【レビ記】救いの聖所【解説】#1

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救いは信仰によって与えられる

罪人を救う神の方法はどの時代においても同じです。救いは、神が私たちの罪の代価を支払うために備えてくださった救い主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられます。

神のみこころを知る

イエス・キリストの時代以前に生きていた人々は、どのようにして自分の人生に対する神のみこころを知ったのでしょうか。神はどのような方法によって、彼らの社会が神の理想よりもはるかに劣ったものであることを教えられたのでしょうか。神はどのようにして、彼らが救い主を必要とする罪人であることを悟らせられたのでしょうか。神はどのような方法を用いて、彼らに救い主のわざを理解させられたのでしょうか。これらの疑問に対する答えがレビ記に記されています。

現代の多くのクリスチャンにとって、レビ記は遠い昔からのカビのはえた遺物と見られています。しかし、そうではありません。たしかに、レビ記は古い書物です。しかし、古いものがすべて古臭い遺物というわけではありません。レビ記を研究することによって、キリスト教の福音に新しい理解が得られます。それは、イエス・キリストのうちにゆるしと救いがあるという新約聖書の教えを私たちに確信させ、また人生のさまざまな問題について、神のみこころを私たちに示してくれます。

レビ記は、新約聖書と関連させて研究するとき、私たちにとって非常に重要な意味があります。イエスと新約聖書の記者たちは、モーセが霊感を受けたレビ記の著者であると認めています(マタイ8:1~4参照一レビ記14章、ヘブル7:14比較)。新約聖書の記者たちはしばしば、レビ記の儀式や律法がキリストの働きを例示するものであると述べています。

主は十戒を要約されたとき、「第二」の戒めをレビ記から引用されました-「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22:39-レビ記19:18比較)。ャコプはこの戒めを、「きわめて尊い律法」と呼んでいます(ヤコブ2:8)。

宗教上の信仰は旧約聖書においても新約聖書においても同じです。レビ記が書かれてから3000年以上経過した時代に生きている私たちは、新約聖書—とくにヘブル人への手紙―を学ぶことによって、レビ記における聖所を中心とした儀式の持つすばらしい意味を知ることができます。そうすることによって、聖書に教えられている宗教上の信仰が旧約聖書においても新約聖書においても本質的に同一であることがわかります。さらに私たちは、「十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた」救い主をよりはっきりと見ることができます(ペテロ第I 2:24)。

父祖たちの信仰(ヘブル11:4、7、ガラテヤ3:8、ヨハネ8:56)

創世記には、アダムからモーセまでの父祖たちの生涯が簡単に描写されています。名前しか記されていない人たちもいます。しかし、私たちは三人の父祖たちの経験を通して、彼ら自身の信仰とモーセ以前の時代の忠実な父祖たちの信仰について知ることができます。

質問1

アベルはどんな方法によって、神に対する彼の信仰を表明しましたか。ヘブル11:4

「アベルは、贖罪の大原則を理解した。彼は自分が罪人で、彼の魂と神との間の交わりを、罪とその刑罰である死とが妨げているのを知った。彼は、ほふられた犠牲、すなわち、犠牲にされた生命をたずさえてきて、彼が犯した律法の要求を認めた。彼は、流された血によって、来るべき犠牲、カルバリーの十字架上のキリストの死を見た。そして、彼は、そこでなされる贖罪を信じて、自分が義とされ、供え物か受け入れられた証拠が与えられた」(『人類のあけぼの』上巻68ページ)。

質問2

ノアは来るべき大洪水と、洪水後の人々に伝えられるどんな真理を当時の人々に宣べ伝えましたか。ペテロ第I1・2:5、ヘブル11:7

質問3

アブラハムはどんな経験によって、来るべき救い主の犠牲が身代わりの死であることを理解しましたか。創世記22:1~14

アブラハムは福音の意味を学びました。「神は、型と約束によって、『アブラハムに…·良い知らせを、予告したのである』(ガラテヤ3:8)。そしてアブラハムの信仰は、来臨される贖い主に集中された。……イサクのかわりにささげられた雄羊は、われわれの身代わりとして犠牲となられる神のみ子を代表していた。人間が神の律法を破って死ぬべき運命に陥ったとき、父なる神は、み子をながめて、罪人に『生きなさい。わたしは、身代わりを見つけた』と言われた。

神が、アブラハムにその子を殺すように命じられたのは、アプラハムの信仰をためすとともに、彼の心に福音を現実的に強く印象づけるためでもあった。あの恐ろしい試練の暗黒の数日間の苦悩は、人類の贖罪のために払われた無限の神の大犠牲を、アブラハムが自分の体験によって学ぶために神が許されたのである」(『人類のあけぼの』上巻160、161ページ)。

イスラエルの信仰(ヘブル10:1~4)

神は御自身の計画を示されました。イスラエル人はシナイにおいて、神のもとに一つの国家として組織されました。しかし、彼らの宗教は父祖たちのそれとは異なった、別のものではありませんでした。それは、犠牲制度で示された古代の父祖たちの信仰の開花であり、自然に発展したものでした。

以下の二つの事実がこのことを裏づけています。

  • イスラエルはシナイで、彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコプと契約を結ばれた同じ神と契約関係に入っています(創世記17:7、8、出エジプト記6:2~8、19:3~6参照)。イスラエルは、先祖たちが礼拝していた同じ神を礼拝しました。イスラエルの霊的遺産はノア、セツをへて、アダムにまでさかのぼることができます。
  • 父祖たちの礼拝での基本的な犠牲である燔祭は、イスラエルの聖所においても続けられていました(創世記8:20、ヨブ記l:5、42:8参照)。父祖たちの燔祭は、祭司がイスラエルのためにささげる中心的な朝夕の犠牲として維持されました(出エジプト記29:38~42参照)。中庭の祭壇の名は明らかにこの事実に由来しています。それは、「燔祭の祭壇」と呼ばれていました(出エジプト記30:28)。

幕屋の礼拝は神の目的を明示していました。イスラエルの幕屋(神殿)での聖所礼拝が初期の父祖たちの礼拝と結びついていたという事実は、神の啓示が明らかにされることの一つの例でした。イスラエルの聖所での新しい礼拝形式のうちに、神の目的がより完全なかたちで示されていました。

神の計画のなかで、神の民が神について、罪の問題について、神との和解の方法について、新しい、より深い理解が与えられる時期が来ていました。

質問4      

レビ記の礼典律はイスラエル人のためにどんな役割をはたしていましたか。それにはどんな限界がありましたか。ヘブル10:1~4

これらの聖句はレビ記全体を理解するための鍵を与えてくれます。つぎの点に注目してください。

 これらの聖句における「律法」とは、犠牲、祭り、その他の儀式制度についてのモーセの教えのことです。この律法はレビ記のなかで簡潔に記されています。

  • レビ記の律法は「きたるべき良いこと」を予示するためのものでした。
  • 神はレビ記の儀式そのものにいかなる救いの価値をもお与えになる意図はありませんでした。それらは単に、人々の関心を来るべきメシヤに向けさせ、また彼らの信仰を真の救い主に向けさせるための影、予型、指針としての役目を果たすものでした。
  • 「きたるべき良いこと」とは、悔い改めた罪人を清める、きたるべき救い主の完全な犠牲をさしています。それはまた、彼らのために神のみまえでなされるキリストの大祭司としての働きをも示しています。

各時代における神の幕屋

神がイスラエルの礼拝を発展させるためにまずお取りになった方法は、幕屋を建てさせることでした。ほぼ500年後のソロモンの治世において、この「一時的」な天幕はエルサレムの恒久的な神殿に変わります。イスラエルの栄光であったこの壮大な神殿も、紀元前586年にネブカデネザルによって破壊されました。のちに、バビロンから帰ったユダヤ人は第二の神殿を建てました。ヘロデ大王は紀元前20年にこの神殿の再建・装飾に取りかかりました。イエスの在世当時も、この工事は続いていました。それが完成したのは、ローマ軍による神殿破壊があった紀元70年の少し前でした。イスラエルの聖所の建物はいろいろと姿を変えましたが、モーセがレビ記に残した儀式には変化はありませんでした。

質問5

地上の聖所と天の聖所とのあいだには、どんな関係がありますか。出エジプト記25:8、9、40ヘブル8:5、9:24

「ひな型」と訳されたヘブル語は、立体の模型または建築計画、あるいはその両方を意味すると考えられます。この言葉はより高い実在、つまり天の聖所、天の神の住まいを示すものでしょうか。ヘブル人への手紙の著者は、このことを肯定しています。彼は出エジプト記25:40を引用して、地上の聖所が天にある「真の」聖所の「模型」・「比喩」であると述べています(ヘブル8:1、2参照)。

建築者である神

「その大きさと形、使用する材料、内部の造作に関する細かい指示を含めたその構造設計は、神ご自身がモーセにお与えになった。手で造られる幕屋は、『ほんとうのものの模型』

『天にあるもののひな型』(ヘブル9:23、24)―われわれの大いなる大祭司キリストが、ご自分の生命を犠牲となさった後で、罪人のために奉仕なさる天の神殿のひな型であった。神は、山でモーセの前に天の聖所の光景を示し、すべてのものを示された通りに造ることを命じられた」(『人類のあけぼの』上巻405、406ページ)。

質問6

神の救いの福音を示していたイスラエルの神殿、聖所、レビの儀式によって、神は最終的に何を教えようとされたのでしょうか。イザヤ書56:6、7

私たちの天の父なる神はすべての人類家族を愛しておられます。神はイスラエルに対して輝かしい理想を持っておられました。神はすべての民族に恵みを伝えるという一大計画のもとにイスラエルを御自分の代理者として選ばれました。神の神殿は「すべての民の祈の家」となるのでした(イザヤ書56:7)。神はレビ記の儀式と象徴によって、彼らに救いの計画を教え、個人的な救いをもたらそうと望まれたのでした。

クリスチャンの信仰(使徒行伝13:32、33、38、39)

質問7

レビ記の犠牲制度はどんな重大な出来事で成就しましたか。この事実は、使徒たちがイエスについての「良きおとずれ」を宣ベ伝えるうえでどんな力になりましたか。使徒行伝13:32、33、38、39(ヘブル10:4比較)

罪人を救う神の方法はどの時代においても同じです。犠牲制度(モーセ以前の時代には単純な形式であったが、モーセの時代に拡大された)は、父祖たちにもイスラエル人にも福音、つまり神の約束された救い主に対する信仰による救いを教えていました。新約時代以後)クリスチャンはキリストの出現という事実を喜んできました。救いの計画は長いあいだ、レビ記に記された儀式や象徴によって予示されてきました。この救いはイエス・キリストの汚れなき生涯、あがないの死、大祭司としての務めによって現実となりました。

質問8

クリスチャンの信仰は今日、どこに向けられるべきですか。罪人はとうするように求められていますか。ヘブル8:1、2、4:14~16

父祖およびイスラエル人は救い主の初臨を待ち望みました。クリスチャンはカルバリーを振り返り、キリストの再臨を待ち望みます。

しかし、新約聖書はまた私たちの目を天に向けさせてくれます。私たちは天の聖所におられる大祭司、生けるキリストに目を向けるべきです。

質問9

黙示録には、イエスが奉仕しておられる天の聖所がとのように描かれていますか。黙示録4:1、黙示録7:15、黙示録8:3、黙示録11:19  、黙示録15:5、8   

キリストの聖所での奉仕の重要性

「天の聖所は、人類のためのキリストのお働きの中心そのものである。それは、地上に生存するすべての者に関係している。それは、贖罪の計画を明らかにし、ゎれわれをまさに時の終わりへと至らせて、義と罪との戦いの最後の勝利を示してくれる……。

天の聖所における、人類のためのキリストのとりなしは、キリストの十字架上の死と同様に、救いの計画にとって欠くことのできないものである。キリストは、ご自分の死によって開始された働きを復活後、天において完成するために昇天されたのである。われわれは、信仰によって、『わたしたちのためにさきがけとなって、はいられた』幕の内に入らなければならない(ヘブル6:20)。そこには、カルバリーの十字架からの光が反映している。そこにおいて、われわれは、贖罪の奥義について、もっとはっきりした理解を持つことができる」(『各時代の大争闘』下巻222、223ページ)。

質問10

私たちはレビ記に示された聖所の象徴や型を、どんな原則によって解釈すべきですか。ヘブル9:9、8:4、5、10:1

比喩・影としての聖所

  • レビ記の聖所はいわば教材であって、「比喩」と定義されています。聖所の二つの部屋と儀式を説明したあとで、使徒はそれを「今の時代に対する比喩〔ギリシア語でパラボレ〕」と呼んでいます(ヘブル9:9、1~8節比較)。比喩はふつう、一つの真理をわかりやすく説明するための短い物語です。細かい事柄は、問顕点を明らかにするのに役立ちます。聖所は互いに関連のあるいくつかの真理を説明するための複雑な比喩です。私たちは最も強調されているものに目を向けるべきです。聖所の儀式の細かい点のいくつかは、全く霊的意味を持っていません。
  • レビ記の聖所、その祭司職、儀式はまた、天の聖所とその奉仕の「影」あるいは型と定義されています(ヘブル8:4~5、101参照)。型としての聖所は、預言と同じように、イエスのあがないの死と大祭司としての二段階の働きを概略的に予示しています。
  • 福音あるいは救いの計画は、レビ記の型によって描写され、予示されています(ヘブル4:1、2、8:1~6参照)。比喩、影、型としてのレビ記の聖所は、救いの計画についての真理を説明し、明示しています。また、救いの計画についての聖句は比喩・型としての聖所に対する私たちの理解を深めてくれます。

福音は鍵

「ユダヤ制度の意義は、まだ一般に十分に理解されていない。その儀式や象徴の中に意味深い真理が予表されていた。その神秘を開くかぎが、福音である」(『キリストの実物教訓』111ページ)。

まとめ

神はひとり、反逆は一つ、罪深い人類のための救いの計画は一つです。この救いは神の備えてくださった救い主を信じることによって与えられます。キリストの初臨以前に生きていた人々にとっては、犠牲の型がこの真理を予示していました。現在の私たちは、救い主の受肉、あがないの死、よみがえりを現実の出来事として振り返り、今、天の聖所においてなしておられるキリストの大祭司としての働きを信仰によってながめることができます。

*本記事は、安息日学校ガイド1989年1期『レビ記と生活』からの抜粋です。

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