民を準備する【民数記―放浪する民】#2

目次

この記事のテーマ

難民になったことのない人にとっては、たぶんイスラエルの子らの状況を完全に理解することはできないでしょう。もちろん、今日の多くの難民とは異なり、イスラエルの子らは追い出されたのではなく、自分から望んでエジプトを出たのでした。それでも、住み慣れた土地を離れ、不慣れな荒れ野をさまようことは不安だったに違いありません。

イスラエルに与えられた規則や規定の中には、このような背景において、より正しく理解できるものがあります。それらは、彼らが荒れ野で生き延びる上で助けになるものでした。彼らが最終的に約束の地に入った後、終息したものもありますが(たとえば、マナ)、多くの規則はそのまま残りました。なぜなら、それらに含まれる原則は、彼らが罪と偶像崇拝に満ちた世界で生きるときにも大いに祝福となるものだったからです。

今回は、主が御自分の昔の民のために定められた規定のいくつか、たとえば病気、夫婦間の背信行為(疑念)、共同生活につきものの個人的な争いなどの対処法について学びます。

病気の管理

シナイ山の荒れ野に展開する古代イスラエルの光景を想像してください。無数の遊牧民が家畜と共に、文明から切り離された荒れ野の中をさまよう姿を。彼らにどのような医療施設があったというのでしょうか。全くありませんでした。当時しばしば行われていた呪術のことを考えると、彼らはまだ恵まれていたほうかもしれません。それでも、このような環境にあっては、伝染病が容易に蔓延する恐れがありました。

問1

主はモーセに、どんな3種類の人々を「宿営の外に出す」ように命じられましたか。民5:1~4

重い皮膚病にかかっている人はだれでも、らい病人と見なされたかもしれません。真性のらい病(ハンセン病)も、この中に含められました。伝染性の皮膚病はどのようなものでも、共同体にとって危険なものと見なされたでしょう。同じように、赤痢や異常漏出、死体に触れることは、暑い荒れ野にあっては、宿営中に伝染性の病気を広める危険があったでしょう。男も女も、健康を回復するまでは宿営の外に出されました。主はこれらの健康を害した人たちを「嫌悪」されたのではありません。むしろ、全体の健康のために、彼らを宿営の外に、いわば隔離されたのでした。今日の病院にも、伝染病にかかった人を収容する特別な病棟があります。

問2

どんな神学的な理由から、これらの不健康な人たちは一時的に宿営の外に出されましたか(民5:3、後半)。このことから、どんな霊的教訓を学ぶことができますか。

以上のことを、霊的な視点、つまり汚れ、罪、罪の結果という思想から考えてみてください。罪が神の臨在についての感覚を鈍らせることは、だれもが経験によって知っているところです。神の前に汚れることが霊的な孤立感を深めることは、だれもが経験によって知っているところです。

社会の管理

現代の私たちにとって、何万人もの人間が牛や羊の群れを連れて移動することにともなう深刻な問題を理解することは困難です。彼らは今、シナイ山のふもとの荒れ野に集結しています。肉体的に不健康な人たちは全体の健康のために外に出されていました。しかし、もう一つの重要な問題に留意する必要がありました。彼らは互いに「愛し合う」ように教えられてはいましたが(レビ19:18)、共同体の中に生きている人ならだれでも知っているように、そうすることは必ずしも容易なことではありません。最良のときでさえ、争いは生じるものです。

問3

イスラエル人が宿営のだれかに対して罪を犯したとき、彼は実際にはだれに対して罪を犯したことになりましたか(民5:6──詩編51:3、4参照)。私たちはこの思想をどのように理解したらよいでしょうか。

私たちの隣人に対して罪を犯すことは神御自身に対して罪を犯すことです。考えてみてください。私たちはみな、神のものです。私たちはみな、創造と贖いによって神の財産です(Iコリ6:19、20、使徒17:28)。もしだれかがあなたの財産に手をかけ、それに損害を与えたとすれば、その罪は財産そのものにとどまらず、所有者のあなたにも及ぶはずです。私たちが他人に対して罪を犯すときにも、同じことが言えます。私たちは、その人を創造し、十字架において、御自身の血によってその人を贖われた方に対して罪を犯しているのです。とすれば、他人に対して罪を犯すことが神御自身に対して罪を犯すことであると聖書が教えているとしても、驚くには当たりません。

問4

罪を犯した人はどうしなければなりませんでしたか。民5:6~8、エゼ33:15、ルカ19:8、9参照

他人に与えた損害を償うという原則は今日も有効ですが、同じく罪を犯したことになる神に対してはどのように償ったらよいのでしょうか。実際には、不可能です。私たちは自分で神と和解することはできません。だからこそ、イエスが来られたのです。イエスは私たちの業によってではなく、私たちに代わって成し遂げられた御自身の御業によって私たちを神と和解させてくださったのです(コロ1:20)。

夫婦の貞操

創造主は人類を男と女に創造し、最初の結婚式を執り行うことによって、エデンで結婚制度を確立されました(創1:26~28、2:21~24)。十戒の二つの規定、つまり第7条と第10条は結婚の制度を保護していました。神権政治においては、不貞行為は双方の死をもって罰せられました(レビ20:10)。

問5

民数記5:11~31を読んでください。今日、私たちはこれをどのように理解したらよいですか。

不貞行為は家族の安定を根底から脅かすものだったので、主は御自分がこの問題を憂慮しておられることを強調しようと望まれました。

明らかに超自然的な要素を含むこの処置において、焦点となるのは飲み物でした。水は聖なるもの、また祭司が塵を取った地面は聖なるものでした。聖水も塵も水を苦くするものではありませんでした──それはただ、水が神聖であることを強調していただけでした。裁き・呪いを書いた巻物を水の中に洗い落とすことは、裁きの重大さを象徴していました。「すべては、女が聖(無罪)であるか不浄(有罪)であるかにかかっていた。もし聖と不浄が出会うなら、裁きは避けられなかった。もし聖が無罪と出会うなら、調和が達成された」(レイモンド・ブラウン『民数記の教え』46ページ)。

この処置は(私たちには奇妙に思われますが)、魔術のようなものではありませんでした。むしろ、それはかつて奴隷であった者たちには理解できる具体的な視覚教材でした。妻の心を読み、彼女を罰したり、清めたりしたのは、水ではなく、主でした。

問6

この処置はまた、どんな意味で、夫の不正なねたみの犠牲者となりうる妻を保護することにもなりましたか。

この処置は現代の私たちには奇妙に見えるかもしれませんが、それは、結婚の誓約が神の目にどれほど重要であるかを強調するものでした。神だけが、夫婦間の背信行為がどれほどの悲しみと苦痛、損失をもたらしてきたかを知っておられました。悲しいことに、多くの社会においては、結婚の誓約が握手と同程度の神聖さしか持っていないようです。

献身した一般人

神は広い意味で、イスラエルが神にとって「祭司の王国、聖なる国民(」出19:6)となるように意図されました。イスラエルはこのようにして、生ける神、万物の創造主に関する真理を全世界の国民に証しする者となるのでした。しかしながら、主はシナイにおいて、聖所・幕屋の礼拝に関連して、特に祭司とレビ人を御自身に仕える者とされました。

問7

一般人はどのような誓願によって、一定期間、主に献身することができましたか(民6:1~21)。このことは、私たち自身の霊性と主に対する献身を深めることに関連して、どんな教訓を与えてくれますか。

ナジル人とは、一定期間、主に自分自身をささげると決意した「献身した人」のことでした。両親は子どもを終身のナジル人としてささげることができました。たとえば、サムソンの母親は天使の指示に従って、イスラエルをペリシテ人から解放するという目的のために息子をささげました(士師13:2~5、16:17)。同じように、天使ガブリエルはザカリアに、(バプテスマの)ヨハネがメシアの先駆けとして奉仕するため、ナジル人として育てるように告げました(ルカ1:15)。ハンナもまた、サムエルを終身のナジル人としてささげる誓願を立てました(サム上1:10、11)。

興味深いのは、飲み物についての指示です。古代の人々にとっては、ぶどう園や、ぶどうジュース、ぶどう酒、ぶどうの実といった産物は、開拓された農地と家屋敷を意味していました。ナジル人はぶどう園から飲みませんでしたが、彼らはそれによって自分たちがよりよい土地をめざしているという信仰を具体的なかたちで表明していたのです。ぶどう園は安定した生活を象徴していました。しかしながら、ナジル人はその生き方によって、自分たちが「更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望」していることを具体的なかたちで示したのです。「だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです」(ヘブ11:16)。

アロンの祈り

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らしあなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように」(民6:24~26)。

問8

上の聖句をよく読んで、以下の質問に答えてください。

  • ここに、三位一体の神の性質がどのように暗示されていますか(マタ28:19)。
  • この祝福の祈りは、イスラエルが全的に神に依存していることに関してどんなことを啓示していますか(ヨハ15:5)。
  • 祭司自身が民のためにこの祈りをささげることになっていましたが、このことからどんなことがわかりますか(ヘブ7:25)。

ここに、いくつか興味深い事実があります。各行は神の個人的な、契約の名前

(ヤーウェ、主)をもって始まっています。呼びかけられている会衆は単数形です。つまり、各人は個人として扱われています。各人は、祝福の意味するところを個人的に、自分のものとして知ることができました。言い換えるなら、イスラエルは一つの大きな共同体でしたが、各人は主と個人的な関係を持つことができました。

イスラエルはこの時点では、まだ聖書を持っていませんでした。主の祝福は、奴隷から解放されたこと、紅海を渡ったこと、食物と水を備えられたことに示されていました。主の「守り」の力は聖所における主の臨在のうちに見られました。聖所の儀式、たとえば絶えずささげられる燔祭、香、燭台などはそのことを教えていました。

このことから、旧約聖書の宗教が完全に恵みにもとづいたものであったことがわかります(ガラ3:7~14、ヘブ4:1、2)。3行目の聖句(民6:26)は神の笑みと平安を信者に約束しています(マタ11:28~30参照)。

まとめ

「毎朝、神におのれをささげ、これを最初の務めとして、次のように祈りましょう。『主よ、しもべを全くあなたのものとしてお受け入れください。私のすべての計画をあなたのみ前におきます。どうか、しもべを今日もご用のためにお用いください。どうか、私と共にあって、すべてのことをあなたにあってなさせてください』と。これは毎日のことです。毎朝、その日一日、神に献身して、すべての計画を彼にお任せし、摂理のままに実行するなり、中止するなりするのです。こうして、日ごとに生涯を神のみ手にゆだねるとき、しだいにあなたの生涯がキリストの生涯に似てくるのです」(『希望への光』1958、1959ページ、『キリストへの道』93、94ページ)。

「境遇は友と別れさせ、広い海の不安な水がその間に波うつかも知れないが、どんな事情も距離も、わたしたちを救い主から離すことができない。どこにいても、キリストはわたしたちの右に立ち、わたしたちを支え、保ち、擁護し、励ましてくださる。ご自分が贖われた者に対するキリストの愛は、母が子を愛する愛にもまさって大きい。『わたしは彼を信頼する。彼はわたしのためにその命を与えてくれたのだから』と言って、その愛のうちに安らぐことはわたしたちの特権である」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』60ページ)。

神の御名Yhwhについての正しい理解は、聖書の学びに役立ちます。すでにアダムの時から、神は「Yhwh神」(創世記2:4)と呼ばれていました。これは

「神います」という意味です。多くの場合動詞のYhwh「います、おわす」を神の御名として用いました。これを旧約時代にはイヒウェエと発音していたと思われますが、新約時代以前に十戒第3条「Yhwhの名をみだりに唱えてはならない」(出エ20:7)を誤解し、Yhwhをそのとおりに発音せず、別の神名に変えてアドナイ「主」と呼び変えました。英国の聖書学者たちはYhwhを誤って「エホバ」と音訳しましたが、旧約時代には「イヒウェエ」と発音したでしょう。このYhwhを日本語に訳すと「おわす」もしくは「います」となり、神様がその民と一緒にいてくださることを示す神の御名です。これは動詞の3人称単数未完了形で、「彼はいます」の意味があります。神がご自分をそのように呼ばれるときは「私がいる」(出エ3:14)と言われました。旧約時代の神の民はこの御名をそのとおりに発音しておりました。モーセの時以降もその発音は禁じられませんでした。

よかったらシェアしてね!
目次