日々の生活でイエスに従う【ルカによる福音書解説】#10 

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イエスは偉大な教師でしたが、神学や哲学の学校を設立なさいませんでした。彼の目的は、「失われたものを捜して救う」(ルカ19:10)ことだったからです。彼は神の御品性を啓示するために来られました。その啓示は十字架で頂点に達しましたが、十字架においてイエスは、神がどのようなお方であるのかを人類と堕落していない世界に示すだけでなく、人間がその堕落した性質にもかかわらず救われるように、罪の報いを受けられました。

そうすることによって、イエスは贖われた共同体をも生み出されました。それは、彼の死によって救われ、彼の生き方と教えに従うことを選んだ者たちの共同体です。

この贖われた共同体の一員となるようにとの召しは、人生における好ましい地位への召しではなく、召しておられるお方(キリスト御自身)に対する絶対的な忠誠への召しです。彼のおっしゃることが弟子たちの人生の法になり、彼の望まれることが弟子たちの人生における唯一の目的になります。外面的に善良であることも、教理的に完璧であることも、キリストと彼の御旨に対する全面的な忠誠に取って代わることはできません。

弟子であることは、内住されるキリストのおかげをこうむっているのであり、いくつかの必須の資格が必要です。競争と代用品は許されません。

ファリサイ主義から逃れる

四福音書の中でファリサイ派の人々は80回以上言及されていますが、そのうちのおよそ四分の一は、ルカによる福音書においてです。ファリサイ派の人々は、進歩的な考え方で知られるサドカイ派とは対照的に、教理的に保守主義であることで有名でした。彼らは恵みを信じると公言していましたが、たいていの場合、律法順守による救いを教える律法主義者でした。

ルカ11:37~54を読んでください。ファリサイ派の人々や律法学者に対して宣告された不幸(ルカ11:42~54)を見直すとき、真の宗教への召しが、私たちの世代を含むすべての世代に及んでいることがわかります。例えば、什一は、神が与えてくださるものへの喜びの感謝ですが、それは愛や正義といった人間関係における基本的要求の代わりにはなりません(ルカ11:42)。「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」(ルカ11:42)、その同じ人たちが、「会堂では上席に着くこと……を好む」(同11:43)のです。真の宗教のポイントを見失っているとは、まさにこのことです!

イエスはまた、真の宗教を外面的な儀式と同一視する人たちは、死者に触れる者にどこか似ていて非常に汚れている(ルカ11:44、民19:16も参照)とも警告なさいました。取るに足りないものと、神の目に聖なるものを混同するのは、なんと簡単なことでしょう。

さらにイエスは、律法の専門家たちにも不幸を宣告しています。彼らはその教育と経験を用いて、人々に背負いきれない宗教的な重荷を負わせながら、「自分では指一本もその重荷に触れようとしないから」(ルカ11:46)です。

それと同時にファリサイ派の人々は、もはや生きていない預言者たちには敬意を払うのに、生きている預言者には逆らっていました。イエスが語っておられるのに、ある者たちは神の子を殺そうとたくらんでいました。大切なのは預言者に敬意を払うことではなく、愛、憐れみ、裁きに関する彼らのメッセージに耳を傾けることです。

その最後の不幸はひどいものです。神の国への鍵を預けられていた人たちの中には、管理者としての彼らの働きを果たしてこなかった者がいました。彼らはその鍵を賢明に用いて神の民を神の国に入れるのではなく、神の民を締め出し、鍵を投げ捨てたのでした。

神を畏れよ

「神を畏れ、その栄光をたたえなさい」(黙14:7)とは、三天使の使命の最初の使命であり、セブンスデー・アドベンチストの生き方と信仰の中核を成すものです。神を畏れるというのは、しばしば誤解されているように、神を恐れることではありません。それは、神が何者であるか、神が私たちに何を要求しておられるのかを実感することです。それは、神に対する完全な服従を伴う信仰の行為です。神が私たちの生き方—思考、行動、関係、運命—の唯一の規定者、審判者になられます。弟子であることがそのような「畏れ」に基づいたならば、揺らぐことなく立てるでしょう。

ルカ12:4~12を読んでください。聖書のこの箇所は、私たちがだれを恐れるべきであり、だれを恐れるべきでないかを教えています。この世における私たちの体にだけ影響を及ぼすことのできる勢力を恐れる必要はありません。その代わりに、私たちは神を畏れ、神に従う必要があります。なぜなら、私たちの運命がその御手の中にあるからです。しかし、雀に目を注ぎ(ルカ12:6)、私たちの髪の毛さえ数えておられる(同12:7)私たちの神は、愛情深く、思いやりのあるお方です。それゆえ、私たち1人ひとりを無限の価値あるものとして見られます。もしわたしたちがこのことを心から信じるなら、どれほど多くのこの世の恐れが消え去ることでしょう。

ルカ12:13~21を読んでください。イエスは、遺産の分配に関する2人の兄弟の争いを調停することは拒否しましたが、その一方で、むさぼりの罪を戒めた十番目の掟(出20:17)の妥当性を強調し、永遠に重要な真理を指摘しておられます。人の命は物(財産)によってどうすることもできないという真理です(ルカ12:15)。この愚かな金持ちは、自分だけに限定された小さな世界の中に住んでいました。自分以外のものは、彼にとって重要ではありませんでした。これと同じわなに陥らないように、私たちはどれほど注意する必要があるでしょうか。このことは、多くの高価な物によって祝福されてきた者たちにとって特に重要です。

用意し、目を覚ましていなさい

「いつの時代にもキリストの弟子たちには、警戒心と忠誠心が求められてきた。しかし、今や私たちは永遠の世界をまさに目前に控え、その真理を握り、極めて大いなる光と重要な働きを持っているので、私たちの注意を倍加させる必要がある」(『教会へのあかし』第5巻460、461ページ、英文)。

問1

ルカ12:35~53を読み、これらの聖句があなたにとって(とりわけ、あなたがイエスの再臨を長い間待っているとしたら、)どのような意味を持つか、要約してください。

クリスチャンはだらけたり、怠惰にしてはいられません。キリストが確実に戻って来られるという状況も、その時がわからないということも、私たちの衣の帯を締め、ともし火の芯を整えてそれをともすように、私たちを駆り立てるでしょう。終末論的希望が私たちの生活や働き、私たちの備えや忠実さの原動力になる必要があります。良い僕と悪い僕を区別するのは、地上においてキリストの御旨を行うこのような忠実さであり、安らかにキリストに会うこのような備えです。

「主人の帰り(が)遅れる」(ルカ12:45)ことを口実に忠実さをないがしろにするなら、最も厳しい神の裁きのもとに自分の身を置くことになります(同12:45~48)。特権が多ければ多いほど責任は一層重くなるので、多く与えられた者たちは、多く求められます(同12:48)。

「災いだ、シオンに安住……(す)る者ら」(アモ6:1)という昔の預言者の審判が、キリストの弟子であるというのは気楽な状態ではない、というキリストの警告の中に反映しているようです。パウロはクリスチャンの人生を霊的戦争として説明しています(エフェ6:12)。要点は、すべてのクリスチャンがキリストとサタンとの間の宇宙的争いに巻き込まれており、十字架が両者を明確に分けているということです。十字架のキリストを信じ続けることによってしか、人は最終的な勝利を収めることができません。

実を結ぶあかし

父なる神、子なる神、そして聖霊なる神は、「天地創造の前」(エフェ1:4)の時を超えた協議において救済計画を立てられました。つまり、最初の人間が造られる前にもかかわらず、ということは当然、最初の人間が罪を犯す前に、神はこの世を救う計画を整えていました。救済計画は十字架に基づいており、十字架のその良き知らせは、この世のすべての人に伝えられる必要があります。それをあかしする責任が、すべてのクリスチャンに負わされています。

「あなたがたは……エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)。イエスのこの最終命令は、イエスに従う者たちのあかしの役割を主が重視されたことをはっきり示しています。

問2

キリストのあかし人は、種を蒔く人と土地のたとえ話(ルカ8:4~15)から、どのような教訓を学ぶ必要がありますか。

問3

あかしする者の報いは何であり、それはいつ得られるのですか(ルカ18:24~30)。

問4

ムナのたとえ話(ルカ19:11~17)は、あかしすることにおいて忠実であること、その責任について、どのようなことを教えていますか。

聖書のこれらの箇所や他の箇所において、あかしすることと信仰に伴う危険、責任、報いが明らかにされています。私たちは厳粛な責任を負っていますが、これまでに与えられてきたものを思えば、求められていることはいかにわずかでしょうか。

仕える指導者になりなさい

問5

ルカ22:24~27を読んでください。弟子たちは最後の晩餐の準備をしていたときでさえ、御国において彼らの中のだれが一番偉いのだろうか、と言い争っていました。彼らの愚かさに、イエスはどのように応じられましたか。彼の返事のどのようなところが革新的ですか。

イエスの答えは、指導者たちの歴史の中で独特です。ファラオ、ネブカドネツァル、アレクサンダー、ジュリアス・シーザー、チンギス・カンたちはみな、指導者というものを他者に対する権力と権限という観点から見ていました。まさにこの世が常に権力を巡って動いてきたとおりです。

「しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(ルカ22:26)と、主は言われました。そう言うことによって、宇宙の主は指導者の定義を逆転なさいました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタ20:26~28)。

イエスは、仕えることと自己否定を御自分の生き方や指導の中核的原則として明示することで、人間関係に新しい力学を導入されました。満足は権力によってではなく、奉仕によってもたらされ、指導者はその権力を地位からではなく、仕えることから得るのであり、変化は王座からではなく、十字架から始まるというのです。生きることは、死ぬことです(ヨハ12:24)。

ルカ9:46~48においても、イエスの弟子たちの間で、だれが一番偉いのかということに関して同じようなことが起きています。この世の原則は、弟子たちの思いの中にしっかり染みついていました。

主の答えは問題の本質を突いており、人生全般、とりわけクリスチャンの人生において最も難しい挑戦の一つを突きつけています。イエスの言葉(特に、「最も小さい者」であることに関する箇所)は、この世の優先順位がいかに真逆であるかを示しています。

さらなる研究

「私たちの心を支配しているのは誰でしょうか。私たちは誰のことを考えているでしょうか。また、誰のことを話すのが好きでしょうか。私たちが何よりも愛情をささげ、何よりも努力を傾けようとするのは誰のためでしょうか。もし私たちがキリストのものであれば、彼と1つの心になり、彼を思うのが一番の楽しみとなり、私たちの持ち物も、私たち自身もすべて彼にささげてしまいます。そして主のみかたちに似、主の霊を呼吸し、主のみ心をなし、すべてのことにおいて主を喜ばせたいと願うようになります」(『キリストへの道』改定版85ページ)。

「罪のために制限されてはいるものの、この地上の人生における最大の歓喜と最高の教育は奉仕の中にある。罪のある人間としての制限に拘束されない来世においても、奉仕の中に最大の歓喜と最高の教育が見いだされる。それはあかしをたてることであり、あかしをたてるとともに『この奥義が、いかに栄光に富んだものであるか』を新しく学ぶのである。『この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである』と言われている」(『教育』360ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年2期『ルカによる福音書』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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