この記事のテーマ
(回心後には使徒パウロとして知られる)タルソスのサウロが、なぜあのようなことをしたのかを理解することは、さほど難しくありません。律法の重要性と、間もなく実現するイスラエルの政治的解放をずっと教えられてきた信心深いユダヤ人として、待望していたメシアが凶悪犯のように屈辱的な形で処刑されたという考えは、彼にとってあまりにも耐え難かったのです。
それゆえ、イエスの弟子たちは律法に不忠実であり、イスラエルに対する神のご計画を邪魔していると彼が確信したのも、無理はありません。パウロは、十字架につけられたイエスがメシアであり、そのイエスが死者の中から復活されたという彼らの主張は背教行為に等しいと考えました。そのような馬鹿げたことや、そのような考えを捨てない者たちには、我慢がなりませんでした。サウロは、イスラエルからこのような信仰を一掃するために、神の代理人になろう、と心に決めました。こういうわけで、イエスをメシアと信じる同胞のユダヤ人を激しく迫害する者として、彼は聖書の中に初めて登場してきます。
しかし神は、サウロに対してまったく異なる計画、彼自身が予想だにできなかった計画を持っておられました。このユダヤ人は、単にメシアとしてイエスを宣べ伝えるだけでなく、異邦人の間で宣べ伝えることになるのでした!
クリスチャンの迫害者
タルソスのサウロは使徒言行録の中で、ステファノの石打ちに関わった者としてまず登場し(使徒7:58)、次にエルサレムで起こった大規模な迫害との関連で登場します(同8:1〜5)。使徒言行録において、ペトロ、ステファノ、フィリポ、パウロは、重要な役割を演じています。その理由は、彼らがキリスト教信仰をユダヤ人世界の外へ広める出来事に関わったからです。ステファノが特に重要なのは、彼の説教と殉教がサウロに多大な影響を及ぼしたと思えるからです。
ステファノ自身はギリシア語を話すユダヤ人で、初めて選ばれた7人の執事の1人でした(使徒6:3〜6)。使徒言行録によれば、外国出身のユダヤ人でエルサレムに住みついていた一団が(同6:9)、イエスに関するステファノの説教について彼と論争を始めました。タルソスのサウロは、この議論に参加した可能性があります。おそらく参加したのでしょう。
使徒言行録6:9〜15を読んでください。ステファノに対する告発はイエスに対する告発を思い出させます(マタ26:59〜61参照)。ステファノの説教に対する激しい敵意は、二つの事柄から生じたように思えます。一つには、最大の重要性をユダヤ人の律法と神殿に置かなかったことによって、ステファノは敵の怒りを買いました。律法と神殿は、ユダヤ教の焦点であり、宗教的、国民的アイデンティティーの大切な象徴だったからです。しかしステファノは、これら二つの大切な偶像を単に軽視しただけではありませんでした。彼は、十字架につけられて復活されたイエスがユダヤ教の真の中心なのだ、ときっぱり宣言したのです。
その結果、ステファノがファリサイ人のサウロ(フィリ3:3〜6)を怒らせたのは、無理からぬことでした。初期のクリスチャンに対するサウロの熱い敵意は、おそらく彼がファリサイ派の中の厳格で戦闘的な一派、革命的情熱にあふれた一派に属していたことを示しています。サウロは、神の国の大いなる預言の約束がまだ成就していないと考えており(ダニ2章、ゼカ8:23、イザ40〜55章)、その日をもたらすために神を助けることが自分の務めであると信じていたのでしょう。しかもそれは、このイエスがメシアだという考えを含めて、宗教的堕落をイスラエルから取り除くことによってなされうると、彼は思ったのです。
サウロの回心
「『主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである』」(使徒9:5)。
初代教会に対するサウロの迫害は、(彼がステファノの死刑執行者たちの上着を預かっていただけであるように)比較的目立たない形で始まりますが、すぐに激しくなりました(使徒8:1〜3、9:1、2、13、14、21、22:3〜5参照)。サウロを説明するためにルカが用いている言葉のいくつかは、野生の獰猛な獣や、敵を殺すことに夢中になっている略奪兵の姿を描いています。例えば、使徒言行録8:3で「荒らし」と訳されている言葉は、ギリシア語訳の旧約聖書において、猪の制御不能で破壊的な行動を描くために用いられています(詩編80:14〔口語訳80:13〕)。明らかにサウロのクリスチャン撲滅運動は、便宜上の中途半端なものなどではなく、キリスト教信仰を根絶するための計画的で持続的な計画だったのです。
サウロの回心に関する三つの記述を読んでください(使徒9:1〜18、22:6〜21、26:12〜19)。人間的観点からすれば、サウロの回心は不可能に思えたに違いありません(それゆえ、多くの人が初めてそれを耳にしたとき、疑いの気持ちを表明しました)。
サウロが受けるに値したのは罰だけでしたが、神はこの熱心なユダヤ人に、罰の代わりに恵みをお与えになりました。しかし、サウロの回心が偶然に起きたものでもなければ、強制されたものでもないことは、注目すべき重要な点です。
サウロは無神論者ではありませんでした。彼は神を非常に誤解していましたが、信心深い人でした。イエスがパウロに語られた言葉——「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(使徒26:14)——は、聖霊がサウロをすでに責めていたことを示しています。古代世界において「とげの付いた棒」とは、牛が耕作を嫌がるときにつつくために使われる、とがった鋭い物の付いた棒のことでした。しばらくの間、サウロは神のつつき(促し)に抗ってきましたが、最終的にダマスコヘの途上で復活されたイエスと奇跡的に出会い、もはや戦わないことを選んだのです。
ダマスコでのサウロ
イエスとの出会いの中でサウロは目が見えなくなり、ユダという人の家に行って、アナニアという人をそこで待つように指示されました。間違いなく、サウロが肉体的に失明したことは、イエスの弟子たちを迫害するように彼を導いた霊的な盲目をはっきり気づかせるものでした。
ダマスコヘの途上で、イエスがサウロに姿をお見せになったことによって、すべてが変わりました。サウロは、自分は正しいと思っていたのに、完全に間違っていました。神のために働くのではなく、彼は神に逆らっていたのです。ダマスコの町に入ったサウロは、エルサレムを出発したときの高慢で熱狂的なファリサイ人とは別人でした。彼は食べたり飲んだりせずに、ダマスコでの最初の3日間を断食と祈りのために費やし、過去の出来事すべてをじっくり考えました。
使徒言行録9:10〜14を読み、アナニアの心の中を想像してみてください。迫害者だったサウロが、イエスの信者であるばかりか、異邦人の世界に福音を伝えるために神が選ばれた使徒パウロでもあるというのです(使徒26:16〜18参照)。
アナニアが少なからず当惑したのも、無理はありません。エルサレム教会がパウロを受け入れることに、彼の回心後ほぼ3年間ためらったのであれば(使徒9:26〜30)、この出来事のわずか数日後に、ダマスコの信者たちの心をどんな疑問や不安が満たしたのかは、想像に難しくありません!
アナニアが、タルソスのサウロに関する驚くべき知らせを告げる幻を、主によって見せられたことにも注目してください。幻以外の方法では、サウロについて語られたこと——ユダヤ人信者の敵だった人が、今や信者の1人になったということ——が本当であるとアナニアは確信できなかったかもしれません。
サウロは、キリスト教信仰を根絶するようにという大祭司の権限を委任されて、エルサレムを出発していました(使徒26:12)。しかし神は、はるかに大きな権威に基づく、まったく異なる職務をサウロに用意しておられたのです。サウロは異邦人の世界に福音を伝えることになるのです。これは、サウロの回心以上にアナニアやほかのユダヤ人信徒にとって衝撃的なことだったに違いありません。サウロはキリスト教信仰が広がるのを阻止しようとしていたのに、ユダヤ人信者が想像したであろうことをはるかに超えて、今や神がその信仰を広めるためにサウロをお用いになるのです。
福音が異邦人に伝わる
問1
最初の異邦人教会は、どこに設立されましたか。どのような出来事が、信者をそこへ行かせたのですか(使徒11:19〜21、26)。そのことはあなたに、旧約時代のどんなことを思い出させますか(ダニ2章参照)。
ステファノの死後、エルサレムで始まった迫害のために、多くのユダヤ人信者は500キロ北のアンティオキアへ逃れました。ローマ帝国シリア州の州都であったアンティオキアは、ローマ、アレクサンドリアに次ぐ重要な都市でした。約50万の人口は極めて国際的で、そのことが、異邦人教会のためばかりでなく、初代教会の世界宣教の最初の拠点としても、この町を理想的な場所にしていました。
アンティオキアで多くの人が主イエスについての福音を受け入れた結果、バルナバがこの町を訪問し、続いてパウロをそこへ招くことになりました。(使徒11:20〜26)。パウロの生涯の年表を作ることは困難ですが、回心後のエルサレム訪問(使徒9:16〜30)から、バルナバに招かれてアンティオキアで合流するまでの間に、およそ5年が過ぎているようです。その歳月の間、パウロは何をしていたのでしょうか。断言はできませんが、ガラテヤ1:21の彼の言葉に基づけば、彼はシリアとキリキアの地方で福音を宣べ伝えていたのかもしれません。ある人たちは、彼が家族から相続権を奪われ(フィリ3:8)、IIコリント11:23〜28に書かれている多くの苦しみを味わったのはその頃だろう、と言います。アンティオキア教会は、聖霊の導きの下で発展しました。使徒言行録13:1の記述は、この町の国際的な性質が、教会そのものの民族的、文化的多様性にすぐ反映されたことを示しています(バルナバはキプロス出身、ルキオはキレネ出身、パウロはキリキア出身、シメオンはたぶんアフリカ出身でした)。今や聖霊は、シリアやユダヤを越え、広範囲に及ぶ宣教活動のための拠点としてアンティオキアを用いることで、さらに多くの異邦人に福音を届けようとしておられました。
教会内での対立
言うまでもなく、人間に関することはすべて不完全であり、信仰の初期の共同体の中にも、間もなく問題が生じました。
第一に、異邦人信者が初代教会に入ることを、すべての人が喜んだわけではありませんでした。意見の違いは、異邦人伝道を巡ってではなく、異邦人が入会を認められる条件を巡ってでした。クリスチャンの条件として、イエスに対する信仰だけでは不十分だと感じている人たちがいました。信仰は、割礼とモーセの律法に従うことによって補足しなければならないと、彼らは主張しました。異邦人は真のクリスチャンになるために割礼を受ける必要があると、彼らは主張しました(使徒10:1〜11:18の中に、ペトロがコルネリウスに出会った体験とその後の反動を通して、ユダヤ人と異邦人の間の分裂の程度を見ることができます)。
サマリア人の間でのフィリポの働き(使徒8:14)やアンティオキアにおける異邦人への働きを視察したエルサレムからの公式訪問は(同11:22)、クリスチャン共同体にユダヤ人以外を入れることへの懸念を連想させます。しかし、割礼を受けていないローマ兵のコルネリウスにペトロがバプテスマを施したことへの反応は、初期の信者の間に異邦人問題に関する意見の不一致があったことの明らかな実例です。コルネリウスのような異邦人を時折入会させることは、ある人たちを不愉快に感じさせたかもしれません。しかし、イエスに対する信仰のみに基づいて、教会の扉を異邦人に開放しようとするパウロの意図的な努力は、彼の伝道を台なしにするための、ある人たちによる計画的な企みをもたらしました。
ユダヤから来たある信者たちは、アンティオキアの異邦人クリスチャンに対するパウロの働きを妨げようとしました(使徒15:1〜5)。使徒言行録15章に記されているエルサレム会議は、割礼の問題についてパウロの立場を最終的に支持したものの、宣教の働きに対する反対は続きました。約7年後、パウロがエルサレムを最後に訪問した際にも、多くの人は依然として彼の福音について疑いを持っていました。それどころか、パウロが神殿を訪れたときに、アジア州から来たユダヤ人たちが、「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている」(使徒21:28、さらに21:20、21も参照)と叫び、彼は危うく命を落としかけたのです。
さらなる研究
「パウロは、以前はユダヤ教の熱烈な擁護者として、またイエスの弟子たちを疲れを知らずに迫害する者として知られていた。勇気があり、自主的で辛抱強いパウロは、その才能と教育とをもって、どんな資格においてでも奉仕することができた。彼は驚くべき明確さで弁明し、どぎまぎさせるような皮肉で反対者を勝ち目のない状態におくことができた。こうして今ユダヤ人たちは、この並々ならぬ有望な青年が、以前自分が迫害していた人たちと一緒になり、恐れることなくイエスの名によって説教しているのを見た。
軍司令官が戦場で戦死すると、その軍隊にとって損失になるが、その死は敵の力を増大させることはない。しかし卓越した人物が敵方に加わると、彼の働きが失われるばかりか、彼が加わった側は決定的な利益を得る。タルソ人サウロはダマスコヘの途上で、神によって簡単に打ち殺されていてもよかった。そうすれば迫害する力を大いに減退させたであろう。しかし神はみ摂理によってサウロの命を助けたばかりか、彼を改心させて、敵側の戦士からキリストの側の戦士になさった。雄弁な演説家であり、辛辣な批評家であるパウロは、断固たる志と豪胆な勇気を備えていて、初代教会にちょうど必要な資質を持っていたのである」(『希望への光』1402、1403ページ、『患難から栄光へ』上巻131ページ)。
まとめ
ダマスコ途上において、復活されたイエスとパウロが出会ったことは、彼の人生おいて、また初代教会の歴史において、決定的な瞬間でした。神は、かつての教会の迫害者を変え、異邦人の世界に福音を届けるための使徒としてお選びになりました。しかし、信仰のみによって異邦人を教会に加えるというパウロの考えは、教会内のある者たちにとって受け入れがたいということがわかりました。それは、先入観や偏見がいかに私たちの宣教を妨げうるかという絶好の実例です。
*本記事は、安息日学校ガイド2017年3期『ガラテヤの信徒への手紙における福音』からの抜粋です。