バプテスマと誘惑【ルカによる福音書解説】#2 

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前回の研究で見たように、ルカは歴史的な大物たちのリストを提供していますが、それはこういった権力者たちと同じように、イエスやヨハネに関するルカの記事が事実であり、歴史的であることを示すためだったのでしょう。

しかし、権力と影響力を持ったこのような有力者たちに言及することには、もう一つ重要な理由がありました。それは、彼らと荒れ野の謙遜な人—これまでの人類史上最も重要な出来事、すなわちこの世の贖い主イエスの来臨のために「道を備え(る)」ために神が選ばれた使者バプテスマのヨハネ—を対比することです。メシアの先触れをさせるために、神がこの世の「偉大な者たち」の1人を選ばずに、「卑しい者たち」の1人を選ばれたというのは、なんと興味深いことでしょう。

学者たちは、これらの歴史上の人物たちをすべて考え合わせて、バプテスマのヨハネとイエスの働きは、ほぼ西暦27年か28年に始まったとしています。つまり、イエスがバプテスマを受け、「あなたはわたし[神]の愛する子」(ルカ3:22)との天の祝福をお受けになったのは、こういったローマ帝国の名士たちの歴史的時間枠の中でのことです。ルカは、イエス・キリストの宣教と働きについての物語を「順序正しく」読者に伝える前に、冒頭でこの事実を立証しています。

主の道を備える

救済史上、独特で重要な役割を担ったヨハネは、ルカによる福音書3章に登場します。ヨハネの説教についてほかにどのようなことが言えるとしても、彼は聴衆を喜ばせるために耳あたりのよい言葉を使ったりしていませんでした。

ルカ3:1~14を読んでください。彼の言葉には、その場にいた人たちだけでなく、私たちにとっても重要な真理が詰まっています。ヨハネがここで語っていることの中から、私たちも多くの点を学び取ることができます。

「悔い改め」というのは、理論上の概念ではありません。それは生き方です。この言葉に相当するギリシア語は「メタノイア」で、心の変化とそれに伴う新しい生活を意味します。

「バプテスマを授ける」というのは、水にすっかり浸すこと、あるいは沈めることを意味します。沈めることには、深い意味があります。ヨハネの時代以前でも、ユダヤ人は沈めによるバプテスマに意義を認めていました。それは、異邦人が改宗してユダヤ教徒になろうと決心したときに通常行われていたことです。

バプテスマを受けるようにユダヤ人を招く中で、バプテスマのヨハネは一つの新しい原則を示しています。バプテスマは自分の罪深い生き方を人々の前で放棄し、メシアの来臨に備える機会であるという原則です。このようにバプテスマのヨハネは、罪を放棄することと、これからもたらされるメシアの国の市民として新しい生き方に献身することの象徴的行為を宣べ伝えました。ヨハネはすぐに、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも[あとから来られる]……その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3:16)と言い加えています。こうして、次のような重要な点が強調されています。すなわち、水に沈める行為のバプテスマは単に—最終的に聖霊のバプテスマによって印される—内面的変化を外面的に象徴するものにすぎないということです。

「あなたはわたしの愛する子」

ルカ2:41~50には、ヨセフとマリアがエルサレムでイエスの姿を見失うという有名な物語が書かれています。特に興味深いのは、マリアがイエスを叱ったときのイエスの答えです(同2:48)。イエスの答えは、神としての自意識、すなわち御自分が神の子であるという意識を持っておられるという主張(断言)です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(同2:49)。次の節が述べているように、ヨセフとマリアは、イエスが彼らにおっしゃったことの意味を理解できませんでした。公平に見るなら、彼らに理解できるわけがありません。何しろ、イエスと数年間一緒に過ごした弟子たちですら、イエスが何者なのか、何をしようとしておられるのか、完全にはわからなかったのです。

例えば、イエスは復活されたのち、エマオに向かう道で2人の弟子に話しかけられました。弟子のうちの1人はイエスに関して、「この方[イエス]は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」(ルカ24:19)と言っています。言うまでもなく、イエスは預言者をはるかに超えるお方でした。弟子たちはそのときでさえ、イエスが何者なのか、何をするためにおいでになったのかを、まだ理解していませんでした。

問1

マタイ3:13~17、ヨハネ1:29~34、ルカ3:21、22を読んでください。イエスのバプテスマの意義は、何ですか。

イエスがバプテスマをお受けになったとき、天は、彼が神の子であることを証明しました。イエスがバプテスマを受けようとなさったのは、悔い改めのあとの過程の一つとしてそれを必要とされたからではなく、人々に模範を示すためでした(マタ3:14、15)。イエスのバプテスマに関して、三つの重要な点が際立っています。(1)「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハ1:29)という、バプテスマを授けたヨハネの宣言。(2)今後の宣教のために、聖霊がイエスに油注ぎをなさったこと。(3)イエスが神の子であり、神の心に適う者である、という天の宣言。

「パンだけ」によるのではない

「イエスは聖霊に満ちて、……荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(ルカ4:1、2)。神が定められた使命のために生まれ、バプテスマによって働きを託され、聖霊によって力を与えられたイエス・キリストは、前途に待ち構えるその働きについて熟考するため、荒れ野に退かれました。

荒れ野での誘惑は、ルシファーが天で反逆して以来続いてきた大争闘の中におけるキリストとサタンとの意義深い戦いでした。荒れ野で、救い主が40日間の断食のために弱り、これから先の旅に暗澹たる思いを抱いておられたとき、サタンは自ら指揮を取ってイエスを攻撃しました。「サタンは自分が征服するか征服されるかのどちらかであることをさとった。戦いの形勢は味方の天使たちにまかせておけないほど重大であった。彼が自ら戦いを指揮しなければならない」(『希望への光』720ページ、『各時代の希望』上巻123ページ)。

問2

サタンがイエスに、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(ルカ4:3)と言ったことに注目してください。サタンが天で試みたことを反映しているどのようなことを、サタンはこの記事の中でしようとしているのですか。

ここでの中心的問題は、パンではありません。確かに、荒れ野での40日間の断食によって、救い主は空腹であったに違いありませんし、サタンはその状況を誘惑のえさに用いたのでしょう。しかしサタンは、イエスが宇宙の創造主であることを知っていました。無からこの宇宙を造られたお方にとって、石からパンを作ることなど問題ではありません。この誘惑の重要な点は、「神の子なら」という前置きの中にあります。わずか40日前、天からの声は、イエスが確かに神の子であると証明しましたが、今やイエスはその天の確証を疑うべきでしょうか。神の御言葉を疑うことは、誘惑に屈する第一歩です。天において、サタンはイエスの権威に異議を申し立てましたが、ここでもそうしています。天で試みたときよりはずっとさりげない形ながらにです。

「わたしを拝むなら」

問3

ルカ4:5~8を読んでください。サタンはなぜ、イエスに自分を拝ませようとしたのですか。ここでの重要な問題点は、何ですか。

礼拝は神だけの特権であり、被造物と創造主を永遠に分かつ一つの要素です。天でルシファーが神に反逆したことの問題点の一つは、礼拝の問題でした。ルシファーの野心は、イザヤ14:13、14にうまく要約されています—「天に上り/王座を神の星よりも高く据え……いと高き者のようにな(る)」ことだったと。それは、いかに高められようと決して被造物には属さない権威、創造主にだけ属する権威を奪おうとする試みでした。

このような文脈の中で、私たちはこの誘惑の中で起きていることをよりよく理解できます。イエスがこの世の所有権と支配権を神に買い戻すための宣教を始めようとしておられたときに、サタンはイエスを山の頂に連れて行き、あらゆる国を一望させ、簡単な行為と引き換えにそれらを提供しよう、と申し出ました。「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」(ルカ4:7)。

サタンは、キリストの目を聖なる優先事項から逸らさせ、頭を下げるだけで手に入る栄華と栄光でそそのかそうとしていました。天で得られなかった権威と礼拝を地上で得ようと、再び試みていました。

全く問題にせず、キリストがどのように誘惑者を撃退したかに注目してください。「サタンよ、引き下がれ」(ルカ4:8、詳訳聖書)。礼拝とそれに伴う奉仕は、創造主なる神だけがお受けになるものです。ここでもまた、主の御言葉がイエスを助けています。聖霊はモーセを通して、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは……あなたの神、主を愛しなさい。……あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え……なさい」(申6:4、5、13)と言われなかったでしょうか。信仰と服従によって神に従おうときっぱり決心することが、サタンの嘘とごまかしに対する最終回答です。

勝利者、キリスト

ルカによる福音書とマタイによる福音書では、二番目の誘惑と三番目の誘惑の順序が逆になっています。理由ははっきりしませんが、そのことに捕われる必要はないでしょう。重要なのは、いずれの福音書も宣言しているように、イエスがサタンに対して最終的に勝利されたことです。これらの誘惑の検討から浮かび上がってくる重要な点は、キリストが本当に人間であったということ—私たちと同じように誘惑を受けられたが、罪は犯さなかったということです(ヘブ4:15)。一つひとつの誘惑に打ち勝ち、サタンに勝利し、神の御言葉を唱え、祈りを通じて天の力の源とつながり、こうしてイエスは、神の国を宣べ伝え、メシアの時代を始めるために登場なさいます。

ルカ4:9~13とマタイ4:5~7を読んでください。最初の二つの誘惑において、イエスはサタンの誘いに打ち勝つために聖書を用いられました。そしてこの三番目の誘惑では、サタンが同じように聖書を引用し、イエスが神の御言葉を真剣に受け止めているかどうかを確かめています。サタンはイエスを、ユダヤ人の歴史の中で最も聖なる場所、エルサレムの神殿の頂に連れて行きました。シオンの町、神が御自分の民の中に住まわれるその神殿が、サタンとイエスが対決するための道具になっています。「神の子なら」と、再度前置きしてサタンが口にしたことに注意してください。「もし神が本当にあなたの父であり、あなたの使命が本当に彼の命令によるものなら、この場所から身を投げて、はっきりと確かめてみよ。もしそれが本当なら、間違いなく、神はあなたにけがを負わせたりしないだろう」。それから、サタンは聖書を引用しています。「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる」(ルカ4:10)。

サタンは聖書を知っていますが、それを誤って解釈しています。彼の戦術は、神を試すようにとイエスを誘導することです。神は確かに、天使たちによる保護を約束なさいましたが、それはダニエルと彼の仲間たちの場合のように、神の御心を行う場合に限ってのことです。イエスは再び聖書を用いて、神を試みることは私たちのすべきことではないと宣言し(ルカ4:12)、サタンにきっぱりとお答えになりました。私たちの義務は、自分自身を神の御心のうちに置くことであり、それ以外のことは神がなさることです。

誘惑に関する聖書の四つの大きな教えに注目してください。(1)だれも誘惑から逃れることはできない。(2)誘惑が私たちを襲うことを神が許されるとき、それに抵抗する恵みと打ち勝つ力も神は与えられる。(3)誘惑は毎回同じように襲ってくるわけではない。(4)だれも自分の抵抗力を超える誘惑を受けることはない(Iコリ10:13)。

さらなる研究

「ヨセフとマリヤが瞑想と祈りとによって心を神にそそいでいたら、彼らは自分たちの責任の神聖さをみとめ、イエスを見失うようなことはなかったであろう。1日の怠慢によって彼らは救い主を見失った。そして彼を見つけ出すために3日も心配しながらさがさねばならなかった。われわれもこれと同じである。われわれはむだ話や、悪口や、祈りを怠ることによって、救い主のご臨在を1日失うかもしれない。すると救い主を見つけ出し、失った平安をとりもどすのに何日間も悲しみながらさがさねばならないかも知れないのである」(『希望への光』704ページ、『各時代の希望』上巻79ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年2期『ルカによる福音書』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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