この記事のテーマ
「いやはや、これまで哲学も、法律学も、医学も、
むだとは知りつつ神学まで、営々辛苦、究めつくした。その結果がどうだといえば、
昔に較べて少しも利口になってはおらぬ」
(ヨーハン・ゲーテ『ファウスト』12ページ、高橋義孝訳)
ソロモン同様、どうやらファウストの知識追求も満足できるものではなかったようです。神学の研究でさえ、謙虚さと探求心をもって行わないかぎり、何の結果ももたらしません。
ソロモンは、ゲーテのファウストとは異なり、悪魔に公然と自分の魂を売ってまで幸福と満足を追求しませんでしたが、彼の堕落の程度を考えると、そうしていても不思議ではありませんでした。ソロモンにとって幸運だったのは、イエスが低く身をかがめ、「わたしたちのために罪」となられたことです(2コリ5:21)。私たちを罪の堕落から引き上げるためでした。
今回も引き続き、神から逸脱した人生のむなしさについてのソロモンの言葉に注目します。彼の言葉に留意することは、かけがえのない教訓を与えてくれます。同じ轍を踏むことがないためです。
風を追う
コヘレト1章は、長年かかって獲得した知恵と知識を嘆くソロモンをもって終わっています(コへ1:16~18)。彼にとって、それらはすべて無意味で、風を追うようなことでした。聖書が何度もソロモンの初期の知恵の素晴らしさについて記しているというのに(列王上10:1~8──同5:9~14、口語訳4:29~34参照)、ソロモンがこのような思いをもって終わっているのは悲しいことです。
問1
知恵に対するソロモンの態度を、たとえば箴言3:13~26に見られるような彼の初期の態度と比較してください。その違いはどこから来ていると思いますか。
年をとり、皮肉っぽくなったソロモンは道から逸れました。自分の獲得した知識と知恵がすべて無意味なものとなったのはそのためです。対照的に、彼が箴言の中で語っている知恵はすべての真の知恵と知識の源である神の知識にもとづいた知恵です。この点は、ソロモンが知恵と英知を創造主なる神に結びつけることによってさらに強調されています(箴3:19)。それによって、すべての知識と知恵が神から始まることが改めて明らかになります。もう一つ注目したいのは、この知恵が神の性質や神の力の限界に関する単なる漠然とした神学的思想ではないということです。箴言の中のこれらの聖句はむしろ、実際的な要素を持っています。真の知恵は私たちの実際の生き方のうちに反映されるものです。道を逸脱したソロモンは、かつて持っていた真の知恵を失い、代わりにこの世の知恵、太陽の下の知恵を見いだしました。それゆえに、これらの知恵は彼の心の中で無益なもの、無意味なもの、さらには苦しみの源となったのでした。
問2
章は改まりますが、思想の論理的な流れは1章の最後の数節から2章の最初の数節へと続いています。コヘレト1:16~2:3を読んでください。ソロモンの関心は何に移っていますか。
快楽の原則
ソロモンは知恵を求めることを無益な努力と見て、代わりに快楽を求めます。絶えず快楽を追い求めることは「ヘドニズム」(快楽主義)と呼ばれています。快楽を求める人は大部分、単に楽しいことを求めているだけです。しかしながら、ある人々は快楽こそがあらゆる善の真髄であって、楽しいことはすべて善であると心から信じています。
問3
神を信じない人の立場になって考えてください。もしこの世の生がすべてであって、来世がないとしたら、もしすべての人の守るべき道徳律がないとしたら、たとえ他人を犠牲にしてでも、自分が楽しいと思うことをすることのどこが悪いのでしょうか。あなたは何と答えますか。
問4
コヘレト2:1~3を、箴言6:23~29、7:6~27、20:1、23:1~6と比較してください。ソロモンはコヘレトの言葉の中で、先に書いたのと同じ思いをどのように表現していますか。
快楽のために快楽を追い求めることには、信じがたいほどのごまかしが潜んでいます。快楽を得て、それを楽しんでいるうちに、やがて満足できなくなります。そのうち、楽しみはうすれていきます。あるいは、初めの満足を得るためにさらなる快楽を求めるようになります。遅かれ早かれ、人生には快楽以上のものがあること、快楽だけでは空虚で、むなしく、満足できないことに気づきます。ソロモンは苦しみを通して、自らこの教訓を学ばねばなりませんでした。
「目に望ましく映るもの」
アメリカの歴史上最も有名で、成功した実業家の一人は、長年にわたってクライスラー社の会長を務めたリー・アイアコッカ氏です。彼は晩年になって次のように言いました。「私は人生のたそがれ時を迎えたが、今でも疑問に思うことがある。……つまり、名誉や富は取るに足らないということだ」。
問5
コヘレト2:4~11を読んでください。ここに書かれている基本的なメッセージは何ですか。
ソロモンは物質的繁栄からある程度の満足を得ましたが(コへ2:10)、結局は、その満足も長続きせず、魂の最も基本的な欲求を満たすことがありませんでした(11節)。もし物質的な富が幸福をもたらすとするなら、ソロモンは世界で最も幸福な人間であったはずです。しかし、コヘレトの言葉を読むかぎり、これらの言葉が幸福な人間の言葉とは思われません。
問6
もう一度、コヘレト2:4~11を読んでください。ソロモンはどんなものを手に入れましたか。列王上7章、10:10~29参照
問7
それでも、ソロモンが幸福でなかったのはなぜですか。
ソロモンが手に入れたのはすべて物質的なものでした。彼の物質的な欲望はすべて満たされました。しかし、人間は内蔵や肉だけでできているわけではありません。人間には、この世の物質的なものによっては満たされない霊的、道徳的必要があります。ソロモンはそのことを証明しています。面白いことに、物質的富と繁栄を享受しているはずの、いわゆる「先進」諸国においても、人々の幸福と満足の度合いは必ずしも発展途上の国々よりも高いとは限りません。
愚者の運命
「わたしはこうつぶやいた。『愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。』これまた空しい、とわたしは思った」(コへ2:15)。
ソロモンにはあらゆる知恵も無益なように思われました。快楽と歓楽を追い求めましたが、それも無益でした。古代世界で最も富んでいたソロモンは自分の魂の最も深い必要を満たすことができませんでした。彼には、それらはすべて「空しく風を追うようなこと」でした(コへ2:11)。事態はますます悪くなって行くように思われました。
問8
コヘレト2:12~17を読んでください。ソロモンはどんな不満を述べていますか。それはどれほど根拠のあるものですか。あなたはクリスチャンとして彼に何と答えますか。
イエスも、ソロモンと同じようなことを言っておられます。イエスは父なる神について次のように言われました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタ5:45)。またほかのところで、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」ことに言及した後で、次のように言われました(ルカ13:1)。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(2、3節──4、5節参照)。これらの聖句において、イエスはだれの目にも明らかなことを語っておられます。つまり、苦しみや災難は悪人だけの運命ではないということです。善人も同じように苦しむのです。違うのは、ソロモンがこの事実を見て、人間のなすことがすべてむなしいと信じたことです。愚者であれ賢者であれ、人間はみな、結局は死ぬからです。しかし、イエスの結論は異なります。イエスは、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われます。イエスは悪人と善人の直接的な運命を超えたものに彼らの目を向けておられます。
遺産
ソロモンはどこであきらめたらよいのかわかりません。不幸なことに、この世のすべての業は無に帰します。賢者も愚者もみな死にます。彼は今、自分の死後のことに関してまで不平を述べています。
問9
コヘレト2:17~26を読んでください。彼はここでどんな不平を述べていますか。
ソロモンの言うことは当を得ています。人はみな自分の残す遺産について心配します。自分が一生、苦労して築いてきたものを、後から来た人がすべてなくしてしまうと考えるだけでも気が滅入ります。ある意味で、彼の心配は皮肉に満ちています。ソロモンの父ダビデも、即位後のソロモンが自分の残した遺産をどのように使うかを心配していたことでしょう。同じように、ソロモンも、彼の後継者がその遺産をどのように使うかを心配していたのでしょう。
問10
コヘレト2:24~26を読んでください。ソロモンはここで何と言っていますか。
聖句そのものはわかりにくいのですが、ソロモンは次のように言っているように思われます。「どうせ、自分の後継者のすることに口出しすることはできないのだから、自分は今の人生を楽しむことにしよう」。しかし、彼は快楽を奨励しているわけではありません(確かに、彼は十分に楽しんできましたが)。むしろ、彼は、神の御心に従った人生が肉体的な楽しみを含む多くの祝福をもたらすという聖書の教えに従っているように思われます。「[主は]家畜のためには牧草を茂らせ地から糧を引き出そうと働く人間のためにさまざまな草木を生えさせられる。ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせパンは人の心を支える」(詩編104:14、15)。
まとめ
「ソロモンは自分がどのように幸福を追求してきたかを私たちに教えてくれている。彼は知識を追求した。彼は快楽に対する欲望を満足させた。彼は事業に対する計画を遂行した。彼はうっとりするような宮廷生活を送った。……彼は象牙の玉座に座っていた。その階段は純金で、両側には6頭の黄金の獅子が飾られていた。彼の目は眼前に広がる高度に洗練された、美しい庭園に注がれた。これらの庭園は美しさの極みであった。……さまざまな種類の美しい羽根を持った鳥が木から木へと飛び回り、愛らしい歌が空に響いた。美しく着飾った若々しい従者たちがあらゆる望みに従おうと待ち受けていた。気晴らしのために、各種の酒宴、音楽、競技、遊びが莫大なお金をかけて用意された。
しかし、かつては清らかで知的だった顔に不節制の色が感じられた。……その額には心労と不幸のしわが刻まれていた。……その衰弱した神経とやつれた体格は自然の法則に背いた結果を示していた。彼は人生を浪費し、むなしく幸福を追求してきたことを告白した」(エレン・G・ホワイト『今日のいのち』167ページ)。
教会の月例ミニ講演会に出席しておられる方が、「コヘレトの言葉は、何となくわかるような気がします」と言われました。自分の人生に、何かが欠けている、と感じない人があるでしょうか。それは、神の御霊が、その人の良心に働いておられる証拠です。私が牧会をさせていただいている2つの教会では、この2年間、安息日学校ガイドのクラスを、努めて小グループ方式でするようにしています。一人の専門家が一方的にリードするような演繹的聖書研究ではなく、あるテーマを、いろいろな角度から、みんなで掘り下げていく、いわゆる帰納法的聖書研究です。このような研究の仕方によって大きな祝福を受けることができます。ただ、聞くだけではなく、一人ひとりが参加する学びだからです。証し人としても成長が与えられます。コヘレトの言葉(伝道の書)は、そのための格好のテキストだと思います。是非、試してみてください。
*本記事は、安息日学校ガイド2007年1期『コヘレトの言葉』からの抜粋です。