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ロバート・ロビンソンの「恵みの泉よ」(『希望の讃美歌』340番)は、最も愛されているキリスト教の賛美歌の一つでしょう。しかし、ロビンソンは必ずしも信仰の人ではありませんでした。父親の死が彼に怒りを残し、彼は放蕩と酒におぼれます。有名な説教者ジョージ・ホワイトフィールドの話を聞いたのち、ロビンソンは人生を主にささげ、メソジスト派の牧師となり、あの賛美歌の歌詞を書きました。もともとの歌詞には、次のようなくだりが含まれていました。「ああ、なんと大きな負債を、私は日々恵みに負わざるをえないことでしょうか!足かせのように、あなたの憐れみによって、さまよえるわが心をあなたに結びつけてください」
クリスチャンの心がさまようという歌詞を不快に感じただれかが、その言葉を「主よ、私は感じるのです/私は主を拝し、お仕えする神を愛しがちであると」に変えました。編者の意図は良かったものの、もともとの歌詞のほうがクリスチャンの格闘を正確に描いています。信者である私たちは、肉と霊という二つの性質を持っており、それらは戦っています。私たちの罪深い性質は、常に神からさまよい出ようと「しがち」ですが、もし私たちが神の霊に進んで従おうとするなら、肉の欲望の奴隷になることはありません。これが、今週の聖句におけるパウロのメッセージの要点です。
聖霊の導きに従って歩む
ガラテヤ5:16を読んでください(申13:4、5、ロマ13:13、エフェ4:1、17、コロ1:10)。「歩む」というのは、旧約聖書の中から抜き出した比喩で、人の振る舞い方を指しています。自身がユダヤ人であったパウロは、クリスチャン生活を特徴づけるべき種類の行為を説明するために、彼の手紙の中でしばしばこの比喩を用いています。彼がこの比喩を使っているのは、初代教会に付けられた最初の名前とも関係しているようです。イエスに従う者たちがクリスチャンと呼ばれる以前(使徒11:26)、彼らは単純に、「『この道』の者たち」として知られていました(ヨハ14:6、使徒22:4、24:14)。このことは、ごく初期において、キリスト教がイエスを中心とする一連の神学的信仰であったばかりなく、「歩む」べき人生の「道」でもあったことを示しています。
問1
パウロの「歩む」という比喩は、旧約聖書の中に見られる比喩と、どのように異なりますか(レビ18:4、エレ44:23とガラ5:16、25、ロマ8:4を比較)。
旧約聖書における行為は、単に「歩む」ことでなく、より具体的には、「律法に従って歩む」ことと考えられていました。「ハラハー」というヘブライ語は、ユダヤ人が律法と、先祖のラビの言い伝えの中に見いだされる規定を指すために用いる法律用語です。「ハラハー」は、たいてい「ユダヤ法」と訳されますが、この言葉は実のところ、「歩む」に相当するヘブライ語に基づくもので、文字どおりには、「進みゆく道」を意味します。
「霊の導きに従って歩む」というパウロの言葉は、律法を守ることと矛盾しません。クリスチャンは律法を犯すような生き方をすべきだと、彼は提案しているのではありません。ここでもまた、パウロは律法や律法を守ることに反対しているのではなく、律法が悪用される律法主義的な生き方に反対しています。神が望まれる真の服従は、外部からの強制によっては決して実現しません。それは、聖霊によって生み出される内側からの動機によってのみ実現するのです(ガラ5:18)。
クリスチャンの戦い
「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(ガラ5:17、さらにロマ7:14〜24も参照)。パウロが説明している戦いは、すべての人の戦いではありません。それは、クリスチャンの中に存在する内面的な勢力争いを特に指しています。人間は肉の欲望と調和して生まれるので(ロマ8:7)、私たちが聖霊によって生まれ変わるときに限って、真の霊的戦いがあらわれ始めます(ヨハ3:6)。これは、クリスチャンでない人は道徳的戦いを経験しないという意味ではありません。彼らも確かに経験します。が、その戦いすらも、突き詰めれば聖霊の〔働きの〕結果です。しかしクリスチャンの戦いは、新しい様相を呈します。なぜなら信者は、互いに戦闘状態にある肉と霊という二つの性質を持っているからです。
歴史を通じてずっと、クリスチャンはこの戦いから逃れたいと思ってきました。社会から身を引くことでこの戦いを終わらせようとした人もいれば、罪深い性質は、何らかの神の恵みの業によって消し去られると主張する人たちもいました。しかし、いずれの試みも間違っています。確かに、私たちは聖霊の力によって肉の欲望を抑えることはできますが、この戦いは、私たちが再臨の時に新しい体を手に入れるまで、さまざまな形で続くのです。社会から逃れることは、助けになりません。なぜなら、私たちがどこへ行こうと、戦いは、私たちが死ぬか、再臨の時まで、私たちとともにあるからです。
パウロがローマ7章で、クリスチャンがしたいと望むことを妨げるものとして彼らの内面の戦いについて書いたとき、彼はその戦いの及ぶ範囲を強調しています。私たちは二つの性質を持っているので、文字どおり、戦いの両方の側に同時についています。私たちの霊的な部分は、霊的なものを望み、肉を嫌悪しますが、肉欲的な部分は肉欲的なものを望み、霊的なものに敵対するのです。回心した心は、それ自身で肉に抵抗するには弱すぎるので、私たちが持っている肉を抑える唯一の望みは、私たちの罪深い自己に対抗して聖霊の側につくことを日々決心することにあります。だからパウロは、私たちが霊の導きに従って歩むことを選ぶように、と強く勧めています。
肉の働き
肉と霊との間に存在する戦いについて導入的なことを述べたあと、パウロはガラテヤ5:18〜26において、倫理的な悪徳と美徳を列挙することでその対照的な性質について詳しく説明します。悪徳や美徳の列挙は、ユダヤ文学にもギリシア・ローマ文学にも存在していた、確立された文学上の特徴でした。このようなリストは、避けるべき行動と見習うべき徳を分類しました。
次の聖句に列挙された悪徳と美徳を注意深く吟味してください(エレ7:9、ホセ4:2、マコ7:21、22、Iテモ3:2、3、Iペト4:3、黙21:8)。ガラテヤ5:19〜23におけるパウロのリストは、これらのリストと似ている点と異なる点があります。パウロは悪徳と美徳の列挙について熟知していましたが、ガラテヤ書における彼の二つのリストの用い方には著しい相違があります。第一に、パウロは二つのリストを対比していますが、言及の仕方が同じではありません。彼は、悪徳のリストに「肉の業」というレッテルを貼っていますが、美徳のリストには「霊の結ぶ実」というレッテルを貼っています。これは重要な区別であり、イギリスの神学者ジェームズ・D・G・ダンが次のように書いているとおりです。「肉は要求するが、霊は生み出す。一方のリストは、強烈な自己主張と熱狂的な放縦を暗示するが、もう一方はむしろ、他者への関心、平静、回復力、信頼について述べている。一方は、人間の作為を強調し、もう一方は、神によって可能になることや恵みによって授けられること、内面の変化が責任ある行動の源であるという点を強調している」(『ガラテヤ書』308ページ、英文)。
パウロの二つのリストの興味深い第二の相違は、悪徳のリストには意図的に複数形のレッテル(‘Works of the flesh’)が貼られているのに、「霊の結ぶ実」(‘Fruit of the Spirit’)のほうは単数形であるという点です。この違いは、肉に生きる人生が分裂、混乱、不和、不一致を助長するしかないことを示唆しているのかもしれません。それとは対照的に、霊の領域に生きる人生は一つの霊の実を結び、その実は一致を促進する九つの資質としてあらわれます。
これに関連してある人たちは、人が神について何を信じるかは、その人が誠実でありさえすれば、さほど重要ではない、と言います。それはまったく見当違いです。パウロの悪徳のリストは、正反対のことを示しています。神に関する間違った見解は、性行動、宗教、倫理に関する歪んだ考えにつながり、人間関係の破綻をもたらします。さらに、それらは永遠の命を失うことにもつながるのです(ガラ5:21)。
聖霊の結ぶ実
問2
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(ガラ5:22、23)。十戒を守ることは、これらの聖句で表現されているように、いかに霊の結ぶ実を反映していますか(マタ5:21、22、27、28、22:35〜40も参照)。
十戒は、愛に置き換わるものではありません。十戒は、私たちが神と人に対していかに愛を示すべきかの指針となるものです。愛がどれほど律法の条文を超越していようと、愛は律法と対立しません。神や隣人に対する愛が十戒を無効にするという考えは、自然に対する愛が重力の法則を無効にするというのと同じくらい、筋が通っていません。
肉の業が15の単語で説明されているのに対して、霊の結ぶ実は九つの上品な美徳によって言いあらわされています。学者たちは、これらの美徳が三つずつのかたまりにまとめられていると考えていますが、その順序の重要性に関しては、ほとんど意見が一致していません。「三」という数字は、さりげなく三位一体をあらわしているのだと理解する人もいれば、三つ組みは、神と隣人と自分自身に対する私たちの関わり方を反映しているのだと考える人、このリストは本質的にイエスを描いたものだとみなす人もいます。これらの見方にはいずれも何らかの長所がありますが、見逃されている最も重要な点は、パウロがクリスチャン生活において最高の重要性を愛に置いていることです。
パウロが九つの美徳の最初に愛を挙げている事実は、偶然ではありません。彼はガラテヤ5:6、13で、クリスチャン生活における愛の中心的役割をすでに強調していますし、彼はほかの箇所でも美徳のリストに愛を含めているからです(IIコリ6:6、Iテモ4:12、6:11、IIテモ2:22)。ほかの美徳はどれもキリスト教以外の資料の中にも登場しますが、愛は極めてキリスト教的です。このことは、愛が単に多くの美徳の中の一つとみなされるのではなく、ほかのすべての美徳の鍵である主要なクリスチャンの美徳とみなされるべきであることを示しています。愛は聖霊の極めて顕著な実であり(Iコリ13:13、ロマ5:5)、たとえ愛を示すことが時としていかに困難であろうと、それがすべてのクリスチャンの生き方と態度を特徴づけるべきです(ヨハ13:34、35)。
勝利への道
肉と霊との内面的な激しい戦いは、あらゆる信者の心の中で起こるでしょうが、クリスチャンの生活は、敗北、失敗、罪によって支配されるべきではありません。
ガラテヤ5:16〜26には、霊が支配する生活を特徴づける五つの動詞が含まれています。第一に、信者は霊の導きに従って「歩む」(16節)必要があります。「歩む」に相当するギリシア語は「ペリパテオー」で、文字どおりの意味は、「歩き回る」または「従う」ということです。有名なギリシア哲学者アリストテレスの弟子たちは、彼が行く場所にどこへでも付き従ったので「ペリパテーティコス(逍遥派)」と呼ばれていました。この動詞が現在形であるという事実は、パウロが時折歩くことについて語っているのではなく、継続的な日ごとの体験について述べていることを意味します。さらに、霊の導きに従って「歩む」ことは命令なので、その「歩み」は私たちが日々なすべき選択であることが示唆されています。第二の動詞は、「導かれる」(18節)です。これは、私たちが行くべき所へ行くために、聖霊に導いていただく必要があることを示しています(ロマ8:14、Iコリ12:2と比較)。私たちの仕事は導くことではなく、従うことです。
次の二つの動詞は、ガラテヤ5:25に登場します。前の動詞は「生きる」(ギリシア語で「ザオー」)です。「生きる」という言葉によって、パウロはすべての信者の人生を特徴づけるはずの新生の体験に触れています。彼が現在形を用いていることは、新生の体験が日々新たにされねばならないことを指し示しています。私たちは霊の導きに従って生きているので、霊の導きに従って「前進する」必要もあると、パウロは書いています。「前進する」〔英語訳では‘walk(歩む)’〕と訳されている言葉は16節の「歩む」という言葉とは異なり、ここでは「ストイケオー」という動詞です。これは軍隊用語で、文字どおりには、「横隊になる」「足並みを揃える」「一致する(従う)」ことを意味します。ここでの考えは、霊は私たちに命を与えるだけでなく、日々私たちの生活を導くべきでもあるということです。
パウロが24節で使っている動詞は、「十字架につける」です。これは少し衝撃的です。もし私たちが霊に従うべきであるなら、私たちは肉の欲望を殺すという確固たる決心をしなければなりません。言うまでもなく、パウロは比喩的に語っています。私たちは、霊的生活に食物を与え、肉の欲望を飢え死にさせることによって肉を十字架につけるのです。
さらなる研究
「クリスチャンの人生は、決して平坦ではない。彼は厳しい戦いに遭遇する。激しい誘惑が彼を襲う。『肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです』(ガラ5:17)。地球史の終わりに近づけば近づくほど、敵の攻撃はますます巧妙で、人を惑わすものになる。その攻撃の激しさも頻度も増すだろう。光と真理に逆らう者たちは、一層かたくなになり、感受性も弱くなり、神を愛し、その戒めを守る者たちに対してさらなる敵意をいだく」(エレン・G・ホワイト『SDA聖書注解』第6巻1111ページ、英文)。
「聖霊の影響力は、魂に宿るキリストの命である。私たちはキリストを見ることも、キリストと話すこともできないが、彼の霊はあちこちにおいて私たちのそば近くにいてくださる。聖霊は、キリストを受け入れるすべての人の中で、またその人を通して働かれる。聖霊の内住を知る者たちは、霊の実——愛、喜び、平和、寛容、柔和、善意、信仰——をあらわす(「原稿41」1897年)」(同1112ページ、英文)。
まとめ
すべての信者の生活の中に、肉の欲望と霊によって結ばれる実との戦いは存在しますが、クリスチャンの人生が失敗を運命づけられる必要はありません。キリストが罪と死の力に勝利されたのですから、クリスチャンの人生は、聖霊が支配する人生になりえます。聖霊は、肉の欲望を食い止める神の恵みを日々与えてくださいます。
*本記事は、安息日学校ガイド2017年3期『ガラテヤの信徒への手紙における福音』からの抜粋です。