【ガラテヤの信徒への手紙】福音と教会【6章解説】#13

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ある農夫たちが、彼ら自身のために一番大きな野菜は残しておき、小さめのその野菜を〔種イモのように〕種として植えることにしました。期待外れの収穫が何回か続いたあと、彼らは、自然が彼らの農作物をビー玉ほどの大きさにまで小さくしてしまったことに気づきました。この大失敗を通して、その農夫たちは生命の重要な法則を一つ学んだのです。

「彼らは人生の最上のものを自分自身のために取って置き、残りものを種として用いてはならなかった。生命の法則は、収穫は植えつけを反映すると定めていたのである。

別の意味で、小さな『野菜』を植えることは、今でもよく行われている。私たちは人生の大きなものを自分自身のために取り、残り物を植える。そして、極度に霊的法則をねじ曲げることで、自分の利己心が無欲さで報われることを期待するのである」(『国際学生協会ニュースレター』2007年3月号、英文)。

パウロはこの原理をガラテヤ6:1〜10で適用しています。教会員が「互いにかみ合い、共食い」(ガラ5:15)するのではなく、教会は、聖霊の導きによって私たちが他者を自分より重んじる場所にならねばなりません。私たちが恵みによって救われることを理解することで、私たちは謙遜になり、他者との接し方においてもっと忍耐深く、情け深くなるべきです。

罪に陥った人を立ち帰らせる

パウロはクリスチャン生活の質に関して非常に高い理想を持っていますが(ガラ5:16)、ガラテヤ6:1における信者への勧告は、きわめて現実的です。人間は完全ではありません。非常に献身的なクリスチャンでさえ、過ちを免れることはできません。ガラテヤ5:16のパウロの(ギリシア語の)言葉は、いずれ教会で起こりうる状況を彼が心に思い描いていたことを示しています。パウロはガラテヤの人たちに、そのような状況が生じたときの対処法について、実際的助言を与えています。

仲間の信者が何らかの罪深い行為に陥ったとき、クリスチャンはいかに対応すべきでしょうか(ガラ6:1、マタ18:15〜17)。私たちはガラテヤ6:1におけるパウロの助言から益を得るために、彼がどのような状況を頭に描いているかを正確に把握する必要があります。そのためには、この文の前半で用いられている二つの言葉に留意する必要があります。最初の言葉は「陥る」で、文字どおりの意味は、「見破られる」「捕らえられる」「驚かされる」などです。文章の前後関係と、この言葉に伴うさまざまな意味合いは、パウロが二つの面を考えていることを示唆します。それは、信者がほかの信者を何らかの悪い行為に「陥らせる」ことだけでなく、人が状況次第で避けることができたかもしれない行動によって「捕らえられる」過程をも意味しています(箴言5:22参照)。

パウロが論じている不正な行為が意図的なものでないであろうことは、彼が用いている言葉から明らかです。「罪」とか「罪過」とか訳されている言葉は、ギリシア語の「パラプトーマ」の派生語で、意図的な罪ではなく、「過ち」「しくじり」「つまずき」などを指します。「つまずき」という意味は、パウロが先に述べた、霊の導きに従って「歩む」ことを踏まえると特にうなずけます。これはその人の過ちの言い訳にはまったくなりませんが、パウロが大胆な罪(Iコリ5:1〜5)を扱っているのではないことを明らかにしています。

このような状況における適切な応じ方は、処罰、裁き、除名などではなく、立ち帰らせることです。「立ち帰る」と訳されているギリシア語は「カタリゾー」で、「修復する」「整理整頓する」ことを意味します。新約聖書では、網の「手入れをする」という意味で使われていますし(マタ4:21)、ギリシア語の文献では医学用語として、折れた骨を接ぐことをあらわしています。倒れて脚の骨を折った仲間の信者を見捨てないように、私たちは、キリストの体の一員として、神の国への道をともに歩む途中でつまずき、倒れるかもしれないキリストにある兄弟姉妹を優しく世話するべきです。

誘惑に注意する

「ナタンはダビデに向かって言った。『その男はあなただ』」(サム下12:7)。

ガラテヤ6:1での(誘惑に陥らないように私たち自身の身を守りなさいという)パウロの言葉の真剣さを、見逃してはなりません。パウロの訴え方の中に、彼の勧告の背後にある緊急性のあらわれや個人的心配が見て取れます。「気をつけなさい」と訳されている言葉の文字どおりの意味は、「警戒する」(ロマ16:17)、「注意を払う」(フィリ2:4)です。つまり、パウロが文字どおりに言っているのは、罪があなたにも不意打ちを食らわすことがないように、「あなた自身に用心深い目を向け続けなさい」ということです。この警告を強調するために、彼はガラテヤ6:1の前半で使っている二人称複数形(「あなたがた」)を、後半では二人称単数形(「あなた」)に変えています。これは、教会員全員に当てはまる全般的な警告ではなく、教会内の1人ひとりに向けた個人的な警告だということです。

パウロは、彼がガラテヤの人たちに強く警告している誘惑がどういう性質のものであるかを、はっきりとは明らかにしていません。たぶん彼の頭の中には具体的な道徳的逸脱が何か一つあったのではなく、それが何であれ、彼らが立ち帰らせようとしている人と同じ罪を犯す危険を単純に指していたのでしょう。同時に、うぬぼれに反対するガラテヤ5:26のパウロの言葉は、彼らが、立ち帰らせようとしている者たちよりも自分たちのほうが何らかの形で霊的に優れていると感じることに釘を刺しているようです。

パウロはガラテヤの人たちが霊的に高慢になることを警告する必要がありました(Iコリ10:12、マタ26:34、サム下12:1〜7参照)。クリスチャンの歩みにおける最大の危険の一つは、ある種の罪を私たちが犯す恐れはない、と何となく思わせる霊的なうぬぼれの感覚です。しかし厳しい事実として、私たちはだれもが罪深い性質を、つまり神に逆らう性質を持っています。それゆえ、神の霊の抑制する力がなく、条件がそろいさえすれば、私たちはどんな罪にも屈してしまうのです。そのような、キリストを離れた私たちの真の姿に気づくことは、私たちが独善という罪に陥るのを防ぐとともに、過ちを犯す他者に対してより大きな同情心を私たちに与えてくれます。

重荷を担う

罪に陥った人を立ち帰らせることに加え、パウロは他の指示もガラテヤの信者に与えています(ガラ6:2〜5、さらにロマ15:1、マタ7:12も参照)。ガラテヤ6:5で「重荷」と訳されているギリシア語は「バロス」で、文字どおりには、だれかが遠くまで運ばねばならない重い荷物を意味します。しかし徐々に、暑い日の長時間の重労働といったような(マタ20:12)、あらゆる種類の苦しみや困難をさす比喩になりました。「互いに重荷を担いなさい」というパウロの命令の背景には、前の節で触れられている仲間の信者の道徳的廃頽も確かに含まれますが、彼が心に抱いている重荷の概念はずっと広いものです。パウロの指示は、見逃されてはならないクリスチャン生活に関する霊的洞察をいくつか明らかにしています。

第一に、神学者ティモシー・ジョージは次のように述べています。「すべてのクリスチャンには重荷がある。私たちの重荷は大きさや形が違うかもしれないし、私たちの人生の摂理的秩序によってその種類も異なるだろう。ある者にとっての重荷は、ガラテヤ6:1にあるように、誘惑とその道徳的廃頽の結果である。別の者にとっての重荷は、肉体的な病、精神障害、家族の危機、失業、悪霊による抑圧、その他かもしれないが、クリスチャンで重荷を免れている人はだれもいない」(『ガラテヤ書』413ページ、英文)。

第二に、神は、すべての重荷を独りで背負い込むようにとは意図しておられません。残念ながら、私たちはだれかに肩を貸してもらうよりも、だれかの重荷を負ってその人を助けようとします。自分自身も必要と弱さを持っていることを認めようとしないとき、パウロはその自己充足的な態度(ガラ6:3)を人間の高慢だと非難します。そのような高慢は、私たちから他者の慰めを奪うだけでなく、神が彼らを召してさせようとしておられる働きを彼らが実行できないようにするのです。

第三に、他者の重荷を担うようにと神が私たちを召しておられるのは、私たちの行動を通して、神の慰めがあらわされるからです。この考えは、教会がキリストの体である事実の上に基づいています。その実例は、「しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました」(IIコリ7:6)というパウロの言葉の中にあります。次の点に注目してください。「神の慰めがパウロに与えられたのは、個人的な祈りや主に仕えることによってではなく、友人との交わりとその友人がもたらした良い知らせを通してであった。私たちが互いの重荷を担うという人間の友情は、御自分の民に対する神の御目的の一部なのである」(ジョン・R・W・スコット『ガラテヤ書のメッセージ』158ページ、英文)。

キリストの律法

パウロは、重荷を担うこととキリストの律法を全うすることを結びつけています(ガラ5:14、6:2、ヨハ13:34、マタ22:34〜40)。パウロが「キリストの律法」という言葉(ギリシア語で「トンノモントゥークリストゥー」)を使っているのは、Iコリント9:21に似た表現(「エンノモスクリストー」)があるものの、聖書ではここだけです。この言葉が独特であるために、結果としてさまざまな解釈がなされてきました。これは、シナイで与えられた神の律法が「キリストの律法」という別の律法に置き換わった証拠だ、と間違って主張する人もいます。また、重荷を担うというのはイエスの模範に私たちが従うことを意味するのであり、この「律法」という言葉は、一般的な「原則」(ロマ7:12参照)を意味しているにすぎない、と主張する人もいます。後者の解釈には一理ありますが、ガラテヤ6:2の前後関係と5:14のよく似た語句とは、「キリストの律法を全うする」というのが、愛によって道徳律を全うすることの言い換えであることを示唆しています。パウロは手紙の中で、道徳律はキリストの到来によって無効になったのではない、とすでに示しました。そうではなく、愛によって解釈された道徳律は、クリスチャン人生において重要な役割を果たし続けます。これこそが、イエスが地上の働きの中で教えるとともに、その生涯と死においてさえ実践されたことの要約なのです。他者の重荷を担うことによって、私たちはイエスと同じ道を歩むだけでなく、律法を全うすることにもなります。

ガラテヤ6:2と6:5の明らかな矛盾という、もう一つの問題も浮上してきます。しかしこの問題は、パウロが二つの異なる状況を説明するのに二つの異なる言葉を使っていることに気づけば、容易に解消されます。すでに触れたように、2節の「重荷」に相当する言葉(「バロス」)は、長距離を運ばなければならない重い荷物を指します。しかし、5節の「フォルティオン」という言葉は、船荷、兵士のリュック、はたまた子宮の中の胎児を意味します。前の二つの荷は降ろすことができますが、最後の荷は降ろすことができません。妊娠中の母親は自分の子どもを運ばなければならないからです。この例が示すように、人々が私たちを助けて運べる重荷もあれば、いかなる人も私たちのために運ぶことのできない重荷もあります。例えば、罪悪感、苦しみ、死などです。このような重荷に関しては、私たちは神の助けだけに頼らなければなりません(マタ11:28〜30)。

まくことと刈り取ること

ガラテヤ6:7で「侮られる」と訳されている言葉(「ミュクテリゾー」)は、ギリシア語訳の旧約聖書にはしばしばあらわれますが、新約聖書ではここにしか登場しません。その文字どおりの意味は、「だれかを侮辱して鼻であしらうこと」です。旧約聖書において、この言葉は通常、神の預言者をあざ笑うことを指し(代下36:16、エレ20:7)、一箇所では、神に対する反逆的態度を生き生きと説明するために用いられています(エゼ8:17)。

パウロの要点は、人々は神を無視し、神の戒めを軽視さえするかもしれないが、彼らは神を出し抜くことなどできはしないということです。神は究極の裁判官であり、最終的に彼らは自分の行動の代償を支払わねばならなくなるでしょう。

ガラテヤ6:8を読んでください。聖書の登場人物の中で、肉にまいた人、霊にまいた人の例を見ることができます(使徒5:1〜5、ルカ22:3、ダニ1:8、マタ4:1を参照)。まくことと刈り取ることに関するパウロの比喩は、彼独特のものではありません。この比喩が古代の多くの諺にも出てくる人生の事実です。しかし重要なのは、パウロが肉と霊に関するこれまでのコメントを強調するために、どうそれを用いているかという点です。ジェームズ・D・G・ダンは、「現代風に言えば、私たちは自由に選べるが、自分の選択の結果は自由に選べないということだ」(『ガラテヤ書』330ページ、英文)と記しています。

神はこの世の罪の結果から必ずしも私たちを救い出されませんが、私たちは自分の誤った選択に対する絶望感で打ちのめされてはなりません。私たちは、神が私たちの犯した罪を赦し、御自分の養子としてくださったことを喜ぶことができます。私たちは現在手にしている機会を用いて天の実りを生み出すものに投資すべきです。

その一方で、ガラテヤ6:10は次のような点を明らかにしています。「クリスチャン倫理には二重の焦点がある。一つは、『すべての人に良いことをしよう』という普遍的で包括的な焦点。もう一つは、『家族である信者に、とりわけ良いことをしよう』という限定的で特定的な焦点である。パウロの普遍的な訴えは、あらゆる場所にいるすべての人が神にかたどって造られているということ、それゆえに神の目に限りなく貴いものであるという事実に基づいていた。聖書の啓示の最も重要なこの前提を忘れたときに、クリスチャンは逃れがたく、人種差別、性差別、部族主義、階級主義というような分別を失わせる罪や、アダムとエバから今日に至るまでの人間社会を傷つけてきた多くの偏狭な考えの犠牲者になってきたのである」(ティモシー・ジョージ『ガラテヤ書』427、428ページ、英文)。

さらなる研究

「神の聖霊は良心によって悪を抑制しておられる。人間が聖霊の影響力よりも自分自身を上に置くとき、彼は罪の実を刈り取る。そのような人に対して、不従順の種をまかないようにさせる聖霊の影響力は次第に弱まる。警告も彼に対して次第に力がなくなる。彼は徐々に神への畏れを失う。彼は肉にまき、堕落を刈り取るだろう。彼が自らまいた種の実は熟しつつある。彼は神の聖なる戒めを軽蔑する。彼の肉の心は石の心になる。真理への抵抗は、彼が罪の中にあることを裏づける。不法、犯罪、暴力が大洪水前の世界ではびこったのは、人間が悪の種をまいたからである。

魂を破壊するものについて、すべての人はよく知っているべきだ。それは、神がこれまで人間に発してこられたいかなる法令によるのでもない。神は人間を霊的盲目にはなさらない。人間が真理と誤りを区別できるように、十分な光と証拠を与えてくださる。しかし神は、真理を受け取るように人間を強制はされない。良いものを選ぶか、悪いものを選ぶか、神は人間を自由にしておられる。もし人が自分の判断を正しく導くのに十分な証拠に抗うなら、二度目にはもっと容易にそうするだろう。三度目にはもっと熱心に神から身を引き、サタンの側につくことを選ぶだろう。そしてこのような道をたどって、彼は悪を支持し、彼が真理として大切にしてきたうそを信じるに至る。彼の抵抗がその実を結んだのである」(『SDA聖書注解』第6巻1112ページ)。

まとめ

神が御自分の民の中におられることは、教会の中にあらわれるキリストのような精神によって示されます。それは、過ちを犯した者に赦しや回復がいかに与えられるか、試練の中にあって信者がいかに助け合うか、信者の間だけでなく、未信者にもなされる意図的な思いやりの行動などの中に見られるのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年3期『ガラテヤの信徒への手紙における福音』からの抜粋です。

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