安息日の主としてのキリスト【ルカによる福音書解説】#5 

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ルカは彼の福音書をおもに異邦人に向けて書きましたが、彼が頻繁に安息日に言及している点は、際立っています。四福音書と使徒言行録は、合計54回安息日に言及しており、そのうちの17回がルカ、9回が使徒言行録、9回がマタイ、10回がマルコ、9回がヨハネです。改宗した異邦人ルカは、第七日安息日がユダヤ人のためのものであると同時に異邦人のためのものでもあると、はっきり信じていました。キリストの初臨は、安息日を守ることに関して何の変化ももたらしませんでした。

確かに、「キリストはこの地上の伝道生涯において、安息日が守るべきものであることを強調なさった。彼はそのすべての教えにおいて、彼ご自身がお定めになった制度に対する崇敬の念をあらわされた。彼の時代に安息日ははなはだしく曲解されていて、その順守は神の品性ではなくて、むしろ利己的で独裁的人間の品性を反映していた。キリストは、神を知っていると主張する人々の、神に対する誤った偽りの教えを破棄された」(『希望への光』460ページ、『国と指導者』上巻151ページ)。

今回の研究は、安息日の主であるイエスに目を向けます。彼はどのように安息日を守り、私たちがならうためのどのような模範を示されたのでしょうか。キリストも新約聖書も、週の第一日を安息日として守る習慣を認めていません。

「いつものとおり」

「イエスは……いつものとおり安息日に会堂に入」(ルカ4:16)られました。アドベンチストにとって、これは良い聖句です。私たちの多くは、講演会や聖書研究の中で、イエスが安息日の順守を習慣としておられたことを強調するためにこの聖句を用います。

ユダヤ人の宗教生活において、会堂は重要な役割を果たしていました。神殿がもはや存在しなかった捕囚期に、幼い子どもたちの教育と礼拝のために会堂が建てられました。会堂は、ユダヤ人の家族が少なくとも10世帯いる場所ならどこにでも建てることができました。ナザレにお育ちになったイエスは、安息日ごとに「いつも」会堂へ行かれました。そして今や、最初の旅から地元に戻られたその安息日、彼の姿はやはり会堂の中にありました。

マルコ1:21、6:2、ルカ4:16~30、6:6~11、13:10~16、14:1~5を読んでください。これらを読みながら、イエスが、安息日を守るという私たちの義務を廃止したり、それに代わる別の日を指摘したりしておられる箇所があるだろうかと自問してみてください。

「いつものとおり」(ルカ4:16)という表現は、ルカだけが用いています。ルカ4:16は、イエスがナザレの会堂に行かれたときのことで、またルカ22:39は、十字架が近づき、彼が「いつものようにオリーブ山に行かれ(た)」(同22:39)ときのことです。いずれの場合も、「いつも」という言葉は礼拝と祈りに関係しています。

イエスが安息日に会堂へ行かれたように、私たちはなぜ安息日に教会へ行くことを習慣にすべきなのでしょうか。第一に、神はどこにでもおられます。ですから、神はどこにあっても礼拝をお受けになることができます。しかし、天地創造のときに指定された日、神の道徳律の中で命じられている日に、いつもの場所に集まることには特別な意味があるのです。第二に、教会に行くことで、神が私たちの創造主にして贖い主であられることを確認する機会が与えられます。最後に、教会に行くことで、教会員の互いの喜びと関心を分かち合い、交わる機会が与えられます。

安息—そのメッセージと意味

「彼[イエス]はその書を開いて……」(ルカ4:17、詳訳聖書)と記されています。安息日は、礼拝をしに教会へ行くだけでなく、神の御言葉を聞くための日です。御言葉のない生活は、罪のわなから遠く離れていません。「わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました」(詩編119:11、口語訳)。

問1

ルカ4:17~19を読んでください。私たちがイエスについて知っていること、彼が何者であり、彼が私たちのために成し遂げられたことについて知っていることを振り返るとき、私たちはこれらの聖句の意味をどのように理解しますか。主とともに歩むあなた自身の人生の中で、イエスがメシアであるという事実をいかに体験してきましたか。

イザヤ61:1、2を読んだあと、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)と、イエスは言われました。「今日」という言葉は注目に値します。ユダヤ人は、将来のいつか、劇的かつ軍事的な形で、ユダヤから異邦人の政治体制を根絶し、ダビデの王座を引き継ぐ神の国がやって来ることを期待していました。しかしイエスは、御自分が人間になられたことでその国はすでに来ており、御自分が罪の力を破り、悪魔を打ち砕き、御自分の領地の中にいる虐げられた捕虜たちを解放するだろう、と言っておられます。

メシアであるというイエスの宣言と安息日とが密接に結びついていることも、考えてみてください。安息日は休息の日、キリストのうちに憩う日です(ヘブ4:1~4)。安息日は自由と解放の象徴、私たちがキリストによって得ている自由と解放の象徴です(ロマ6:6、7)。安息日は神の創造だけでなく、キリストにある再創造も啓示しています(IIコリ5:17、Iコリ15:51~53)。イエスが安息日を選んで多くのいやしを行い、病によって虐げられ、閉じ込められてきた人々を解放されたことも偶然ではありません。

安息日は、イエスによって私たちに与えられているものを週ごとに思い出させるもの、石よりも変わりにくい「時」に刻まれたものです。

カファルナウムでの安息のいやし

ナザレで受け入れられなかったイエスは、すでに働きを始めておられたカファルナウムに戻りました(マタ4:13)。この重要な町が、イエスのガリラヤ伝道における基地でした。ここには1人のローマ人指揮官によって建てられたと思われる会堂があり(ルカ7:5)、イエスは安息日になると、いつものようにそこへ行かれました。

そのわずか1日の安息日に、イエスは広範囲にわたる働き(教え、いやし、説教)をなさいました。イエスが何を説かれたのかは記されていませんが、人々は非常に驚きました。「その言葉には権威があったから」(ルカ4:32)です。イエスの教えは、聖書教師たちの教えとは対照的で、気休めの一時しのぎではありませんでした。それは聖書に根差した説教であり、聖霊の力を伴った、罪を罪と呼び、悔い改めを迫る説教でした。

問2

ルカ4:31~37を読んでください。これらの聖句において、次の四つのことについてどんな力強い真理が示されていますか。(1)大争闘、(2)悪魔の実在、(3)安息日の目的、(4)悪魔を上回る神の力。それ以外に、あなたは何を見いだすことができますか。

ルカは安息日に行われた5件のいやしを記録していますが(ルカ4:38、39、

6:6~11、13:10~16、14:1~6参照)、そのうちの最初がルカ4:31~41の中に出てきます。イエスはナザレにおける説教で、打ちひしがれ、虐げられた者たちを解放し、いやし、回復することが御自分の使命である、と宣言なさいました。そして、ここカファルナウムにおいて、会堂が礼拝者であふれている安息日に、悪霊に取りつかれた男が、こう告白しながらイエスの前に立ちはだかりました。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。……正体は分かっている。神の聖者だ」(同4:34)。サタンの軍勢の1人で、超自然的な存在であるその悪霊は、受肉された救い主をすぐに認めました。この記事の中で、目に見える世界と見えない世界の間のカーテンが開かれました。

安息の主

ルカ6:1~11には、安息日に関してイエスがファリサイ派の人々と論じられた記事が、二つ記されています。

問3

ルカ6:1~5の最初の物語を読んでください。イエスと弟子たちが律法と安息日を気にかけなかったという非難に、イエスはどう立ち向かわれましたか。

麦畑の中を歩きながら、弟子たちは麦の穂を摘み、手のひらでもみ、食べました。ところがファリサイ派の人々は、この事実をねじ曲げ、弟子たちが安息日の戒めを破った、と非難しました。イエスはその話を正し、ファリサイ派の人々の目をダビデに向けさせます。ダビデは空腹だったとき、神の家に入り、祭司だけが食べることを許されていた供えのパンを従者たちと一緒に食べたのでした。ダビデ王の話をすることでイエスは、ファリサイ派の人々が、長い律法主義の歴史を通じて、規則に規則を、言い伝えに言い伝えを積み重ね、いかに安息日を本来の喜びから重荷に変えてしまったかを指摘されました。

問4

ルカ6:6~11の二番目の物語を読んでください。ここにも、安息日に関するどのような教訓がありますか。

すべての共観福音書[マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書]がこの物語を伝えていますが、男の萎えた手が右手だったと述べているのは、ルカだけです。この肉体的欠陥は、彼が普通の生活を送るための能力に深刻な影響を与えたはずですが、私たちがそのことを理解するうえで、医者ルカの書き加えた細かな点は役に立ちます。

さて、この出来事は二つの反応を引き起こしました。まず、ファリサイ派の人々は、イエスがこの男をいやした場合、安息日を破ったことになるので、イエスを非難しようと待ち構えました。次に、イエスは彼らの心を読み、御自分が安息日の主、安息日の制定者であること、また罪に病んだこの世の束縛から砕かれた人を解き放つという使命を必ず実行することを示されました。このようにして、イエスは安息日順守を神の視点から—安息日に善を行うことや命を救うことは合法であると(ルカ6:9~11)—捉えられたのでした。

安息—病人か、それとも牛やろばか

三つの共観福音書の中で、ルカだけが記録しているイエスの安息日のいやしが二つあります(ルカ13:10~16、14:1~6)。前者はイエスに対する会堂長の怒りを引き起こし、後者はファリサイ派の人々を黙らせました。いずれの場合も、イエスの敵たちは誤った律法解釈によって、イエスが安息日を破った、と非難しています。

ルカ13:10~16、14:1~6を読んでください。聖書の重要な真理を曲解することがいかに簡単かということについて、重要な真理がここに示されています。腰の曲がったその女のことを考えてみてください。彼女は、ファリサイ派の人々が見下していた性に属し、(人の根気を試し、心の中に人生の空しさを増幅させるには十分な長さである)18年間も足腰が不自由で、最終的には、まったく自由の身でなくなっていました。

その彼女のところに、神の恵みが人間となってやって来ます。イエスが彼女を見て、御自分のもとへ呼び寄せ、いやされるように話しかけ、手を置かれると、「女は、たちどころに腰がまっすぐにな」りました(ルカ13:13)。18年間の苦しみが、突然、純粋な喜びの瞬間に取って代わり、彼女は「神を賛美した」(同)と記されています。ルカが用いたこれらの動詞は、その人の状況に関係なく、この女性の価値と尊厳を、そして実際には、軽視されているすべての人の価値と尊厳を評価する霊感の手段です。

次の奇跡(ルカ14:1~6)では、安息日の食事をするために、あるファリサイ人の家に向かわれたイエスが水腫を患う人をおいやしになっています。それを近くで見ていた宗教指導者たちからの反発を予想し、イエスは二つの質問をなさいました。一つは、律法の目的についての質問〔「安息日に病気を治すことは律法で許されているか」(3節)〕、もう一つは、人間の価値についての質問〔「あなたたちの中に、自分の息子[欽定訳聖書では「ろば」]か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)〕でした。イエスの主張は明らかだったはずです。実際、ルカによれば、イエスがおっしゃったことに対して、宗教指導者たちは何も答えなかったからです。イエスは彼らの偽善を暴露なさいました。その偽善は最悪のものでした。なぜならそれは、想像上の「聖さ」や、神の聖なる律法の重大な違反だと彼らが考えていることに対する「義憤」という美名のもとに生じたものだったからです。私たちはなんと注意深くあらねばならないことでしょう。

さらなる研究

「神は一瞬間もみ手を休めるわけにいかない。もしそうされたら、人は衰え、死んでしまう。人間にもまた、この日になすべき働きがある。生活上の必要に備え、病人を世話し、困っている人々の欠乏を満たさねばならない。安息日に、苦しみをやわらげることをおこたる者は罪をまぬかれない。神の聖なる休みの日は、人のためにつくられたもので、憐れみの行為は、安息日の意図に完全に一致している。神は、ご自分の被造物が安息日でもほかの日でも、苦しみをやわらげられるものなら、1時間でも苦しむことをお望みにならない」(『希望への光』769ページ、『各時代の希望』上巻252ページ)。

「ユダヤ人に与えられた制度の中で彼らを周囲の国民から区別するのに安息日ほど役立ったものはなかった。神は、安息日を守ることが神の礼拝者である証拠となるように計画された。それは、彼らが偶像礼拝から離れ、真の神とつながっていることの証拠となるのであった。しかし安息日を聖とするためには、人は自ら聖でなければならない。信仰によって彼らはキリストの義にあずかる者とならねばならない」(『希望への光』811ページ、『各時代の希望』上巻364ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年2期『ルカによる福音書』からの抜粋です。

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『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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