福音がなければ、私たちの運命は女とその子孫の運命ではなく、蛇とその子孫の運命と同じものになっていたはずです。しかも、驚くべきことに、この喜ばしい知らせはエデンにおいて、堕落した世界に対する神の最初の宣言の中で与えられています。

さらなる研究

「神は人類が食するように計画された食物を、われわれの最初の先祖にお与えになった。どんな生物の生命をも断つことは、神のご計画に反していたのである。エデンにおいて死があってはならなかった」(『教会への勧告』下巻、279ページ)。

「サタンは神の愛の律法を利己主義の律法であると言う。彼はわれわれがその戒めに従うことは不可能だと宣言する。人類の始祖アダムとエバが堕落してあらゆるわざわいが生じたことを、彼は創造主の責任にし、人々に神が罪と苦難と死の張本人であるかのように考えさせる。イエスはこの欺瞞をばくろされるのであった」(『希望への光』677ページ、『各時代の希望』上巻9ページ)。

「しかし、人は自ら選んだ罪の結果の中に捨てられたままでおかれなかった。サタンに対する宣告の中には、救済の告示が含まれていた。……この宣言は、アダムとエバにも聞こえるように告げられ、それは、彼らへの約束となった。彼らは、自分たちが経験しなければならない茨やあざみのことや、労苦や悲哀のことや、土に帰らなければならないことなどを聞く前に、希望を与えずにはおかない約束の言葉をきかされた。サタンに屈服したために失われたすべてのものは、キリストによって再びとりもどされることができるようになった」(『教育』18ページ、一部改訳)。

第7課 鏡を通して、ぼんやりと

第7課 鏡を通して、ぼんやりと

神学者のウィリアム・ペイリーは1802年に『自然神学』という本を著し、その中で、人は自然を観察することによって、神の品性を理解することができると主張しました。彼は豊富な例によって、動物が創造主の思いやりと技能を示す特徴を持っていることを明らかにしました。しかし彼は、罪と堕落が自然に与えた影響を認めなかったため、いくつかの特徴を強調しすぎる嫌いがありました。それでも、多くの強力な反対意見があるとはいえ、彼の全体的な主張は決して論破できないものです。

対照的に、チャールズ・ダーウィンは、自然のあらゆる特徴を設計された神は善良ではなかったと主張しました。その証拠として、イモムシの生体に宿る寄生生物や、猫がネズミをもてあそぶ残酷な様子をあげています。彼にとって、これらの実例は、愛に満ちた創造主なる神が存在することに対する反証でした。

明らかに、ペイリーの方がダーウィンよりも真理に近いものではありますが、今回の研究では、自然が神について啓示していることとしていないことに関する問題について、聖書にもとづいて考えます。

地は主のもの

ある科学者がかつて、神の必要性について神に議論を挑みました。自分はほかの神々と同様に、人間を創造することができると、彼は主張しました。そこで、神は言われました。「よろしい。では、やってみなさい」。科学者は土を集め始めました。すると、神は言われました。「ちょっと待ちなさい。まず自分で土を造りなさい!」

これは単なる作り話ですが、言わんとしていることは明らかです。神は無から創造することのできる唯一の方であるということです。神は私たちの世界、持ち物、身体を含めて、宇宙のあらゆる物質を創造されました。神は万物の正当な所有者です。

問1

次の聖句は、私たちがこの世界と同胞、神に対してとるべき態度について、どんな基本的なことを教えていますか。詩編24:1、2、50:10、イザヤ書43:1、2、Iコリ6:19、20

クリスチャンに親しまれている讃美歌の一つに、「ここは神の世界なれば」という言葉で始まる讃美歌があります[『希望の讃美歌』14番参照]。確かに、この世界は私たちの父なる神の世界です。なぜなら、神がそれを創造されたからです。創造主であるということ以上に正当な所有権への要求はほかにありません。神は創造されました。したがって、神は全宇宙、天と地、その中のすべてのものの所有者です。

神はこの世界の所有者であるだけではありません。神はまた、地上のあらゆる被造物に対する所有権を主張されます。(私たちが知る限り)他のいかなるものも、生命を創造する力を持ちません。神はただ一人の創造者であるゆえに、すべての被造物の正当な所有者です。私たちはみな、その存在を完全に神に依存しています。私たちの忠誠のほかに、私たちは何一つ神にささげることはできません。地上のほかのすべてのものはすでに神のものです。

そればかりではありません。私たちは創造によって、そして、さらに重要なことに、贖いによって神のものです。神からの素晴らしい賜物ではあっても、人間の生命は罪によって大きく損なわれ、死において終わります。このような展望は生命からあらゆる意味と目的を奪うものです。現在の私たちの生命はそれほどの価値を持ちません。私たちのただ一つの希望は贖いの素晴らしい約束のうちにあります。これだけがすべてを元の状態に「回復」してくれます。したがって、私たちは創造と贖いによってキリストのものです。

堕落した世界

はっきりと言えることが一つあります。私たちがいま住んでいる世界は創造週の終わりに主から出た世界とは大きく異なっているということです。確かに、美と意匠の力強い証拠はほとんどあらゆるところに見られます。しかしながら、私たちは罪によって損なわれた存在であって、罪によって損なわれた世界に住み、罪によって損なわれた世界を理解しようとしています。洪水以前から、この世界は罪によって否定的な影響を受けてきました。「ノアの時代、アダムの反逆とカインによる殺人の結果、二重の呪いが地上に臨んでいた」(エレン・G・ホワイト『闘争と勇気』32ページ、英文)。

問2

世界はどのようにして「呪われ」ましたか。これらの呪いの結果は何でしたか。創3:17、4:11、12、5:29

アダムのゆえの地に対する呪いは植物界にも及んだと思われます。なぜなら、その結果として、茨とあざみが生じるようになるからです。このことは、被造物全体が罪による呪いの影響を受けることを暗示しています。上記のエレン・G・ホワイトの引用文ははっきりと、カインに対する呪いが単に彼にとどまらず、世界全体にまで及んだと述べています。

不幸にも、罪による呪いはそこで終わりませんでした。なぜなら、世界はさらなる呪いによって大きく損なわれたからです。言うまでもなく、それは世界的な規模の洪水でした。「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい』」(創8:21)。

洪水は神が天地創造において定められた水系を破壊し、地上のあちこちから土壌を奪い、ほかの場所に蓄積しました。現在でも、雨は土壌に浸透し続け、その地力を奪い、さらに収穫高を減らしています。神は憐れみをもって、二度と地を呪わないと約束されました。しかし、私たちの受け継いだ土壌は、神が初めに創造された肥沃で、生産性に富んだ土壌には遠く及ばないものです。

この世の支配者

「主はサタンに言われた。『お前はどこから来た。』『地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました』とサタンは答えた」(ヨブ記1:7)。

「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(Iペト5:8)。

すでに見たように、この世界は創造と贖いによって神のものです。しかし、同時に、私たちはサタンの現実、大争闘の現実、そしてサタンが可能なすべてのものを支配しようとしている現実を忘れてはなりません。たとえ、十字架後、彼の敗北が確定したとしても、彼は静かに、おとなしくしているわけではありません。今は私たちの理解できない方法で神によって制限されているとはいえ、サタンの怒りと破壊力は決して過小評価すべきではありません。また、どれほど争点がぼやけて見えようとも、最終的な戦いは二つの勢力、つまりキリストとサタンにしぼられることを忘れてはなりません。中立はあり得ません。私たちも知っているように、この世界の大部分は悪の勢力の支配下にあります。そうであれば世界が病んでいるとしても不思議ではありません。

問3

ヨハネ12:31、14:30、16:11、エフェソ2:2、6:12を読んでください。これらの聖句は悪しき者の実在と力についてどんな重要な真理を教えていますか。

ヨブ記の中では、大争闘の現実を隠しているいくつかの幕が開かれており、私たちはサタンが自然界に大きな破壊をもたらす力を持っているのを見ることができます。「この世の支配者」という言葉が何を意味するにせよ、サタンが今も地上において強力で、破壊的な影響力を行使していることは明らかです。この事実は、自然界が大きく損なわれていることを理解するための、さらなる理由を与えてくれます。したがって、自然界から神について教訓を学ぶときには、十分に注意する必要があります。結局のところ、ダーウィンは世界の状態について大きな誤解をしていたことになります。

世の「知恵」

私たち人間は、特にこの200年の間に信じ難いほどの量の知識と情報を獲得しました。しかしながら、知識と情報は必ずしも「知恵」と同じではありません。私たちはまた、自然界について私たちの祖先よりもはるかに多くのことを理解しています。しかしながら、「多くの理解」も知恵と同じではありません。

問4

コリントIの1:18~21、3:18~21を読んでください。ほぼ2000年後の今日も、これらの言葉の力強い真理が私たちの時代と状況においてどのように現されているのを見ることができますか。

人間の思想には、神の御言葉と相容れないことがたくさんあります。問題がイエスの復活であれ、天地創造であれ、あるいはほかの奇跡であれ、神の御言葉と矛盾するときには、人間の「知恵」(たとえ、科学的な「事実」によって支持されるものであっても)は「愚かなもの」と見なされねばなりません。

また、先にも触れましたが、特に人間の起源に関する今日の科学の多くは、純粋な自然主義的見解にもとづいたものです。たとえニュートン、ケプラー、ガリレオといった歴史上の多くの偉大な科学の天才が、神を信じ、自分の研究が神の創造の業を説明するのを助けるものであると考えていたとしても(ニュートンは、「神よ、私はあなたの思想に従って考えます……」と記しています)、今日、そのような感想はしばしば科学界の嘲笑の的となります。

なかには、聖書の奇跡物語を説明して、それらが実際には自然現象であって、自然の法則に無知であった古代人がそれらを神のなせる業と誤解したのであると主張する人たちさえいます。たとえば、ある人たちはさまざまな自然主義的な理論によって、紅海の水が分かれたことを神の奇跡以外の現象として説明しようとします。数年前のことですが、モーセは麻薬中毒で、神から石の板に刻まれた十戒を与えられる幻覚を見たにすぎないと言った科学者がいます!

こうしたことがどれほど滑稽に聞こえようとも、ひとたび神や超自然的なことを否定するなら、それに代わるほかの説明を考え出さねばならなくなります。それゆえに、パウロははっきりと、預言的に[これらの説明を]「愚かなもの」と述べているのです。

信仰の目を通して

問5

詩編8編は最も愛されている詩編の一つです。神を信じるダビデにとって、天地創造は主の偉大さと愛について語るものでした。ダビデは詩編8編に記された天地創造からどんな特別な教訓を学びましたか。今日の私たちが月や星などの被造物について、当時知られていたことよりもはるかに多くのことを知っていることを考えると、ダビデの言葉がますます素晴らしいものに思われるのはなぜですか。

私たちが宇宙の広大さと、対照的に人間の物理的な微小さを理解するようになったのは、たかだか過去100年のことです。もし神の啓示がなかったなら、ダビデのように、「天」の大きさを把握することのできる人などいなかったでしょう。もしダビデがそのとき畏敬の念を抱いたとすれば、私たちはなおさらそうすべきです。宇宙の広大さにもかかわらず、神は私たちが計り知ることのできないほどの愛をもって私たちを愛しておられるからです。

問6

詩編19:2~5(口語訳、19:1~4)を読んでください。ダビデは天に何を見ましたか。

多くの人は夜空の星をながめ、神の偉大さと人間のちっぽけさを認めて、そんなちっぽけな人間に関心を向けてくださる神を讃美します。一方、ほかの人たちは自然界に見られる悪の問題に目を向け、実際には自分自身の選択や悪魔の働きの結果であるのに、問題を神のせいにします。

サタンによってもたらされた悪の中にあってさえ、信じる者たちにとっては、被造物は確かに神の愛情深い配慮について語るものです。しかし、創造された世界が力強い証し・証言であるとはいえ、そこに見られる啓示は、特に堕落とそれによって生じた呪いの結果のせいで、不完全なものとなっています。

さらなる研究

「私たちは今後、絶えざる論争に直面するようになるという警告が私に与えられた[1890年]。いわゆる科学と宗教が互いに対立するようになる。有限な人間には、神の力と偉大さを理解することができないからである。聖書の言葉が私に与えられた。『あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます』[使徒20:30]」(エレン・G・ホワイト『医療伝道』98ページ、英文)。

第8課 扶養者また維持者、イエス

第8課 扶養者また維持者、イエス

神は非常に規則正しい方法で被造物を支えておられるので、この宇宙はときどき、自らの力で動くようにと、神が置いて行かれた機械にたとえられます。

しかし、より適切なたとえを用いるならば、被造物は機械というよりも、神が思いのままに「メロディー」を奏でるために用いる楽器のようなものです。つまり、御自分が造られたものを支えるために、神は絶えず関わっておられるのです。

この宇宙の中に、主から独立して存在しているものは何一つありません。創造されたものはすべて、主によって創造されました。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1:3)。そればかりでなく、主はそれらすべてを支えておられる方です。さらに驚くべきことに、それらすべてを創造し、支えておられる方は私たちのために十字架にかかられた方です。

「使徒パウロは、聖霊の感動をうけて筆をとり、キリストについて、『いっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている』(コロサイ1:16、17)と言明している。すべての世界を空間にささえ、宇宙の万物を整然たる秩序と倦むことのない活動の中に保つみ手は、われわれのために十字架に釘づけされたみ手である」(『教育』143、144ページ)。

維持者

問1

ヘブライ1:3とコロサイ1:16、17を読んでください。宇宙が存続する上で、イエスはどんな役割を果たしておられますか。

ここに暗示されているのは、イエスが御自分の力によって宇宙の存在を支え続けておられるということです。宇宙は独立した存在ではありません。宇宙の存在は神の御心の絶えざる行使に依存しています。このことは理神論、つまり神がこの世界を自ら制御するものとして創造し、その後、世界が神のさらなる介入なしに発展するままに任せられたと教える哲学に対する論駁となります。聖書はそのような理論を排除しています。

また、汎神論(神と宇宙は同じもの)や万有在神論(神は宇宙のうちに宿る)といった偽りの理論に見られるように、神は被造物のうちにいて、絶えずそれを創造しておられるのでもありません。神はいかなる意味においても宇宙に依存されません。神は宇宙から区別される方です。神は宇宙から独立して存在されたし、独立して存在し続けられます。宇宙は神に依存していますが、神は宇宙に依存しておられません。

問2

コリントIの8:6、使徒言行録17:28を読んでください。パウロは私たちとイエスとの関係をどのように描写していますか。

私たちは一瞬一瞬を、一日一日を、神の維持力に依存しています。私たちが絶えず存在し、活動し、関係を築くことができるのは神の愛のゆえです。このことは特別な意味で、神に献身した人たちにとって、またパウロが言うように、「キリストと結ばれる」人たちにとって真実です(IIコリ5:17、エフェ2:10—これらの聖句が創造に言及していることに注目)。救いを拒絶する人たちも同様に、その存在を神の維持力に依存しています。ダニエルは鋭い口調で、ベルシャツァル王に対してこの点を強調しています。「だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない」(ダニ5:23)。

寛大な扶養者

創世記1:29、30には、神が初めに生き物を創造されたとき、それらに食物を与えられたことが書かれています。植物と果物、種が人間と動物のために選ばれた食物でした。そこには、資源をめぐる強奪や競争について何一つ書かれていません。寛大な扶養者である神はすべてのものに暴力を使わなくても得られるだけの十分な食物を用意されました。

人間をはじめ、すべての生物が弱肉強食と適者生存によってのみ存在すると教えている進化論による一般的な起源論と、何と対照的なことでしょう。創世記の初めの数章には、そのようなことは全く書かれていません。対照的に、そこに啓示されているのは、当初から文字通りの楽園であった世界です。それゆえに、主が世界の創造を終えられたとき、聖書は次のように記しているのです。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」(創1:31)。

問3

創世記2:8、9を読んでください。これらの聖句はアダムとエバを扶養する上での神の特別な関心についてどんなことを示していますか。

すでに見たように、神は人間を含む御自分のすべての被造物に食物を与えられました。神がなさったのはそれだけではありません。神は全地に食物を豊かに与えると同時に、アダムとエバのために特別な園を設けられました。そこには、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらす木々がありました(創2:9参照)。美しく、多様な食物のある園は神の豊かな愛と恵みから出たものでした。それは恵みの賜物でした。なぜなら、アダムとエバはそのために何一つ労していないからです。それは無償で与えられ、十分に整えられていました。

すでに述べたように、私たちは天地創造の当初からかけ離れた状態に置かれています。私たちの世界は大きく損なわれています。損なわれずに残されているものは、地上には何一つないように思われます。しかし、そのような状況にあっても、神の愛についての力強い証拠が見られます。

自然悪

愛の神を信じるすべての者が理解しなければならない重要な問題の一つは悪の問題です。それは人間の悪だけでなく、いわゆる「自然悪」をも含みます。「自然悪」とは、自然界に起こる悪い出来事のことであって(洪水、暴風、干ばつ、地震など)、それらは人間と動物に計り知れない痛みと苦しみをもたらします。

私たちはこれらのことをどのように理解したらよいのでしょうか。そもそも、もし神が被造物を支配しておられるのであれば、なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

ヨブ記は聖書の中で最も初期に書かれた書巻の一つですが、その中で、これらの問題がヨブにとって現実の問題となりました(第4課参照)。

問4

ヨブ記42章を読んでください。この章は私たちのどんな疑問に答えていますか。

ヨブ記を読んだことのある人なら、たぶん[読んだ後で]答えよりも疑問のほうが増すはずです。ヨブ記は大争闘に関するいくつかの重要な真理を啓示していて(黙12:12参照)、そのことは悪の存在を理解する上で欠かせない背景を明らかにしてくれます。しかしながら、大争闘の筋書きはそれぞれの悪の事例を説明するものではありません。それどころか、悪について説明することはある意味で悪を正当化することであって、決してできることではありません。大争闘は悪の背後にある壮大な問題を啓示してはいます。しかし、その主題がそれぞれの悪の事例について何かを明らかにすることは、ないとは言えないまでも、ほとんどありません。

災いに見舞われたとき、ヨブはその意味を理解しませんでした。私たちも同じです。神はヨブに語られましたが、ヨブの疑問に答えることも、災いの原因について説明されることもありませんでした。神がヨブに言われたのは、自分の知識を超えたことがあるということ、また神に信頼しなければならないということでした。そして、ヨブは神に信頼しました。私たちも、しばしば同じような経験をしながら、疑問に対する答えが与えられないかもしれません。しかし、ヨブの物語は悪の本質について重要な洞察を与えると同時に、神が私たちの直面する闘いを見過ごしにされないことを示しています。

損なわれた被造物を支配する

私たちは日光や雨についてよく知っています。科学者はそれぞれの作用についてあれこれと解説します。しかし、そこには、科学によっては説明することのできないことがたくさんあります。背後にあって、神は活発に御自分の被造物の必要を満たしておられます。私たちは神の方法を理解することができないかもしれませんが、神は確かに支配しておられるのです。優れた音楽家は楽器を用いて美しい音楽を奏でるので、聴衆は音楽家よりも音楽に心を引かれます。同じように、神は被造物を整えられるので、私たちはしばしばその秩序を見て、被造物の荘厳さに心を打たれます。同様に、神が背後にいて、物事を御心に従って命令し、万事が神を愛する者たちの益となるように共に働くようにしておられることに、私たちは気づいていないかもしれません(ロマ8:28)。

問5

次の聖句はどんな似通った現象について記していますか。創8:1、出10:13、民11:31

風はありふれた現象であって、私たちはみなそれがどのようにして生じるかを知っています。しかし、これらの聖句の中で、風は特別な状況において生じています。それらは「摂理的な風」と呼ぶことができるかもしれません。それらは特別な時間と場所において生じ、特別な目的を果たしています。それらは「自然」なように見えますが、目に見えない[第一]原因なる神が御自分の目的のために働いておられます。神は御自分の創造された世界の特徴を用いて御自分の目的を果たしておられます。

列王記下20:9~11には、聖書の中でも最も異常な奇跡の一つが記されています。太陽と地球と一日の長さの関係は、人間経験の中でも最も安定した、予測可能な特徴の一つと考えられます。もし現代において同じことが起こったなら、今日の科学界の衝撃がどれほどのものか想像してみてください。結局のところ、私たちは次のように言うしかありません。「主に不可能なことがあろうか」(創18:14)。こうした数々の奇跡が私たちに教えていることは、被造物とその中における神の活動には、私たちの理解を超えたことがまだまだあるということです。神を個人的に知り、神の愛の現実を自分で知ることが大切なのはそのためです。こうして、たとえ理解できないことが多々あったとしても、私たちは神に信頼することができるようになるのです。

損なわれた被造物の扶養者

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(マタ6:26)。

アダムとエバが罪を犯し、もはや園に入ることができなくなった後も、神は彼らのすぐ身近な肉体的必要のために備えをしてくださいました(創3:21)。罪は新たな必要、つまり着物の必要をもたらしました。アダムとエバは自分で着物を作ろうとしましたが、いちじくの葉では全く不満足でした。もっとよい着物が必要でした。神は皮によってその必要を満たされました(皮の意味については、後で詳しく学びます)。重要なことは、彼らが罪を犯した後でさえ、神は彼らの必要を満たしてくださったことです。ここにも、価値のない私たちを養ってくださる神の恵みの実例を見ることができます。

問6

マタイ6:25~34を読んでください。イエスはここで、どんな重要なことを教えておられますか。多くの人が経験する試練や悲劇を前にして、私たちはこれらの言葉をどのように理解すべきですか。

これらは慰めに満ちた言葉です。深刻な苦しみと損失、必要に満ちた時代にあって、私たちは心と霊と思いを尽くしてこれらの言葉に信頼する必要があります。イエスは野の花や空の鳥のためにではなく、私たちのために死んでくださいました。どのような状況にあっても、私たちはイエスの愛を確信することができます。しかし、だれもが知っているように、状況は時としてすさまじいものです。私たちは至るところに干ばつや洪水、疫病、死を見ます。クリスチャンもこれらの悲劇を免れることはできません。

神は御自分の民に苦しみのない、贅沢な生活を約束しておられません。しかし、私たちの必要を満たし、問題に対処する力を与えると約束しておられます。私たちは、大争闘が現実のものであること、また私たちが堕落した世界にいることを忘れてはなりません。

さらなる研究

「それにもかかわらず、科学者たちは、神の知恵、すなわち、神のなさったこととおできになることなどを理解できると考える。神は、神ご自身の法則に制限されておられるという思想が一般に広まっている。人々は、神の存在を否定するか、あるいは無視するかして、すべてのもの、人の心に働く神の霊の作用さえも説明できると考えている。そして、彼らは、神のみ名を敬わず、神の力を恐れもしない。彼らは、超自然ということを信じず、神の律法、また、彼らを通じて神のみこころを行われる無限の能力を理解しない。一般に、『自然の法則』という言葉は、物質界を支配する法則について、人間が発見し得たことを言うのである。しかし、人間の知識は、なんと限られていることであろう。そして、創造主がご自身の法則にかないながらも、なお、有限な人間の思考を越えて働かれる範囲はなんと広いことであろう」(『希望への光』25ページ、『人類のあけぼの』上巻33、34ページ)。(エレン・G・ホワイト『教会へのあかし』英文第8巻259~261ページ、「自然の法則」参照)

第9課 エデンからの贈り物、結婚

第9課 エデンからの贈り物、結婚

幸せな結婚と愛に満ちた家庭がもたらす数々の祝福について考えてみてください。このような経験にあずかる人たちは何と幸運なことでしょう。悲しいことに、多くの人にとって、結婚生活は喜びと平安よりも、ほとんど苦痛と怒りの経験になっています。このようなことは意図されたことでもなければ、あるべき状態でもありません。多くの結婚生活に見られる悲しむべき状態は、罪が人類にもたらした堕落の顕著な現れです。

「神は最初の結婚式を執り行われた。したがって、結婚の制度は宇宙の創造者である神にその起源を持つ。『結婚を重んずべきである』(へブル13:4)。それは、神が人間にお与えになった最初の賜物の一つであった。また、それは、堕落後、アダムが楽園の門から持って出た二つの制度のなかの一つである。婚姻関係に関する神の原則をわきまえ、それに従うときに、結婚は祝福である。それは、人類の純潔と幸福を守り、人間の社会的必要を満たし、肉体的、知的、道徳的性質を高める」(『希望への光』20ページ、『人類のあけぼの』上巻21ページ、一部改訳)。

何と素晴らしい理想でしょう。今回の研究では、結婚の背後にあるいくつかの原則について考えます。

“ロ・トーヴ”(良くない)

太古の混沌から、神は御言葉の超自然的な力によってこの世界を創造されました。天地創造の記録を通じて、御業が完結するまで、すべては「良し」とされています。この時点では、主がお造りになったものはすべて「極めて良かった」と宣言されています(創1:31)。

問1

しかし、その中で、“ロ・トーヴ”なもの、つまり「良くない」ものが一つありました。創世記2:18を読んでください。「良くない」ものとは、何でしたか。その理由は何ですか。この聖句は何を暗示していますか。

アダムを創造された時点で、神は天地創造のすべての局面を「良し」と宣言されました。この時点では、人間はアダムだけでした。アダムは神にかたどって造られました。しかし、一人だけでは、三位一体の神の、他者との関係において存在する神のかたちを完全に反映することができませんでした。言うまでもなく、三位一体の神は父なる神、御子、聖霊からなっています。したがって、アダムは相互の愛と協力の関係を築くことのできる、自分に似た相手を必要としました。それによって、彼は三位一体の神のうちに例示された愛の関係を反映する者となるのでした。

創世記2:19~21を読んでください。神はアダムを眠らせ、彼の肉から妻を造られる前に、アダムにある活動をさせています。その活動は、神がアダムのために妻を造られたことと関係がありました。

ここで鍵となるのは20節の最後の部分です。動物に名前をつけていくうちに、それらが独りの自分とは異なり、雄と雌のつがいで来たことに、アダムは気づいたはずです。主は初めから、アダムが妻を持つように意図しておられたと思われます。おそらく、主はアダムのうちに一種のあこがれ、つまり自分自身のうちに何かが欠けているという感覚を植えつけようとされたのでしょう。アダムはこうして、主が妻において与えようとしておられた賜物をいっそう深く感謝するようになるのでした。

アダムのための伴侶

アダムが動物に名前をつける創世記2:20の記述は、人間とその他の地上の生き物との大きな違いを明らかにしています。アダムに比べられる動物はほかにはいませんでした。サルの中にも、アダムのような生き物はいませんでした。なぜなら、アダムはサルのようではなかったからです。現代の社会には、人間が発達したサルに過ぎないという考えを広める人々が多いことを考えれば、これは覚えておかねばならない重要な点です。人間はサルではありません。サルが私たちにふさわしい伴侶でないのと同様に、サルはアダムにふさわしい伴侶ではありませんでした。

創世記2:21、22に注目してください。神が自ら土の塵でアダムの身体を造られたように、神は自ら、まずアダムのあばら骨の一部を用いてエバの身体を造られました。あばら骨は体全体ではありません。そこで、神は追加の材料を用いて、エバの身体を完成させられました。アダムの身体を造られたように、神は塵からエバの身体を造ることもおできになりました。神はエバを造るのにアダムのあばら骨を必要とされませんでした。あるいは、言葉を用いてエバを出現させることさえおできになりました。

しかし、神がアダムのあばら骨の一部をエバの身体に組み込まれたことには理由がありました。もし二人が完全に別々に造られていたなら、彼らは本質的に完全に独立した個人となっていたはずです。しかし、肉を分け合うことによって、二人が一つに結ばれ、「一体」となるように意図されていたことがわかります。

エバは造られた後で、アダムを助ける者としてアダムのところに連れて来られました。彼女はアダムから造られ(22節)、アダムに与えられました(22節)。神がエバを造られた過程を見れば、神がアダムに必要ないかなる伴侶をも与えることがおできになることが明白でした。この点が、アダムが後にエバと共に果実を食べるべきか、それとも神の状況支配に信頼するべきかという誘惑に直面したときに重要になります。アダムには、神が自分に心を留めてくださることを信じる十分な理由がありました。それだけに、彼の罪はいっそう悲しむべきものとなりました。

創世記2:23に出てくるアダムの言葉に注目してください。エバを見たとき、アダムは興奮のあまり詩の形式で歌い出しています。これは聖書に見られる最初の詩で、妻に対するアダムの敬意と二人の関係の親密さを表しています。エバはアダムと同等の存在となるのでした。それは堕落によって損なわれた、創造のもう一つの側面でした。

理想的な結婚

米国の小説家ウィリアム・フォークナーはかつて結婚を「失敗」と呼び、次のように言っています。「結婚生活から平安を得る唯一の方法は……最初の女[妻]と別れないで、いつの日か彼女に先立たれることを願いつつ、できるかぎり彼女から遠く離れていることである」。悲しいことに、これが多くの結婚生活の現状です。

問2

マルコ10:7~9を読んでください。ここで、イエスはどんな聖句を引用しておられますか。イエスのこれらの言葉の中に、幸せな結婚のどんな特徴が述べられていますか。

配偶者と家庭を築くために自分の両親を離れることの必要性は広く知られているので、ほとんど言及する必要がないくらいです。義理の親との問題は夫婦間の不和の主要な原因の一つです。幸せな家庭を築くための第一段階の一つは、可能なかぎり両親から離れた家庭を築くことによって、夫婦の独立を尊重することです。それが不可能な場合であっても、結婚生活のプライバシーと夫婦生活は尊ばれるべきです。

一致は幸せな結婚のもう一つの特徴です。一致とは、夫婦がそれぞれの頭脳を働かせることを止めることではなく、むしろ同じ目的において一つに結ばれ、お互いの幸福と交わりのために最善を尽くすことです。

イエスはまた、結婚生活が永続的なものであることを強調されました。結婚は意のままに結んだり、解消したりすべき軽々しい関係ではありません。それは終生の献身です。生涯、献身する用意のできていない人たちは、その用意ができるまで結婚生活に入ることを延期すべきです。

エフェソ5:22~25を読んでください。これらの聖句は幸せな結婚生活の原則について教えています。キリストが教会のために御自分をお与えになったように、愛の奉仕において自分自身を妻にささげることは夫の特権です。その一方で、妻は夫を尊敬し、お互いの目標を実現するためにそれぞれの働きに協力すべきです。ここに、罪が結婚関係にもたらした不一致に対する解決策があります。自己犠牲の愛は愛に満ちた尊敬と相互の幸福をもたらします。私たちの家庭は天国の前触れとなります。

尊いものを守る

人間に対する神の愛についての最大の模範の一つを、人間の性のうちに見ることができます。それは本当に素晴らしい神からの賜物です。しかし、私たちに与えられているすべての賜物と同じく、それは無条件に与えられるのではありません。つまり、自分勝手に扱ってよいものではないということです。神は一定の規則を設けておられます。実際、神の規則は非常に明確です。性的行為は夫と妻、男と女の間で、しかも結婚という枠組みにおいてのみ存在すべきものです。それ以外はすべて罪です。

問3

マタイ5:27~30を読んでください。イエスはここで、御自分が扱っておられる問題をどれほど重要視しておられますか。結局のところ、危うくなっているのは何ですか。

私たちは、イエスが罪人に与えてくださる豊かな恵みと赦しに心を向けがちです(それ自体は正しいことです)。しかし、イエスが実践し、教えられた高い道徳的標準を忘れてはなりません。これらの数節に啓示されている性的不道徳に対する警告を、イエスがこれ以上に強い方法で表明されるのを想像することは困難です。目をえぐり出して捨てますか。腕を切り取って捨てますか。もし純潔を守るためにそうする必要があるとすれば、そうするだけの価値はあります。さもなければ、あなたは永遠の命を失う危険があります。

「もし神の律法に従うと言うすべての者が不義から解放されているなら、私の魂は救われるだろう。しかし、そうではない。神の戒めのすべてを守ると言う者たちの中にさえ、姦淫の罪を犯している者たちがいる。彼らの麻痺した感覚を呼び覚ますために、何と言ったらよいであろうか。道徳的原則を厳格に実行することが魂の唯一の防壁となる」(エレン・G・ホワイト『健康に関する勧告』621、622ページ、英文)。

教会の比喩としての結婚

旧約聖書においても新約聖書においても、結婚が神と神の契約の民との関係を表す象徴として用いられていることは、聖書を学ぶ者たちの間でよく知られているところです。たとえば、聖書が多くの場面で古代イスラエルに蔓延していた背信と背教の象徴として不義の女を用いているのはそのためです。出エジプト記の中でも、主は御自分の民に、周囲の異教徒といかなる親密な関係に入ってはならないと言っておられます。異教徒がイスラエルを迷わせる非常に淫らな民だったからです。

問4

出エジプト記34:15、16を読んでください。この特別な警告の中で、主はどんな象徴を用いておられますか。神の民が神と「結婚した」者であるという背景の中で、このことをどのように理解したらよいですか。エレ3:14参照

同時に、特に結婚に対する聖書の理想、つまり愛と自己犠牲の関係における一人の男と一人の女という背景において考えるとき、キリストの花嫁としての教会の象徴は信者同士の、またキリストとの一致を表しています。

問5

エフェソ5:28~32、黙示録19:5~9を読んでください。これらの聖句は何について教えていますか。

これらの聖句の中で、理想的な結婚に見られる関係が神と神の民との関係に比較されています。神は御自分の民を御自身との親しい関係に入るように招いておられます。これは、神が御自分の民に関心を寄せておられること、また神が私たちを御自分との交わりに入らせようと望んでおられることの驚くべき描写です。

さらなる研究

多くの点で、道徳、特に性道徳についての正しい理解は、私たちの起源についての正しい理解と結びついています。たとえば、進化論哲学は性的行動と道徳性の間のいかなる関係についても客観的な説明を与えていません。動物は種々雑多な「婚姻制度」を持っています。ある種は一夫多妻であり、ある種は雑婚です。一部に一夫一婦に近いものもありますが、遺伝子を調べると、一夫一婦のように見えても実際にはそうでないものが数多くいます。多くの種にあっては、メスは何匹もの子を産みますが、すべてが同じ父親によるものとは限りません。創造主によって与えられた客観的な道徳の基準がなければ、性的行動が道徳的に善か悪かを評価する基礎がないことになります。同性愛結婚を認めようとする最近の動きはこのことを例示するものです。創造の光によってのみ、結婚は正しく理解されます。

「旧約聖書にも新約聖書にも、結婚関係はキリストとその民との間に存在するやさしく聖なる結合をあらわすのに用いられている。婚宴の喜びは、キリストがご自分の花嫁を天父の家につれていかれ、あがなわれた者とあがない主とが、小羊の婚宴の席にすわるその日の喜びをキリストの心に思わせた」(『希望への光』740ページ、『各時代の希望』上巻176ページ)。

第10課 管理者の務めと環境

第10課 管理者の務めと環境

私たちの住んでいる世界は創造主なる神、「天と地、海と水の源を創造した方」からの愛の贈り物です(黙14:7)。神は人間をこの被造物の中に、しかも意図的に神御自身、ほかの人々、そして周囲の世界との関係の中に置かれました。したがって、セブンスデー・アドベンチストにとって、この環境を保護し、養成することは神に対する私たちの奉仕と密接な関係にあります。

「人間の貧困と環境の荒廃は相互に関連しているため、私たちはすべての人の生活の質を向上させることを確約する。私たちの目標は人間の必要を満たす一方で、持続可能な方法で資源を開発することにある。……

私たちはこの誓約において神の被造物に対する私たちの管理責任を確認する。また、全面的な回復は神が万物を新しくされるときにのみ完成することを信じる」(『被造物への配慮—セブンスデー・アドベンチスト世界総会環境に関する声明』より抜粋)。

創造において与えられた支配

創世記1:26によれば、アダムの支配は海の、地の、空のほかのすべての被造物にまで及んでいます。支配することは、これらの生き物を統治し、その上に権限を持つことを含みます。言われているのは生き物に対する支配だけであって、自然の力に対する支配については何も言われていません。しかも、聖句によれば、この支配は全世界的なものでした。アダムは実質的に地上の支配者となるのでした。

問1

詩編8編を読んでください。神が人間に与えられた栄光に対して、ダビデは何と応答していますか。私たちが「栄光」と「威光」を与えられているとはどんな意味ですか。人間が地を支配する権限を与えられていることに照らして考えてください。

創世記2:19によれば、アダムの最初の仕事の一つは動物に名をつけることでした。聖書時代においては、名前は重要な意味を持っていました。人の名はその人の人格を、またしばしばその人の地位を表していました。鳥や獣に名をつける権限は、動物に対する支配者としてのアダムの地位を確証するものでした。

問2

創世記2:15を読んでください。ここに、管理者の務めに関する原則がどのように表されていますか。

アダムは園を世話する、つまりそれを管理し、その必要を満たす役割を与えられました。ここで「守る」と訳されているヘブライ語の語根、“シャーマール”は、しばしば「見守る」、「保護する」を意味します。園はアダムへの贈り物、神の愛の表れであって、アダムは今それを守る責任を与えられました。ここにも、アダムが創造のときに受けた支配権の実例を見ることができます。

ほかの生き物への配慮

問3

「森の生き物は、すべてわたしのもの山々に群がる獣も、わたしのもの」(詩編50:10)。この聖句は地球に対する私たちの管理責任についてどんなことを教えていますか。

問4

黙示録4:11を読んでください。この聖句は創造主によらない創造、つまり被造物が単なる偶然によって生じたとする無神論的概念とどのように根本的に対立しますか。

動物の創造は偶然でもなければ、あと知恵でもありませんでした。神は目的をもって動物を創造されました。動物が存在するのは神の意思であって、この原則が動物を扱うときの私たちの指針となるのでした(出23:5、12、箴12:10、ルカ14:5参照)。事実、動物に対する虐待とその苦痛に対する無関心は、広く人格障害の徴候と考えられています。動物愛護を推進するために多くの団体が組織されていますが、これは正しいことです。

しかしながら、同時に、人間は本質的に動物以上に重要ではないのだから、人間を優先的に扱うべきではないとまで主張する人たちがいます。多くの点で、これは理論的に進化論にもとづく人間起源説の流れから出ている思想です。結局のところ、もし人間と動物が時間と偶然によってのみ隔てられているのであれば、人間が他の動物より特別な存在だというのはおかしいではないか、と彼らは言います。ニワトリや魚でさえ、胎児や新生児と同じように「人格」を持っているのである、と主張する哲学者さえいます。どれほど滑稽に聞こえようとも、こうした考えは無神論的進化論にもとづく人間起源説から導き出される考えであって、しかも論理としても十分成り立つものです。

もちろん、こうした考えは聖書によって支持されるものではありません。動物とは異なり、人間は神の計画の中で特別な地位を与えられています(創3:21、出29:38、レビ11:3参照)。

安息日と環境

すでに見たように、管理者の務めという考え方はこの地球を管理する方法を意味するのであって、それは直接的に被造物と関わりがあります。創造に関する私たちの考えは、被造物に対して取るべき私たちの考えに影響を及ぼします。

ある人たちにとっては、被造物は自分自身の欲望や欠乏を満たすためなら必要なだけ搾取し、利用し、収奪すべきものです。対照的に、他の人たちにとっては、被造物は礼拝の対象そのものです(ロマ1:25参照)。このほかに、聖書の立場というものがあります。それは主が私たちのために造られた世界に対する私たちの関わり方について、バランスのとれた見方を与えてくれるものです。

問5

出エジプト記20:8~11を読んでください。この戒めの中に、管理者の務めがどのように教えられていますか。

「神が第7日安息日を聖別されたのは、御自分の創造行為と世界の確立を記憶し、また永遠に記念するためであった。この日に休息することによって、セブンスデー・アドベンチストは創造主や被造物との特別な意味での関係を強化する。安息日を守ることは、私たちが環境全体と一体となることの重要性を強調するものである」(『被造物への配慮—環境に関する声明』より抜粋)。

安息日は、神が私たちと私たちの住む世界を創造された事実を指し示しています。それはまた、私たちが他人や世界そのものに対して思いのままに振る舞うことのできる、完全に独立した生き物ではないことを絶えず思い起こさせます。安息日は、私たちが管理者であって、管理者の務めには責任が伴うことを教えています。十戒そのものの中に見られるように、この責任は私たちの「管理下」にいる人たちへの処遇の仕方にまで及ぶものです。

健康の管理者

今回、ここまで学んできたように、神の当初の被造物は「良い」もの、それも「極めて良い」ものでした。すべてのもの、すべての人は完全な状態で創造主の御手から出てきました。苦しみや病気、死は全くありませんでした。進化論が苦しみや病気、死を創造の手段そのものの一部と考えるのとは対照的に、これらのものは堕落後に、罪の侵入後に、初めて生じました。したがって、天地創造物語を背景にしてのみ、私たちは健康といやしについての聖書の教えを正しく理解することができます。

問6

コリントIの3:16、6:19、20を読んでください。私たちは自分の体を守ることに関して神にどんな責任を負っていますか。

私たちの体は私たちの頭脳の容れ物であって、聖霊は私たちの頭脳を通して私たちとお交わりになります。もし神と交わることを望むなら、私たちは自分の体と頭脳を守らなければなりません。自分の体を虐待する者は肉体的、精神的に自分自身を滅ぼすのです。これらの聖句によれば、健康の問題全般、また「神の神殿」である私たちの体をどのように守るかは道徳的な問題であって、永遠の結果をともなっています。

自分の健康を管理することは私たちの神との関係の重要な一部です。私たちの健康には、私たちの能力を超えた領域があることは確かです。私たちはみな劣性遺伝子を持ち、未知の化学物質や有害物質にさらされ、健康を損なうさまざまな物理的危険に囲まれています。神はこれらすべてをご存知です。しかし、能力のおよぶ範囲において、私たちは最善を尽くして、神にかたどって造られた自分の体を守るべきです。

「神を信じると言う者たちはだれひとり、体の健康に無関心であってはならない。彼らは、不節制は少しも罪でない、自分の霊性にも影響を与えないなどとうぬぼれてはならない。肉体的性質と道徳的性質との間には、密接な共感作用がある。徳性の標準は肉体的な習慣によって高くもなれば、低くもなる。……人体の組織に健康的な作用を促進しない習慣はすべて、より高く、より高尚な能力を低下させる」(エレン・G・ホワイト『レビュー・アンド・ヘラルド』1月25日、1881年、英文)。

管理者の務めの原則

問7

「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」(ヤコ1:17)。この聖句は聖書に述べられている管理者の務めという考え方を理解する上でどんな助けになりますか。

私たちはしばしば、管理者の務めをお金と結びつけて考える傾向があります。しかしながら、今回の研究で学んだように、管理者の務めはそれよりもずっと広い意味を持ちます。お金であれ、環境問題であれ、私たち自身の健康であれ、良い管理者の務めには一定の原則が含まれます。この原則は創世記に描かれた天地創造に最終的な基礎を置いています。つまり、神は私たちの創造主であり、私たちの持ち物はすべて神からの賜物であるゆえに、私たちは自分に委ねられた一切のものに関して神の前に良い管理者である義務を負っています。

問8

マタイ25:14~30を読み、このたとえが良い管理者の働きに対して与えられる報酬をどのように例示しているか考えてください。このたとえは一般的な管理者の務めの原則について何を教えていますか。

「キリストは、その僕たちに、『自分の財産』、つまり神のために用いるべき何物かをお与えになる。キリストは、『それぞれ仕事を割り当てて』おられる。すべての者は、天の永遠の計画の中に自分の占めるべき場所があるのである。だれでも、魂を救うために、キリストと協力して働かなければならない。天の住居の中に、わたしたちの場所が確実に用意されているのと同じように、わたしたちがこの地上で神のために働くべき特別な場所が定められているのである」(『希望への光』1312ページ、『キリストの実物教訓』301ページ、一部改訳)。

さらなる研究

「キリストに従う者は、奉仕をするためにあがなわれた。主は、奉仕が人生の真の目的であることをお教えになった。キリストご自身が勤労者であられて、彼に従うすべての者に、神と人類に仕えるという奉仕の法則をお与えになる。ここで、キリストは、彼らが、これまで考えもしなかったところの人生に対する高尚な見方をお示しになった。他者への奉仕に生きることによって、人はキリストと一つに結ばれる。奉仕の法則が、わたしたちを神と同胞とに結びつける鎖となるのである」(『希望への光』1312ページ、『キリストの実物教訓』300ページ、一部改訳)。

第11課 エデンからの贈り物、安息日

第11課 エデンからの贈り物、安息日

第6の日の終わりに、天地創造は完成しました(創1:31、2:1)。世界は居住できる場所に形づくられ、生き物で満たされました。アダムとエバは神にかたどって造られ、美しい、十分に備えのできた園を住まいとして与えられました。彼らは最初の結婚式をあげ、最初の家庭を築きました。神は御自分の造られたものに満足されました。それでもなおこの楽園に、あるものが付け加えられました。第7日安息日です(創2:1~3参照)。

創世記2章は、第7日を「ユダヤ人の安息日」であるとする一般的な考えに対する反証です。なぜでしょうか。なぜなら、神が「第7の日を祝福し、それを聖別された」のは、堕落以前の、もちろんユダヤ人が存在する以前の、遠くエデンにおいてだったからです。

さらに、安息日は(ユダヤ人だけでなく)全人類の創造の記念日です。したがって、すべての人が安息日の祝福にあずかることができます。

今回は、エデンからのもう一つの贈り物、つまり安息日についての聖書の教えに注目します。

創造と第7日安息日

出エジプト記20:8~11で、第4の戒めは直接、創造週に言及しています。これは重要です。なぜなら、それはエデンそのもの、つまり罪のない世界、創造主から出たばかりの完全な世界を指し示しているからです。「安息日は、新しい制度として取り入れられたものではなく、創造のときに制定されたものである。それは創造主のみわざの記念としておぼえられ、守られるのである」(『希望への光』156ページ、『人類のあけぼの』上巻358ページ)。

問1

創世記2:1~3を読んでください。第7日安息日は天地創造そのものとどれほど密接に結びついていますか。これらの聖句は、有神論的進化論が考えるような長い時代にわたってではなく、6日間で、神がこの世界を創造されたという考えを補強する上でどんな助けになりますか。

これら3節の中で、第7日が5回、言及されていることに注目してください。これら5回のうちの3回において、それが特に「第7の日」と呼ばれ、しかも2回、この日が「それ」という代名詞をもって言及されています[英語欽定訳参照]。これらの聖句によれば、この日や、この日が特に何をさすかについては、全く疑問の余地がありません。第7の日に先行するのは創造の6日間です。

問2

ヘブライ4:3、4を読んでください。『ヘブライ人への手紙』の著者は安息についての議論の中でどんな出来事に言及していますか。このことが重要なのはなぜですか。

この新約聖書の言葉は明らかに創世記の創造の記録に言及していて、天地創造が安息日に先立つ6日間でなされたという歴史的な真理に関してさらなる証拠を与えています。

今日、多くの人々は、天地創造が6日間でなされたという考えを受け入れません。彼らは、聖書の記録が真実であるという科学的な証拠を示すように要求します。しかし、科学そのものは多くの偶然性や不確定性、仮定から成り立っています。しかも、いずれにせよ、文字通りの6日間における天地創造がどのように証明でき得るというのでしょうか。

安息日の休みの豊かな意味

問3

申命記5:12~15を読んでください。ここにある安息日の戒めの強調点は出エジプト記20:8~11とどこが異なりますか。

ここで、モーセはイスラエル人に安息日を守るべきことを思い起こさせ、彼らがそうすべきなのは、神が彼らをエジプトから救い出してくださったからであると述べています。これらの聖句は、天地創造が6日間でなされたことや、神が安息日に休まれたことについて全く触れていません。むしろ、ここで強調されているのは救い、解放、贖い、つまり私たちがイエスにおいて与えられている真の贖いの象徴であるエジプトからの贖いです(Iコリ10:1~3参照)。

言い換えるなら、これらの聖句の間に矛盾は全くないし、一方の聖句を用いてもう一方の真理を否定する正当性もないということです。モーセが民に教えていることは、彼らがまず創造によって、次に贖いによって主のものであるということです。

問4

エゼキエル書20:12、出エジプト記31:13を読んでください。安息日を守るもう一つの理由は何ですか。

聖別することに触れているこれらの聖句は、神だけが私たちを聖なる者とすることがおできになることを思い起こさせてくれます。創造主だけが私たちのうちに新しい心を創造することがおできになります。

そこで、安息日を守る理由として挙げられている三つの事柄とそれらの関係について考えてください。私たちが第7日安息日を守るのは、第1に、神が6日間で創造し、7日目に安息された事実を認めるからです。第2に、神がキリストにおいて私たちを贖い、救ってくださった方だからです。第3に、神が私たちを聖別してくださる方だからです。これもまた、神の創造力によってのみなされることです(詩編51:12、IIコリ5:17参照)。

したがって、6日間における天地創造を否定する理論は神の恵みを弱体化し、自分自身の努力によって救われようとする態度を増幅する傾向があります。天地創造の物語は、私たちが恵みと、私たちのためのキリストの身代わりの犠牲とに全的に依存していることを思い起こさせてくれます。

イエスと安息日

マルコ2:27、28を読んでください。イエスはここで、安息日に関する重要な真理を啓示しておられます。イエスと弟子たちが麦畑を通って行くと、空腹だった弟子たちが麦の穂を摘んで、食べ始めました。畑を通っているときに穂を摘む行為は、慣習によって認められたことで、問題ではありませんでした。食物は必要なものであって、弟子たちが歩いているときに見つけたものを食べることによって空腹を満たすことは全く問題ではありませんでした。問題は、宗教指導者たちが自分たちの作り出した安息日遵守に関する規定を人間の必要よりも重要視したことにありました。これはキリストとファリサイ派の人々との間に続いていた論争点でした。イエスの応答は、彼らの優先順位が間違っていることを示していました。安息日は人間を祝福するための日であるべきであって、苦しみを長引かせるための口実として用いられるべきものではありませんでした。

問5

論争を引き起こす危険があったにもかかわらず、イエスは安息日にほかにどんなことをされましたか。マタ12:9~13、ルカ13:10~17、ヨハ5:1~17

福音書に記された安息日に関する論争の中で、安息日の有効性が問題となっている個所は一つもありません。むしろ、問題は第7日をどのように守るべきか、ということであって、それが廃止されるべきだとか、ほかの何かによって置き換えられるべきだとかいうことではありませんでした。

イエスの模範が示しているのは、安息日がなお守られるべきものであること、またそれがどのように守られるべきか、ということでした。イエスの模範からはっきりと読み取れることの一つは、人間の苦しみを和らげるために安息日になされた業は安息日を破ることにはならないということです。どちらかというと、イエスの模範は、人のために善を行うことがまさに安息日のあるべき守り方であることを示しているのです。

安息日と終わりの時

問6

ペトロIIの3:3~7を読んでください。終わりの時のあざける者たちについての描写を現代社会と比較してください。あざける者たちは何を否定しますか。その理由は何ですか。

あざける者たちは、自然が間断なく続いていると主張します。この主張は科学者の間で「斉一説」として知られているもので、事実上、奇跡が起こることを否定します。したがって、この主張は、主が約束されたように来られることを否定するために用いられます。

しかし、彼らがキリストの再臨を否定することと、天地創造(と洪水)の記録を否定することとを、ペトロがどのように関連づけているかに注意してください。一方を否定することは、もう一方を否定することにつながります!

問7

黙示録14:6、7を読んでください。あざける者たちの疑惑と中傷の中にあって、どんなメッセージが天の力をもって宣布されますか。

あざける者たちは間違っています。裁きは来ます。私たちは「天と地と海」と、その他いっさいのものとを創造された方を礼拝するように求められています。これは天地創造をさす言葉です。それは出エジプト記20:11を暗示し、終わりの時の創造と安息日の重要性を指し示しています。安息日が聖書にある創造と贖いの物語を象徴するように、創造物語を否定することは第7日安息日を否定し、人間によって作られた代用物を制定することにつながります。その結果は、黙示録14:8~10にあるように、霊的姦淫と神からの離反です。

神は創造主としての神を礼拝するように人々に求めておられます。しかも、第7日安息日ほど、神を創造主として完全に指し示しているものは聖書のどこにも見当たりません。したがって、私たちが創造主である神を示す最初の印である安息日を、終わりの時の中心軸と見るのも不思議ではありません。

安息日のための詩編

問8

詩編92編を読んでください。ここに、部分的にですが、安息日遵守の経験がどのようなものであるべきだと書かれていますか。私たちが主について考えるとき、この詩編にあるような喜びを表すべきなのはなぜですか。

詩編作者は明らかに主を知っていました。つまり、主がどのような方であるか、主が何をしてくださったか、主が将来、何をしようとしておられるかを知っていました。詩編作者が詩編92編で喜びを表しているのは、こうした理由のためです。

また、「安息日のための詩編」であるこの詩編の中に表されている豊かな主題に注目してください。最初にあげられているのが、神の慈愛と真実に対する賛美と感謝です。加えて、どの「安息日のための詩編」にもあるように、創造主としての神への感謝がここにも見られます。

さらに、裁きについて書かれていることに注目してください。聖書においては、神の裁きは悪人を裁くためだけでなく、義人を擁護するためにもあります(ダニ7:20~28参照)。裁きの持つこれら二つの側面が詩編のここにも啓示されています。たとえこれらの約束がいま実現しなくても、神が万物を新しくされる終わりの時に(黙21:5)、この裁きが最終的になされるという約束が私たちに与えられています。

もしこの詩編からほかに何も得るものがないとしても、私たちは安息日を、それがいかに聖なる日であっても、主にあって喜ぶべき時と理解すべきです。主にあって、また主が私たちのために成し遂げられ、また成し遂げると約束しておられるすべてのことにおいて喜ぶべき時と理解すべきです。この詩編の基調となっているのは賛美と喜び、幸福です。それは詩編作者の業によるのではなく、ただ主が成し遂げられ、また成し遂げると約束しておられるすべての業によるのです。

なんという素晴らしい賜物でしょうか。私たちの人生の7分の1が毎週、安息するために、また日常の忙しさとストレスから逃れて、私たちのための主の御業を喜ぶために聖別されているのです。

さらなる研究

「神はご自分にかたどって人間を創造された。そこには、秘められた意味は全くない。人間が動物や植物などの下等な生命形態から、ゆっくりした発達の段階をたどって進化したと仮定する根拠は全くない。そのような教えは創造主の偉大なみ業を、人間的な狭い、地上的な考え方の水準に引き下げる。人間は、宇宙の主権から神を締め出そうとするあまり、人間の品位を落とし、自らの崇高な起源を見誤っている。星の世界を高くすえ、巧みな技をもって野の花を飾り、み力の不思議な業をもって地と天を満たされた方は、その輝かしいみ業を仕上げるにあたって、美しい地球の支配者として立つ者を中央に置くために、彼に命を与えた御手にふさわしい存在者を創造することをお忘れにならなかった。霊感によって与えられた人類の系図は、その起源をたどれば、発達する細菌や軟体動物、四足獣の系列にではなく、偉大な創造主に行き着く」(『希望への光』19ページ、『人類のあけぼの』上巻18ページ、一部改訳)。

第12課 天地創造と福音

第12課 天地創造と福音

聖書の記述によれば、アダムとエバは神にかたどって創造されました。いかなる道徳的欠陥もありませんでした。しかし、彼らには、愛するうえで欠かすことのできない自由意志が与えられていました。アダムとエバは、神に背いたとき、サタンの権力に屈しました(ヘブ2:14参照)。この行為によって、全世界もまた敵の勢力下に入りました。しかし、イエスは悪魔の働きを滅ぼし(Iヨハ3:8)、私たちを彼の力から解放するために来られました。イエスは私たちの代わりに死に、私たちに命を与えることによって、これを成し遂げられました。十字架の上で、イエスは私たちのために罪となり(IIコリ5:21)、罪がもたらした父なる神との断絶を経験されました。御自分の死によって、イエスはアダムとエバの罪によって失われた神と人間との関係を回復されました。

これらのことはすべて、論理的に創造物語と一つに結びついています。創造主なる神の力によって神の子らのうちに新しい心が創造され(IIコリ5:17)、私たちのうちに神のかたちが更新され、私たちと神との関係が回復されるときに、創造が再び関連を持つことになります。

園における恵み

私たちがみなよく知っているように、「神にかたどって」造られた完全な存在者である最初の人間は罪を犯し、その罪が死をもたらしました。アダムとエバは警告を受けていて、その意味も理解していました。エバに至っては、神が言われたことを蛇に繰り返しています。それでも、二人は罪を犯しました。私たちも時々、エバのようにだまされて罪を犯しますし、アダムのように故意に罪を犯します。どちらにしても、私たちは罪人であって、神の律法を犯した罪責を負っています。

問1

創世記3:9~15を読んでください。神はアダムとエバの罪に対してどのように応答されましたか。

神は裁き、つまり「調査審判」を行われました。この裁きは、神が事実を知るためになされるのではありませんでした。むしろ、その目的は、悔い改めと回復への第一歩として、自分たちの行為に対する責任を受け入れる機会をアダムとエバに与えることにありました。神は彼らの行為について質問されました。彼らは不承不承、告白しました。彼らは有罪であって、その罪は直接的な結果をもたらしましたが、最初の福音の約束がエデンにおいて彼らに与えられたのでした(第6課参照)。

問2

創世記3:21を読んでください。さらなるどのような恵みの行為が啓示されていますか。

死は全く予期しない方法で訪れました。アダムとエバが直ちに死ぬ代わりに、1頭かそれ以上の動物が死にました。自分の代わりに、犠牲となって死んだと思われる動物を見たときの、アダムの気持ちを想像してください。アダムが死を見るのは初めてのことだったので、それは言い知れぬ感情的苦痛を彼にもたらしたはずです。その後で、動物は皮をはがれ、その皮から衣が作られました。その皮はアダムの裸を覆うために彼の身体に着せられました。皮の衣を見るたびに、またそれを肌で感じるたびに、彼は自分のしたこと、自分の失ったものを思い出したことでしょう。それ以上に、それは神の恵みを思い起こさせるものでした。

罪と死

創世記3:19で、アダムに対して、彼が死ねば、造られた塵に返る、と言われています。同じことが私たちにも起こります。私たちはサルに返るのではありません。なぜなら、サルから造られていないからです。私たちは塵から造られたので、死ねば、塵に返ります。

問3

創世記2:7、詩編104:29、30、ヨハネ1:4、使徒言行録17:24、25を読んでください。これらの聖句はどんな重要な真理を教えていますか。この真理は私たちの生き方にどんな影響を及ぼしますか。

生命は驚くべき現象です。私たちはみな生命について知っていますが、そこにはなお神秘があります。私たちは生命体を分解することができますが、後に残るのは種々の原子と分子だけです。私たちは容器の中に分子を集め、それを熱したり、電気に通したり、いろいろな実験をすることができますが、再び生命を取り出すことはできません。生きている肉体や細胞のうちには、「生命」という実体が存在するのではありません。生命とは、生きている組織全体の特性であって、細胞から分離することのできる実体ではありません。

その一方で、私たちは死を作り出す方法についてはよく知っています。私たちは生き物を殺すための多くの方法を考え出しました。これらの方法の中には、私たちの罪深い心の凶暴性と残虐性を驚くほどよく表しているものがあります。私たちは死を作り出すことはできますが、生命を創造することは私たちの範囲を超えています。生命体を創造する能力を持っているのは神だけです。科学者たちは、もし自分たちが生命を創造することができるなら、もはや神を信じる必要がなくなると考えて、生命を創造しようとしてきました。これまでのところ、そのような試みはすべて失敗しています。

もし命が神からのみ来るとすれば、神から離れることは自分を命の源から切り離すことです。神から離れることの必然的な結果は死です。たとえ人がメトセラのように969年生きたとしても、その記録はやはり、「そして死んだ」という言葉をもって終わります。罪はその性質上、神からの分離をもたらしますが、その結果は死です。

わたしたちがまだ罪人であったとき……

聖書全体を見ると、人間の罪深さに対する神の応答が贖罪的な性格のものであって、真実の、無我の愛によって動機づけられていることがわかります。アダムとエバをサタンの破壊力に委ねられたときも、神は完全に正しかったのです。結局のところ、彼らは自分で選択したのでした。しかし、アダムとエバが自分たちの行為の深い意味を理解していなかったことを、神は知っておられました。そこで、彼らがさらに詳しい知識を得て、もういちど選択をする機会を、神は彼らに与えようとされたのでした。

ローマ5:6~11を読んでください。だれかから不当な扱いを受けたとき、私たちはその相手を再び良い関係に受け入れる前に謝罪してほしいと望みます。もちろん、謝罪することはこのような状況においては適切なことです。損なわれた関係を完全に回復することには、遺憾の気持ちを表明することと、過ちに対する責任を受け入れることとが含まれます。しかし、神は私たちが赦しを求めるのを待っておられませんでした。神のほうから先に行動を起こされました。私たちがまだ罪人であったとき、神は私たちのために死んでくださったのです。ここに、神の愛の驚くべき現れが見られます。

神の行為に比べて、私たちの行為はどうでしょうか。私たちはすぐに立腹し、怒り、回復することよりも復讐することを求めます。感謝すべきことに、神は私たちをそのようには扱われません。

神が罪人を扱われる方法は、真実の愛がどのようなものであるかを教えています。愛は単なる感情ではなく、原則にもとづいた行動です。それによって、違反者を相手と和解させ、関係を回復するためのあらゆる努力がなされるのです。神がアダムとエバを扱われる方法は、神が私たちの罪を扱われる方法を例示しています。

罪を負う身代わり

問4

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(ガラ3:13)。キリストの神性を心に留めながら、この聖句の持つ深い意味について瞑想してください。このことから、神が私たちを救うために計画しておられたことについて、どんなことがわかりますか。それ以上に、キリストが私たちのためにしてくださった備えを拒絶することの悲劇について、どんなことがわかりますか。

私たちの罪の責任を負い、神から断絶した状態で死ぬことによって、キリストは、女の子孫が蛇の頭を砕くという、初めにエデンの園において与えられた約束を実現してくださいました。キリストの犠牲は神と人類家族との和解を可能にし、最終的に悪を宇宙から根絶することになります(ヘブ2:14、黙20:14)。

問5

ガラテヤ3:13を心に留めながら、マタイ27:46を読んでください。イエスの言葉は、御自身が十字架上で経験されたことについて何を啓示していますか。

キリストは十字架上で、私たちのために罪の呪いを受けられました。これが、キリストの、父なる神に対する立場の転換点となりました。犠牲の羊は、祭壇にささげられたときに、罪人の死の身代わりとなりました。同じように、キリストが十字架につけられたとき、父なる神の前におけるキリストの立場が変わりました。父なる神の臨在から断たれたとき、キリストは私たちの罪によって生じた呪いを経験されました。言い換えるなら、永遠の昔から父なる神と一つであられたイエスは、父なる神からの断絶を経験されたのです。エレン・ホワイトはこれを、「神の力の分離」と呼んでいます(エレン・G・ホワイト『原稿』93、1899年、英文)。この出来事の正確な意味を完全に理解することは困難だとしても、私たちを贖うために驚くべき代価が支払われたことだけは十分に理解することができます。

新しい創造

大いなる福音は私たちの身代わりとしてのイエスの死に中心を置いています。イエスは私たちの罪を負い、本来なら私たちが受けねばならない刑罰をお受けになりました。すでに学んだように、キリストが私たちの身代わりとして世の罪のために死なれたという考えそのものは、創造物語と不可分に結びついています。キリストが来られたのは、神の被造物への外部からの侵入者である死を滅ぼすためでした。もし神が人間を創造するための方法として進化論を選ばれたとすれば、死は逸脱や敵などではなく、むしろ人間に対する神の当初の計画の一部であったことになります。それどころか、死は神による人間の創造において重要な役割を果たすことになります。したがって、創造物語と進化の考えを融合させる方法としての有神論的進化論を、クリスチャンが拒絶しなければならないのは当然です。

創世記の創造記事は私たちのためのキリストの死を理解する上で欠かせないものですが、それは同時に、救いの計画のもう一つの側面、つまり私たちがいま神の聖なる性質にあずかるときに、私たちの内になされる神の創造の働きを理解する助けになります。

問6

詩編51:12(口語訳51:10)、エゼキエル書36:26、27、コロサイ3:10、コリントIIの5:17を読んでください。ここに、創世記1、2章に啓示された創造主としての神に関連して、どんな約束が与えられていますか。

新しい心は、神だけが創造することのできるものです。それは私たちの力を超えたものであって、私たちはただこの世界を形づくり、私たちの最初の両親を創造された同じ創造主に頼るしかありません。ダビデは自分の必要を認め、創造の業によって問題を解決してくださるように神に求めています。

「キリストと結ばれる」人は新しく創造された者です。古い考え方を捨てて、新しく創造された心を持たねばなりません。私たちの新しい心は、神の御心にかなった良い業のために創造されています。この種の創造は超自然的な過程であって、聖霊の力を通してなされます。最初の創造において示された神の創造力は、神の創造力が私たちの生き方を変え、私たちを神との関係に回復してくれるという確信を与えてくれます。

さらなる研究

「『隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属』する(申命記29:29)。神が、どんな方法で創造の働きをなさったかは、人間にあらわされていない。人間の科学は、至高者の秘密をさぐり出すことはできない。神の創造の力は、神の存在と同様に理解することはできない」(『希望への光』24ページ、『人類のあけぼの』上巻32ページ)。

「この深い暗やみのうちに神のご臨在がかくされた。神は暗やみを幕屋とし、その栄光を人間の目からかくされる。神と聖天使たちは、十字架のそばにおられた。天父はみ子と共におられた。しかし、神のご臨在はあらわされなかった。もし神の栄光が雲からひらめきわたったら、見ている人間はみな滅ぼされたであろう。しかもキリストは、この恐るべき時に、天父のご臨在によって慰めを受けられないのであった。主はひとりで酒ぶねを踏まれ、もろもろの民のなかには彼と事を共にする者がなかった」(『希望への光』1075ページ、『各時代の希望』下巻276ページ)。

第13課 再び、創造

第13課 再び、創造

ペトロは、ペトロIIの3:10~13で、天と地の運命を描写しています。天と地は、その中のあらゆるものと共に、滅ぼされます。

しかし、話はそれで終わりではありません。長い目で見ると続きがあります。なぜなら、代わりに、新しい天と新しい地が創造されるからです。

先のものと後のものの違いに目を向けてください。古いものは罪が支配しますが、新しいものには義が宿ります。古いものは死が支配しますが、新しいものは命が支配します。これほど決定的で、絶対的な違いはありません。

これらの約束からも明らかなように、創造主としての神の役割は最初の地の創造をもって終わったのではありません。また、神が私たちのうちに成し遂げてくださる働き、つまり私たちをキリストにあって新しく創造された者とすることをもって終わるのでもありません。

それどころか、この最後の創造行為がなければ、先のすべての行為は無意味なものとなるでしょう。新しい天と新しい地は私たちに対する神の約束の完結です。

新しい始まり

科学と聖書に共通している考えは、私たちの知っているこの世界が永遠には続かないということです。科学にとっては(少なくとも、いくつかの科学の解釈にとっては)、この地球と地球上の生命を生み出した偶然という同じ冷酷で無情な力は、最終的にそれを滅ぼそうとしている偶然という同じ冷酷で無情な力です。聖書もまた、この地球が永遠に続かないで、滅ぼされると教えています。しかしながら、科学の筋書きによれば、その滅びはすべてのものの永遠の終わりです。対照的に、聖書の筋書きによれば、それは全く新しく、素晴らしいものの始まりであって、それは永遠に続くのです。

問1

黙示録21:1~5を読んでください。ここに、将来についてのどんな光景が描かれていますか。どんな素晴らしい約束が私たちを待ち受けていますか。それが神にしかできないことであるのはなぜですか。

新しい世界における最高の約束の一つは、もはや死と苦しみがないということです。神がこれらの経験を喜ばしいものと見なされないのは明らかです。それらは、神が「極めて良かった」と宣言された被造物の中にありませんでした(創1:31)。それらは外からの侵入者でした。それらは決して最初の被造物の一部となるように意図されたものではなく、また新しい被造物の中にもないものです。イエスはこれらのものを滅ぼすために来られました。私たちは二度とそれらを経験しなくてもよいのです。

新しい被造物は新しい始まりをもたらします。この悲惨な罪の実験は終わります。その結果は決定的で、明らかです。すなわち罪は死と苦しみをもたらし、神の律法は命の律法だということです。

初めに天と地を創造されたように、神は新しい天と新しい地を創造されます。それらによって、私たちはみな新しい始まりを与えられます。神だけが、創造主だけが、私たちのためにそれを成し遂げることがおできになります。それはすべて、私たちのためのイエスの働きを通して私たちにもたらされます。救いの計画がなかったなら、この世が与えるもの以上の、いかなる希望も、私たちにはないことになります。何と悲しいことでしょう。

塵から命へ

問2

創世記2:7、3:19を読んでください。アダムは何から造られましたか。彼の罪の結果は何でしたか。

神はアダムを塵から創造されました。そこで、彼は生きる者となりました。アダムが神との関係にとどまる限り、彼の命は続くのでした。アダムが罪を犯したとき、彼は命の源である神から離れました。その結果、彼は死に、塵に帰りました。

問3イザヤ書26:19、ダニエル書12:2を読んでください。塵の中に眠る者たちに、何が起こりますか。

復活の約束はクリスチャンに希望を与えます。ヨブはこの希望を次のように表現しています。「この皮膚が損なわれようともこの身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう」(ヨブ記19:26)。忠実な者たちにとって、死は一時的なものです。アダムを創造し、彼に命を吹き込まれた神は、人間を塵から創造する方法を忘れてはおられません。初めのアダムの創造が創造の行為であったのと同じくらい、復活も創造の行為です。

問4

コリントIの15:52~58を読んでください。ここに、創世記の創造の記録と不可分に結びついたどんなことが教えられていますか。

イエスの再臨における義人の復活は一瞬の出来事です。最初の人類の創造と同様に、それは神による超自然的な出来事です。これは有神論的進化論と明らかに矛盾することです。結局のところ、もし神が何億年にもおよぶ進化によらないで、一瞬のうちに私たちを再創造されるとすれば、神は確かに最初の創造においても進化を用いないで人間を創造することがおできになったはずです。したがって、聖書のほかのあらゆる点について言えることですが、復活の希望は有神論的進化論を論駁するさらなる聖書の証拠となります。

人間による支配の回復

問5

創世記1:28をヨハネ12:31と比較してください。新しく創造された世界におけるアダムとエバの立場は何でしたか。だれが権力を握り、この世界の支配者となりましたか。

アダムはこの世界の支配者となる責任を与えられました。アダムが罪を犯したとき、その支配は失われました。今や、サタンは被造物においてその権力を行使し、あらゆるところに腐敗と暴力をもたらしています。

しかしながら、十字架後、イエスはサタンの支配からこの地球を奪還されました(マタ28:18、黙12:10、ヨハ12:31参照)。サタンはなお地上で活動し、災いをもたらすことを許されていますが、サタンの日数が数えられていることを知って、私たちは喜ぶことができます。十字架上のキリストの勝利はそのことの保証です。

問6

テモテIIの2:11、12、黙示録5:10を読んでください。これらの聖句はどんな真理について教えていますか。Iコリ6:2、3参照

救われた者たちには、王また祭司としての権威が与えられます。王位はある種の権威を暗示します。祭司は神とほかの被造物との仲介を暗示します。それは、他世界の住民、つまり罪とそれに伴う悲しみを経験したことのない住民を含むかもしれません。

さらなる回復

この世界においては、捕食は動物界に広く見られる現実です。「食物連鎖」という言葉は生態学における捕食の重要性を思い起こさせるもので、それのない世界を想像することは困難です。しかし、初めは、地上のすべての生き物は青草を食べていました(創1:30)。ほかの動物を食物としていた動物はいませんでした。創世記1:30は水中生物の食物に言及していませんが、同じ原則が当てはまるでしょう。それゆえに、神は被造物全体を見て、「極めて良かった」と宣言されたのです。

問7

創世記6:11~13、9:2~4を読んでください。洪水の時までに、自然界にどんな変化が起きていましたか。洪水後、人類と動物との関係はどれほど悪化しましたか。

平和な王国として始まったものが、堕落と暴力と悪に満ちたものとなりました。これらは罪の結果です。かつては「極めて良かった」世界が、自らの滅びを招くまでに悪化しました。

洪水後、動物は人間を恐れるようになりました。地上の動物も、空中の動物も、水中の動物もそうです。これは明らかに先の状況とは対照的です。このとき、動物に対する人間の支配が弱まったように思われます。

問8

イザヤ書65:25、11:6~9を読んでください。現在の世界における生物間の関係は、神が将来において約束しておられる関係とどのように異なりますか。

イザヤはこの美しい、詩的な言葉によって、新しい世界には暴力が見られないことを教えています。堕落と暴力は、自らの滅びを招いた洪水前の世界の特徴ですが、それらはどれも新しい世界には見られなくなります。それは調和と協力の世界、平和に満ちた王国です。暴力と捕食、死に慣れてしまった私たちにとっては、ほかのものを想像することは困難です。

神との関係の回復

「罪がこの世にはいる前には、アダムは創造主と分け隔てのない交わりをしていた」(『希望への光』1591ページ、『各時代の大争闘』上巻序1ページ)。しかしながら、堕落後、この親密な関係は多くの点で根本的に変わりました。

問9

創世記3:24、出エジプト記33:20、申命記5:24~26を読んでください。罪は人間と神との間にあった親密な関係にどんな影響を与えましたか。

罪は神と人間との関係を損ないました。アダムとエバを守るために、神は彼らを御前から追放しました。人間はもはや神の御顔を見て、生きることができなくなりました。

しかし、主は自ら進んで、救いの計画を立てられました。その計画によって、損なわれた関係が回復されることになりましたが、それは、神御自身にとって非常に大きな犠牲を伴うものでした。

問10

ヨハネ14:1~3、黙示録22:3~5を読んでください。十字架につく直前、イエスは弟子たちにどんな約束を与えられましたか。その結果は何ですか。

神と人間は再会し、和解し、顔と顔を合わせて会うようになります。地から呪いが取り去られ、失われていたものがすべて回復されます。贖われた者たちは新しい環境と新しい命、新しい支配、他の被造物との新しい平和、神との新しい関係にあずかります。人間が創造された本来の目的が今、実現します。神と人間と被造物の間に調和が回復され、この調和は永遠に続きます。

さらなる研究

「永遠の年月が経過するにつれて、神とキリストについてますます豊かでますます輝かしい啓示がもたらされる。知識が進歩していくように、愛と尊敬と幸福も増していく。人々は神について学べば学ぶほど、ますます神のご品性に感嘆するようになる。イエスが彼らの前に、贖いの富と、サタンとの大争闘における驚くべき功績とをお示しになると、贖われた者たちの心はいっそう熱烈な献身の念に燃え立ち、いよいよ喜びに満たされて黄金の立琴をかき鳴らし、万の幾万倍、千の幾千倍の声が一つになり、賛美の一大コーラスとなって盛りあがる。……

大争闘は終わった。もはや罪はなく罪人もいない。全宇宙はきよくなった。調和と喜びのただ一つの脈拍が、広大な大宇宙に脈打つ。いっさいを創造されたおかたから、いのちと光と喜びとが、無限に広がっている空間に流れ出る。最も微細な原子から最大の世界に至るまで、万物は、生物も無生物も、かげりのない美しさと完全な喜びをもって、神は愛であると告げる」(『希望への光』1930ページ、『各時代の大争闘』下巻467ページ)。

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