この記事のテーマ
「キリストがこの世においでになったときは、人間性がまさにそのどん底に達しようとする一歩手前であった。社会の基礎は侵されていた。生活は虚偽と虚飾に満ちていた。……人々は伝説と虚偽に愛想をつかし、思考を紛らすために不信仰と物質主義に走った。彼らは永遠ということを考えに入れないで、ただ現在のためだけに生きた。
人々が神を認めなくなったときに、彼らは人類への関心も失った。真実、名誉、誠実、信頼、同情心はこの世から影を潜めつつあった。飽くことを知らない貪欲心と残酷な野心は、世界中に不信を生じさせた。責任観念や、強い者は弱い者を助けなければならないという義務や、人間の尊厳や権利についての観念は、夢物語か作り話のように捨てられた。一般の民衆は、牛馬のように酷使され、野心実現のための道具か、踏み石のようにみなされていた。富と権力、安逸と放縦が、最高の幸福として求められた。体力の低下、知能のまひ、霊性の死が、時代の特徴であった」(『教育』74ページ)。
このような背景を踏まえるとき、なぜイエスがあのようなことを教えられたのか、私たちはよりよく理解することができるのです。
イエスの権威
医者として、また学者として、ルカは権威の役割を熟知していました。彼はギリシアの学問や教育における哲学の権威に慣れ親しんでいましたし、民事問題や政府の機能におけるローマ法の権威をわかっていました。パウロと旅をともにしながら、この使徒が、自ら設立した諸教会に命じる際の聖職者としての権威も知っていました。このようにルカは、権威というものが人の地位や制度の役割、国の機能や教師とその弟子たちとの関係などの核になっていることを理解していました。あらゆるレベルにおけるあらゆる種類の権威と付き合ってきたルカが、イエスと彼の権威は比類のないものだった、と読者に伝えています。大工の家に生まれ、30年間、ナザレというガリラヤの小さな町で育ち、この世の基準からすれば何の偉業によっても知られていないイエスが、御自分の教えと伝道の働きによって、あらゆる人たち—ローマの支配者、ユダヤの学者、教師、一般人、聖俗の権力者—と対決なさったのです。彼の地元の町の住人たちは、「その口から出る恵み深い言葉に驚い……た」(ルカ4:22)のでした。イエスはかつてナインのやもめに、彼女の死んだ息子を生き返らせることによって希望をお与えになりました(同7:11~17)。その際に、町全体が恐れを抱き、「神はその民を心にかけてくださった」(同7:16)と叫んでいます。生と死に対するイエスの権威は、ナインの町だけでなく、「ユダヤの全土と周りの地方一帯」(同7:17)にも衝撃を与えたのでした。
問1
ルカ8:22~25、4:31~37、5:24~26、7:49、12:8を読んでください。これらの聖句は、イエスが行使された権威の種類について、どのようなことを明らかにしていますか。
ルカは時間を取って、イエスが御自分の権威の独自性を立証されたと記録しましたが、それは友人のテオフィロのためだけでなく、来るべき世代の人たちのためでもありました。肉体を取られた神として、イエスは確かに、かつてだれも持っていなかった権威をお持ちでした。
キリストの最高の説教
山上の説教(マタイ5章~7章)は、文学の中における「キリスト教の神髄」だとしばしば称賛されます。ルカはその説教の選りすぐった部分を、ルカ6:20~29などに記しています。彼が弟子の「正式な」選びの直後にこの説教を配置しているので、ある学者たちは、これを「十二使徒への任職の説教」と呼んできました。ルカ6:20~29に示されているように、この説教は四つの幸いと四つの不幸で始まり、続いて、それ以外の、クリスチャンの生き方の本質的特徴を概説しています。
問2
ルカ6:20~29の中の次の箇所を研究し、あなたの生活が、ここにあらわされている原則をどれくらいきちんと受け入れているか、自問してみてください。
①クリスチャンの幸い(ルカ6:20~22)—貧しさ、飢え、泣くこと、憎まれることは、いかに幸いをもたらすでしょうか。
②クリスチャンが拒絶のただ中にあって喜ぶ理由(ルカ6:22、23)。
③警戒すべき四つの不幸(ルカ6:24~26)—四つの不幸それぞれを見直してください。なぜクリスチャンはこれらを警戒すべきなのですか。
④クリスチャンの義務(ルカ6:27~31)—イエスの御命令の中で、愛の黄金律ほど議論され、守るのが難しいと思われているものはありません。キリスト教倫理は根本的に肯定的であって、否定的ではありません。それは、「~しないこと」によってではなく、「~すること」によって成り立っています。それは、「あなたの敵を憎んではいけない」と言わずに、「あなたの敵を愛しなさい」と主張します。相互主義(「歯には歯を」)とは違い、黄金律はどこまでも純粋な善の倫理(「もう一方の頬をも向ける」こと)を要求します。マハトマ・ガンジーはこの黄金律から、善をもって悪に立ち向かうというまったく政治的な哲学を生み出し、最終的にそれを用いてイギリスの植民地主義からインドに独立を勝ち取りました。愛が統治する場所では、幸いが王位を継承します。
⑤クリスチャンの生き方(ルカ6:37~42)—赦すこと、気前よく与えること、模範的に生きること、忍耐することを、キリストが強く求めておられる点に注目してください。
⑥クリスチャンは実を結ぶ(ルカ6:43~45)。
⑦クリスチャンは建てる(ルカ6:48、49)。
新しい家族
イエスの以前にも以後にも、偉大な教師たちは一致や愛について教えてきました。しかしたいていの場合、その教えは一つの集団—社会階級、人種、言語、民族、宗教などの排他性によって定義される家族—の範囲内でのものです。ところが、イエスは人間を分け隔てる壁を壊し、新しい家族—人を区別するお定まりのものを問わない家族—の到来を告げられました。「アガペー」の愛—身分不相応の、非排他的、普遍的、犠牲的な愛—という旗のもと、キリストは新しい家族を生み出されました。この家族は、創世記の天地創造の中に秘められている本来的、普遍的、理想的な考え方—すべての人間は神にかたどって造られたがゆえに(創1:26、27)、神の前では平等であることを裏づける考え方—を反映しています。
ルカ8:19~21を読んでください。家族の中で、親子や兄弟姉妹を結びつけるつながりや義務をいささかも軽視することなく、イエスは肉親の先に目を向け、彼らを「天と地にあるすべての家族」(エフェ3:15)の一員として神の祭壇の上に置かれました。キリストの弟子という家族は、普通の親を持つことで感じる絆に劣らず、親密で結束しなければなりません。イエスにとって「家族」の真のテストは、血縁関係ではなく、神の御心を行うことです。
問3
しばしば人間を分け隔て、悪い結果をもたらす差別という壁をキリストは壊されました。その壁について、次の聖句は何を教えていますか。ルカ5:27~32、ルカ7:1~10、ルカ14:15~24、ルカ17:11~19
イエスの使命と働き、彼の寛容な心と受容する恵みは、だれをも排除せず、彼の召しを受け入れるすべての人を取り込みました。彼はその永遠の愛によって、社会のあらゆる人々と接触することがおできになりました。
定義された愛:「善いサマリア人」のたとえ話(その1)
四福音書の中で、ルカによる福音書だけが「放蕩息子」と「善いサマリア人」(ルカ10:25~37)のたとえ話を記録しています。先のたとえ話は、罪人に対する父なる神の驚くべき愛の垂直的側面を説明しており、あとのたとえ話は、その水平的側面を私たちに教えています。その水平的側面とは、人間同士の間にいかなる壁をも認めず、(すべての人間は神の子であり、平等に愛され、扱われるに値するという)イエスの「隣人」の定義の中で生きる人の生き方を特徴づける愛です。
ルカ10:25~28を読み、提起されている二つの中心的な問いについて、じっくり考えてみてください。それぞれの問いは、クリスチャンの信仰と人生における最も重要なことと関係しています。
①「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(ルカ10:25)。この律法の専門家が永遠の命を受け継ぐ方法を探し求めていることに注目してください。罪から救われ、神の国に入ることは、人の抱きうるあらゆる願望の中で確かに最も高尚なものです。しかし彼は、御多分にもれず、永遠の命は善行によって手に入れることのできるものだ、という誤った認識をもって育っていました。明らかに、「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ロマ6:23)という知識は、彼にありませんでした。
②「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(ルカ10:26)。イエスが地上におられた頃、律法の専門家のように著名なユダヤ人は、腕に聖句箱を付けることを習慣にしていました。聖句箱というのは、イエスの質問の答えとなる部分を含む、モーセ五書の重要な部分を書いた羊皮紙を入れた皮製の小箱です。イエスは律法の専門家の目を申命記(申6:5)とレビ記(レビ19:18)に書かれていること—まさに彼が聖句箱の中に持っていたかもしれないもの—へ向けさせられたのでした。彼はイエスの質問の答えを腕に持っていたのに、心の中には持っていませんでした。イエスは律法の専門家の思いを一つの偉大な真理にお向けになりました。その真理とは、永遠の命は規則を守るか否かの問題ではなく、神を無条件に、しかも徹底的に愛し、同様に、神のあらゆる被造物(正確には、「隣人」)を愛することを要求するというものです。しかし、無知のゆえであれ、傲慢のゆえであれ、この律法の専門家は会話を別の質問(「わたしの隣人とはだれですか」)で先に進めてしまいました。
定義された愛:「善いサマリア人」のたとえ話(その2)
「しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った」(ルカ10:29)。ユダヤの律法の専門家は、この質問に対する答えを知っていたはずです。第二の大いなる掟が明記されているレビ記19:18は、「隣人」を「(あなたの)民の人々」と定義しているからです。それゆえにイエスは、この律法の専門家の質問に即答したり、彼や、この出来事を注視している人々と神学的論争を始めたりする代わりに、彼や聴衆をより高いレベルへと引き上げられました。
ルカ10:30~37を読んでください。「ある人が……追いはぎに襲われた」(ルカ10:30)と、イエスがおっしゃっていることに注目してください。なぜイエスは、この人の人種や地位を明らかになさらなかったのでしょうか。この物語の目的全体を考えるとき、なぜこのことは重要だったのでしょうか。
祭司やレビ人は傷ついたその人を見たものの、傍らを通り過ぎました。いかなる理由で彼らが助けなかったにしろ、私たちにとっての問いは、「真の宗教とはどのようなものか。それはどのようにあらわされなければならないか」でしょう(申10:12、13、ミカ6:8、ヤコ1:27)。
ユダヤ人とサマリア人の関係には敵意と憎悪が際立っており、イエスの時代までに、両者の間の確執は悪化の一途をたどっていました(ルカ9:51~54、ヨハ4:9)。それゆえ、サマリア人を物語の「主人公」にすることで、イエスは御自分の主張を、ほかの形でなしえるよりもずっと強く(ここでは)ユダヤ人に痛感させていました。
イエスはこのサマリア人の働きを極めて詳細に描写しておられます。サマリア人は憐れに思い、けが人に近寄り、その傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯を巻き、宿屋に連れて行き、帰りがけに費用の不足分を支払うと約束しました。サマリア人の働きのこういったあらゆる部分が、全体として、真の愛には限度がないことを明示しています。また彼が、たぶんユダヤ人であろうそのけが人に、これらのことをすべてしたという事実は、真の愛には(国)境もないことを明らかにしています。
さらなる研究
「その生活と教訓を通して、キリストは、神にみなもとがある無我の奉仕について完全な実例をお与えになった。神はご自分のために生活されない。世界を創造することによって、また万物をささえることによって、神はたえずほかのもののために奉仕しておられる。『天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる』(マタイ 5:45 )。この奉仕の理想を、神はみ子に託されたのである。イエスが人類のかしらに立つために与えられたのは、奉仕することがどういうことであるかをご自分の模範によって教えるためであった。イエスの一生は奉仕の法則の下にあった。主はすべての人に仕え、すべての人に奉仕された。こうして主は、神の律法を生活し、ご自分の模範によって、われわれが神の律法にどのように従うべきかを示された」(『希望への光』1016ぺージ、『各時代の希望』下巻125、126ページ)。
「善いサマリア人」のたとえ話は、「想像の光景ではなく、実際の出来事であって、ここに言われている通りのことが知られていた。向こう側を通った祭司とレビ人が、キリストのみことばをきいている人たちの中にいた」(『希望への光』933ぺージ、『各時代の希望』中巻302ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2015年2期『ルカによる福音書』からの抜粋です。