この記事のテーマ
あるクリスチャンが生物学者と会話を始めました。彼は伝道のきっかけを求めて、次のように質問しました
「いろいろな生物を研究していると、創造主の御手を感じることでしょうね」生物学者は迷うことなく言いました。
「外側であれ、内側であれ、目に見えるところには必ず秩序があります」
この世界がいかに罪によって損なわれたとはいえ、私たちはなお自然界の意匠と秩序の中に創造主の御業を見ることができます。ある狂信的な進化論者でさえ、自然界が「意匠の幻影」をとどめていることを認めざるを得ませんでした。しかし、それは決して「幻影」ではありません。意匠と秩序は現実のものであって、私たちの創造主の御手を表しています。神の秩序は自然界に限られたものではありません。それはまた、神の契約の民イスラエルに示された神の扱いにも表されています。彼らが荒れ野を放浪したときもそうでした。
今回は、神が御自分の民を聖なる召しのためにどのように組織されたかに注目し、そこから今日の私たちに必要な教訓を学びます。
軍隊を組織する
エジプトから奇跡的に逃れた後、イスラエルの群衆はシナイの荒れ野に入ります。山の周りに宿営した彼らは、御自分の御心を布告される神の声を聞きます(出20章)。そのような信じがたい神の力の現れの中にあっても、神に背いて、金の子牛を拝んだ者たちがいました(出32章)。このような大失敗の後に、悔い改めた民は移動式の聖所の建設にとりかかります(出25:8)。作業は第2年の第1の月の1日に完了します(出40:17)。
その翌月、主はイスラエルの民をそれまで以上に徹底的に組織化されます(民1:1)。民数記が契約の民に対する神の働きについての聖なる記録を収めるのは、新しい組織、新しい秩序の始まるこの時点においてでした。
問1
主はモーセとアロンにどんな調査をするように命じられましたか。民1:2、3
イスラエル人は好戦的な民族ではありませんでした。彼らの職業は羊飼い、牛飼いでした(創47:3)。しかも、このときの彼らは解放されたばかりの奴隷であって、武器もなければ、戦争の訓練も受けていませんでした。主が今、彼らを軍隊に組織されるというのは不思議に思われます。しかし、近東地域で最も邪悪で堕落した七つの民、アモリ人とカナン人を追い出すことが、彼らの任務に含まれていたことを忘れてはなりません。イスラエルは不義の杯を満たしたこれらの民(創15:14~16)に対する神の執行者として働くのでした。今やイスラエルは神御自身によって導かれる神権政治であって、一つの民、一つの強力な軍隊として放浪していました。
問2
創世記15:14~16を読んでください。ここに、どんなことが暗示されていますか。それはアモリ人に対するイスラエルの戦いを理解する上でどんな助けになりますか。
神はアブラハムの時代にアモリ人を滅ぼそうとはされませんでした。ここに、神の忍耐が啓示されています。「アモリ人は神の律法に敵対していた。彼らは神を真の、生ける神として信じていなかった。しかし、彼らの中にも少数の善良な人間がいて、これら少数の人間のために、神は忍耐された」(『SDA聖書注解』第1巻1093ページ、エレン・G・ホワイト注、英文)。
主の臨在
問3
レビの部族はどんな任務を与えられましたか。民1:50~54
モーセはイスラエルの宿営の真ん中に移動式の幕屋を建てました。レビ族は幕屋の周り、その四方に天幕を張りました。彼らの存在は、神の臨在の現れる場所を守る防壁の役目を果たしました。
なぜ宿営はこのような形に設営されたのでしょうか。聖書はその理由を明らかにしていませんが、この配置から重要な教訓を学ぶことができます。
生ける神ヤーウェは彼らの真ん中におられました。創造主なる神が彼らのうちにおられました。もし彼らが忠実であるなら、何者も彼らに勝利することはできません。しかし、同時に、彼らは幕屋から一定の距離をおいたところに天幕を張りました(民2:2)。なぜなら、神は聖なる方であって、罪人であり、堕落した存在である彼らはそこまでしか近づくことができなかったからです。このように、彼らは、神が自分たちの身近にいて、優しく見守ってくださるお方であることを理解する一方で、神が偉大にして聖なる方であること、また仲保の働きを通してのみ罪人の彼らが聖なる神に近づくことができることを絶えず認識するのでした。
問4
ほかの聖書記者たちは、神が人間から遠いこと(超越性)と近いこと(内在性)について何と言っていますか。詩編139:1~10、イザ57:15、エレ23:23、24、ヨハ14:15~18、23
「どんな時にも、どんな場所でも、どんな悲しみにも、どんな苦しみにも、前途が暗く将来が困難に見えて無力と孤独を感じるときにも、信仰の祈りに答えて、助け主が送られる。この世のすべての友から離れるような事情が起こるかもしれない。しかしどんな事情もどんな距離もわれわれを天の助け主から離れさせることはできない。どこにいようとも、どこへ行こうとも、主はいつもわれわれの右にあって、力づけ、助け、支え、励まされる」(『各時代の希望』下巻154ページ(『希望への光』1027、1028ページ)。
それぞれの旗の下に
「イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、それぞれの旗の下に宿営し、またそれぞれ氏族ごとに、家系に従って行進した」(民2:34)。
問5
民数記2章を読んでください。これが「組織された宗教」というものです!ここから、イスラエルのあるべき生き方についてどんなことがわかりますか。
イスラエルの統治は、たとえば宿営の順序や場所が主によって決められていたように、きわめて正確に組織化されたものでした。ヘブライ人の宿営は大きく三つの部分に分けられ、それぞれ家系と氏族のきずなに従って、宿営の中に定められた場所を持っていました。
宿営の中の各氏族の位置もまた、決められていました。各氏族はそれぞれの旗の下に行進し、宿営することになっていました。変更の余地は何ひとつありませんでした。主は注意深く、正確にイスラエルを組織化されました。彼らは一つの民でしたが、それぞれに特有の家系のつながりは残されました。
問6
民数記2:34を読んでください。この聖句から、主が明らかな組織化の中にあっても、それぞれの氏族の特徴や独自性への余地を残されたことについてどんなことがわかりますか。このことは私たちにどんな教訓を与えてくれますか。
奉仕への召し
問7
私たちの初子を神にささげる──これは強烈な言葉です。このことは、私たちの贖いと救いが主から来ることについてどんな重要な教訓を与えてくれますか。高慢とうぬぼれが罪深いものであるのはなぜですか。
シナイ山で、主はイスラエル人の初子を入れ替えられました。主は彼らの代わりにレビ人をお選びになりました(民3:12、13)。このことによって、それまでほかのイスラエルと共に数えられなかったレビ人の数を数える必要が生じました。モーセは生後1か月以上のレビ人の男子を数えるように命じられました(民3:14、15)。入れ替えるために、モーセは次に生後1か月以上の長子を数えました。その総数は2万2273人で、イスラエルの長子の数はレビ人の数を273人超過していました。
問8
「超過」のイスラエル人の贖いのために、何が必要でしたか。それはだれに与えられましたか。民3:46~51
主はまたレビ人をアロンと、その祭司職の息子たち・子孫にささげられました。彼らは神の礼拝と幕屋の管理を助けるのでした。ある意味で、彼らは「荒れ野」の教会の働きに召されたのでした。
ヘブライ人が約束の地に到達してからも、レビ人はさまざまなかたちで聖所の奉仕を続けました(代上23:27~32)。部族間に散らされてからは、ある者は教育係(代下17:7~9)、ある者は裁判官(代下19:8~11)となって、人々に神の道を教えました。
聖なるものを守る
シナイで礼拝制度を確立するために、神はレビ人の一家族を選んで祭司とされました。この働きは民数記4章に詳述されています。モーセはアロンを大祭司として、またアロンの4人の子ら──ナダブ、アビフ、エレアザル、イタマル──を助手として聖別しました。レビ族の残りの者たちは他の者たちを助けましたが、祭司としての働きはしませんでした。現役のレビ人はみな自分の立場と役割を持っていて、イスラエルの聖なる礼拝制度を守るために協調して働きました。
言うまでもなく、レビ人には厳粛な責任が負わせられていました。同じことが、幕屋で主の前に祭司として働くアロンの子らについても言えます。彼らの務めについて考えてみてください。創造主なる主御自身が聖所で彼らに御自身を啓示されたのです(民14:10、11)。このことは、彼らの生命と安全がエジプトから贖い出してくださった方、主にのみあることを絶えず思い起こさせるのでした。これらの祭司たちは聖なる神と堕落した人間とのあいだの仲保者でした。また、その役割において、彼らは天の聖所における私たちの真の大祭司、イエスの象徴でした(ヘブ8章)。
問9
レビ記10:1~11の聖句は今日の私たちに何を教えていますか
聖なる責任を負い、すでに十分なものを与えられていたこれらの若者たちが(出24:9参照)、公然と神の明白な命令に背くとは信じがたいことです。彼らに下された刑罰は私たちには苛酷で無情に思われるかもしれませんが、それは彼らに与えられた責任の神聖さを強調しているだけのことです。ほかの人たちは、主が聖所についての御自分の命令が厳格に遂行されるように期待しておられることを悟ったはずです。
「聖なるものを俗なるものを扱うように扱うことは神を冒瀆することである。神が世に光を与える務めを行うために聖別されたものは聖だからである。神の働きと少しでもかかわりのある者たちは空しい自分の知恵によってではなく、神の知恵によって歩まねばならない。さもないと、彼らは聖なるものと俗なるものを同じ水準に置き、それによって神から離れてしまう危険がある」(『伝道』639ページ)。
まとめ
神が「聖」であるという思想は銀の糸のように聖書全体を貫いています。神が聖であるとはどんな意味ですか。それは信者とどのような関係にありますか。出28:36、レビ11:44、45、イザ6:1~7、ヘブ12:14、Iペト1:15、16
「天使は協調して働いている。彼らのすべての動きに、完全な秩序がある。私たちが天の軍勢の調和と秩序を忠実に見習う度合いに比例して、私たちのための天使の働きは成功したものとなる。もし私たちが一致した行動の必要性を認めず、無秩序に、無節操に、支離滅裂に行動するなら、完全に組織化され、完全な秩序をもって動いている天使たちは成功裏に私たちのために働くことができない。彼らは悲しみのうちに立ち去る。なぜなら、彼らは混乱や不和、無秩序を祝福する権威を与えられていないからである。天使の協力を望む者たちはみな、彼らと一致して働かねばならない。天の召命を受けた者たちは秩序と規律、行動の一致を促進するためにあらゆる努力をする。そのとき、神の天使たちは彼らに協力する」(エレン・G・ホワイト『牧師へのあかし』28ページ、英文)。
へブル語のツァーバアという名詞が「兵役に就くことのできる」(新共同訳)とか「戦争に出ることのできる」とか訳されていますが(民数記1:3,20~22,24,26,28,30,32,34,36,38,40,42,45)、メソポタミアのセム語であるアッカド語では、単に「一つの群れ、グループ」という意味で、軍隊かどうかの区別はありません。私はヘブル語でも「一部族」の団体を表していると考えています。このツァーバアの女性形が神殿で奉仕する一群の女性たちを示していることからも、単に「一つのグループ」と考えたほうが無難です。特にこの語の複数形が聖書の中に頻繁にあらわれる神の御名「万群の主」(正しくは「全群のおわす」サム上1:3)の一部になっています。「万群」よりは「全群」のほうが原意に近いでしょう。エジプトを出たイスラエルの民全員は「主の全群」(出エ12:41)と呼ばれ、イスラエルの全部族の総称でしたが、その表現を逆にして「全群の主」という神の御名がサムエルの時代から用いられるようになりました。エレン・ホワイトも英語のhostsを「へブル人」と考えています。聖書も同様にツェバオスを「イスラエル」と説明しています。例えば、「全群の主(=おわす)はイスラエルの神」(サム下7:26)とか「全群の神、イスラエルの神、主(=おわす)」(エレ38:17、44:7)と説明されています。正しく聖書を理解して正しい信仰を持ちましょう。
*本記事は、安息日学校ガイド2009年4期『放浪する旅ー民数記』からの抜粋です。