この記事のテーマ
「弟子」は、信奉者、学徒を意味します。聖書の中に「弟子」という言葉は250回以上登場しますが、(すべてではないものの)そのほとんどが四福音書と使徒言行録においてです。
弟子であることは、霊に力を与え、心に挑戦を突きつけ、神と仲間との関係において私たちに最高のものを求めます。キリストに対して全面的に忠実であるとともに、彼の生涯とメッセージが要求するものに全面的に忠実でなければ、弟子ではいられません。これ以上に高い召しがあるでしょうか。
「もし人々が神に屈服するならば、神は彼らをそのままに受け入れて、ご自分の奉仕のために彼らを教育される。神のみたまが魂に受け入れられる時、その魂のあらゆる才能が目覚めさせられる。あますところなく神にささげられた心は、聖霊の導きのもとに、調和のとれた発達をとげ、神のご要求を理解しこれを果すように力づけられる。動揺しがちな弱い性格は、力強い、しっかりした性格に変えられる。ふだんの献身によって、イエスと弟子との間に密接な関係が結ばれ、そのクリスチャンは心と品性がキリストのようになる。キリストとつながることによって、彼はもっとはっきりした、もっと広い見解を持つようになる」(『希望への光』792ページ、『各時代の希望』上巻312ページ)。
今回の研究で私たちは、イエスが、彼に従うことになっていた者たちをどのように召されたのかを見、彼が地上で始められた働きを継続するのに役立つどんな教訓がそこから得られるのかを考えます。
人間をとる漁師
シモンとアンデレは、一晩中苦労していました。熟練した漁師であった彼らは、漁の技法に通じており、いつ漁をやめるべきか知っていました。徹夜仕事は実を結んでいませんでした。彼らが失望している最中に、おせっかいな命令が聞こえてきました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5:4)。シモンの返事は絶望と苦悩の返事でした。「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから……」(同5:5)。
漁師に漁のことを助言するこの大工は、何者でしょうか。シモンは拒否することもできましたが、すでに聞いていたイエスの心温まる、偽りのない説教が何らかの影響を与えたのでしょうか。それゆえ、彼の返事は、「しかし、お言葉ですから」でした。
このように、弟子としての第一の教訓は、キリストの御言葉に対する従順です。アンデレ、ヨハネ、ヤコブも、長く、実りなき夜が、網にかかったおびただしい魚によって、明るく、驚くべき夜明けに取って代わったことをすぐに知りました。ペトロは即座にひざまずき、叫んでいます。「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5:8)。神の聖さと自分自身の罪深さを認識することが、弟子としての召しにおいて不可欠なもう一つの段階です。イザヤと同様(イザ6:5)、ペトロもその段階を踏みました。
ルカ5:1~11、マタイ4:18~22、マルコ1:16~20を読んでください。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)。漁師が人間をとる漁師になるというのは、途方もない変化です。それには、自己をすっかり主に屈服させ、自分の無力と罪深さを認識し、孤独で未知な弟子の道を歩む力を求めて信仰によって主にすがり、キリストだけを信頼し続けることが求められます。漁師の生活は不確かで、危険で、冷酷な波と戦わねばならず、安定した収入が約束されていません。人間をとる漁師の生活も同様ですが、「恐れることはない」と主が約束なさっています。弟子になることは、楽な道ではありません。そこには浮き沈みがあり、喜びと苦しみがありますが、弟子は独りで歩むように召されているのではありません。「恐れることはない」と言われたお方が、忠実な弟子のかたわらにおられます。
十二使徒の選び
弟子という立場は自力で得たものではありません。それはイエスの召し要請に応じた結果です。ルカは、イエスがすでに、ペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブ(ルカ5:11)、徴税人のレビ・マタイ(同5:27~32)を召されたと述べています。そして今やルカは、十二使徒の選びに関する記事を彼の物語の中における戦略上の場所に配置します。それは、手の萎えた人を安息日にいやしたために、ファリサイ派の人々がイエスの殺害を企てるようになったという話(ルカ6:6~11)の直後です。主は御自分の働きを強化し、十字架後の働きのために訓練すべき働き人のチームを準備すべき時が来たことをご存じでした。ルカ6:12~16、9:1~6を読んでください。
イエスに従う群衆の中には、大勢の弟子たち—教師のあとを追う学生たちのようにイエスに従う者たち—がいました。しかしキリストの任務は、単に教えることだけではありません。その任務は、贖われた者たちの共同体、つまりキリストの救いのメッセージを地の果てにまで届ける教会を形成することでした。この目的のために、彼は弟子以上のものを必要とされました。「その中[弟子たち]から十二人を選んで使徒と名付けられた」(ルカ6:13)。「使徒」とは、特別な目的のために特別なメッセージを携えて派遣される者のことです。ルカはこの言葉を、彼の福音書の中で6回、使徒言行録の中で25回用いています(マタイとマルコは、それぞれ1回しか使っていません)。
十二使徒は、彼らの学歴、経済的背景、社会的知名度、道徳的高潔さ、あるいは何か選ばれるに値する目立ったものによって選ばれたのではありません。彼らは普通の育ちのごく普通の人たち—漁師、徴税人、熱心党員、疑い深い人、最終的に裏切り者になった人など—でした。彼らはたった一つの目的、王とその国の大使になるという目的のために召されました。
「もし人々が訓練され、神について学ぶなら、神は彼らを人間的な要素のある品性のままに受け入れて、神のご用のために彼らを養成される。彼らは完全な人間だから選ばれるのではなくて、不完全な人間であるにもかかわらず、真理を知りこれを実行することにより、またキリストの恵みによって、神のみかたちに変えられる者となるために選ばれるのである」(『希望への光』818ページ、『各時代の希望』上巻380ページ)。
使徒たちへの権限の委任
ルカ9:1~6とマタイ10:5~15を読んでください。イエスがこの人たちをどのように召されたのかということについて、私たちはこれらの聖句から霊的真理を学ぶことができます。ルカは、使徒たちへの権限の委任を三つの段階で記しています。
第一に、イエスは彼らを呼び集められました(ルカ9:1)。「呼ぶ(召す)」という言葉はキリスト教用語として不可欠ですが、キリスト教の宣教にとっても不可欠です。それは神学用語になる前に、個人的な体験になる必要があります。使徒たちは、お呼びになる方に耳を傾け、彼のもとへ行き、集まる必要があります。お呼びになる方に従うことと、すべてを明け渡すことの両方が、宣教を成功させるのに必要なその一致を体験するために不可欠です。
第二に、イエスは使徒たちに「力と権能をお授けになった」(ルカ9:1)とあります。イエスは御自分の使者を手ぶらで派遣したりなさいませんし、私たちが自力で彼の代理人を果たすことを期待したりもなさいません。私たちの教育、文化、地位、富、知性などは、イエスの使命を果たすには無力です。この使命を可能にし、必要なものを授け、力を与えるのは、キリストです。「力」に相当するギリシア語は「デュナミス」で、この言葉から、光の源である「ダイナモ(発電機)」、山を切り開くことのできるエネルギーの源である「ダイナマイト」といった英語の単語が派生しています。イエスが与えられる力と権能は、悪魔を打ち砕き、悪魔の目的をくじくのに十分です。イエスは私たちの力です。「人間の意志が神の意志と協力すると、どんなことでもできるようになる。神がお命じになったことは、神の力によって完成することができる。神のお命じになることはどんなことでも、成しとげることができるのである」(『希望への光』1315ページ、『キリストの実物教訓』307ページ)。
第三に、イエスは「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために[使徒たちを]遣わ」(ルカ9:2)されました。宣教といやしは切り離せず、弟子たちの使命は人間全体(体、心、霊)を配慮することです。罪とサタンは人間全体を捕らえたので、人間全体がイエスの清めの力のもとに引き戻されなければなりません。
弟子としての生活が維持されうるのは、その生活が完全にキリストにささげられ、両者の間に何も割って入らないときだけです。金も銀も、父も母も、伴侶も子どもも、命も死も、きょうの非常事態もあしたの緊急事態も、弟子とキリストの間には割って入りません。キリスト、キリストの国、失われた世界に向けてのあかしだけが重要です。
人を派遣する
ルカ10:1~24を読んでください。70人[新共同訳では72人]を派遣したというこの話は、大争闘という現実の中で魂を勝ち取る働きについて教えています。公生涯の間、イエスに従っていた弟子は12人以上でした。ペトロが、[イスカリオテの]ユダの代わりの人選をしよう、と信者たちに呼びかけたとき、その集団は少なくとも120人の弟子から成っていました(使徒1:15)。パウロは、イエスが昇天された時点では500人以上の弟子たちがいた、と記しています(Iコリ15:6)。ですから、70人を派遣したというのは、イエスの弟子がそれしかいなかったという意味ではなく、イエスが限定された宣教活動のために特別な集団を選ばれたことを示唆しているにすぎません。
70人の話が記録されているのはルカによる福音書だけで、宣教意識の高いルカに特有のことです。70という数字は、ユダヤ人の歴史の中でも、聖書の中でも、象徴として用いられています。創世記10章はノアの子孫として70の民族を列挙していますし、ルカは普遍的な世界観を持った著者でした。モーセは70人の長老を指名して、彼の仕事を手伝わせました(民11:16、17、24、25)。最高法院(サンヘドリン)は70人の議員によって構成されていました。イエスの70人の召しにおいて、これらのことが何か意味を持っていたのかどうかは聖書に記されていませんし、私たちが憶測を続ける必要もありません。重要なのは、教会の指導者を育成する者として、イエスが権限や責任をわずかな人たちに集中させるのではなく、それらをさまざまな弟子に分散する戦略を残されたという点です。
戻って来た70人には、喜びと満足があふれていました。「お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」(ルカ10:17)と、彼らはイエスに報告しています。魂の獲得に成功したのは、決して伝道者の働きのゆえではありません。伝道者は橋渡しにすぎません。その成功は「[イエスの]お名前」によってもたらされます。イエスの御名と力が、あらゆる福音宣教の成功の中心にあります。
しかし、70人の宣教活動の成功に対してイエスが示された三つの注目すべき反応に目を向けてください。第一に、イエスは伝道の成功の中にサタンの敗北を見ておられます(ルカ10:18)。第二に、福音の働きに関われば関わるほど、より多くの権威が約束されています(同10:19)。第三に、伝道者の喜びは、この地上で成し遂げられたことの中にではなく、その人の名前が天に書き記されていることの中にあるべきだとされています(同10:20)。天は、サタンの手の中から取り戻されたすべての人を喜び、彼らに注目します。神の国に勝ち取られたいずれの魂も、サタンの計画に対する打撃となります。
弟子であることの代償
ソクラテスにはプラトンが、ガマリエルにはサウルがいました。さまざまな宗教の指導者には熱心な弟子がいます。このような弟子であることとイエスの弟子であることの違いは、前者が人間的哲学の内容に基づいているのに対して、後者はイエスというお方自身と彼が成し遂げたことに根差していることです。従って、キリストの弟子であることは、彼の教えに基づくだけでなく、彼が人間の救済のためになさったことにも基づいています。それゆえにイエスは、「わたしと一心同体になり、あなたの十字架を背負い、わたしの導きに従いなさい」と、御自分に従うすべての者にお命じになっています。カルバリーの足跡をたどることなくして、クリスチャンとしての弟子であることはありえません。
ルカ9:23~25、マタイ16:24~28、マルコ8:34~36を読んでください。クリスチャンであると自称するすべての者にとって、ここに重要なメッセージがあります。クリスチャンとしての弟子であることは、救われた者と救い主との間の生きたきずなです。私たちは救われた者として救い主に従う存在です。それゆえにパウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2:20)と言うことができたのです。
弟子であることの代償は、ルカ9:23に明示されています。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。「捨てる」「背負う」「従う」といった重要な言葉に注目してください。ペトロがイエスを捨てた記事ほど、「捨てる」ことをよく描写しているものはありません。ペトロは「あの人[イエス]を知らない」と言っています。それゆえ、弟子になるようにとの召しが、自己を捨てるように求めるとき、私は「自分を知らない」と言える必要があります。自己は死にました。その代わりに、キリストが生きる必要があります(ガラ2:20)。第二に、日々十字架を背負うというのは、継続的に自己を十字架にかけることを体験するようにという召しです。第三に、従うことは、人生の焦点、方向をキリストに、キリストだけに向けるように求めます。
ルカ9:57~62で明らかなように、イエスに優先するものは何もないと、イエスは弟子になることの代償をさらに広げておられます。彼が、彼だけが、友だちや仲間との付き合いにおいても、仕事や礼拝においても、最高位を占めます。キリストの弟子になることにおいて、自己に死ぬことは一つの選択肢ではありません。それは不可欠なことです。
さらなる研究
「十字架を掲げることは、魂から自己を切り取り、キリストの荷の担い方を学ぶ場所に人を置く。キリストの軛を負い、キリストの十字架を背負い、彼のあとに続いてそれを運ばなければ、私たちはキリストに従うことはできないだろう。もし私たちの意志が神の要求と一致していないなら、私たちは自分の性向を否定し、切望している願いを捨て、キリストの足跡をたどる必要がある」(エレン・G・ホワイト『神の息子・娘たち』69ページ、英文)。
*本記事は、安息日学校ガイド2015年2期『ルカによる福音書』からの抜粋です。