受難の予告【マルコ—マルコの見たイエス】#6

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死ぬために生まれる

ナザレのイエスを巡ってこれまでさまざまな論争がなされてきましたが、信じる人も信じない人も意見が一致している点が一つあります。それは、イエスがローマの十字架にかかって死なれたということです。しかし、キリスト教徒は十字架を否定することも、釈明することもしませんでした。むしろ、彼らは使徒パウロと同じ態度を貫いてきました。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(ガラ6:14)。

パウロやほかの信者にとって、十字架は不当な裁判以上のものでした。むしろ、それは世を救うための、神の計画の一部でした。十字架は必要にして、不可欠なものでした。イエスはマルコとに死ぬために生まれたのです。イエスの生涯が力強いあかしであり、模範であったように、イエスの死、しかもイエスの死のみが、罪と悪の問題を永遠に解決するのでした。

犬もパン屑を食べる(マルコ7:24~30)

シリア・フェニキアへの旅は、イエスの伝道の中でも最も距離の長いものの一つで、かつ最も北の地点にまで至るものでした。カファルナウムやガリラヤから遠く離れたこの地方においてさえ、イエスの評判は広まっていました。イエスのうわさを伝え聞いた異邦の女が、イエスが悪霊に取りつかれた娘を助けてくださるのではないかと考えたのも無理のないことでした。

問1

シリア・フェニキアの女の物語(マルコ7:24~30)を、マタイの平行記事(マタ15:21~28)と比較しながら読んでください。イエスがこのように言われたのはなぜですか。イエスの言葉が非難を意味するものではないと女が理解したことは、どんなところからわかりますか。

犬についてのイエスの言葉は女を軽蔑するかのように思われます。しかし、女はイエスの態度と口調のうちに、イエスが自分を犬とお呼びになったのではないこと、またユダヤ人が弟子を教えるときに用いる典型的な方法で応答しておられることを読み取ったに違いありません。

この物語の中で最も悲しむべきものは、マタイの記録に出てくる弟子たちの態度です。女を励まし、すべての人にイエスの祝福を与えるように配慮すべき弟子たち自身が、主の御心に逆らうようなことをしています。彼らのこの態度は神と真理と信仰に関する誤った偏見と先入観から出ていました。イエスが女に言われたことは、女のためというよりも、むしろ御自分の弟子たちのためであったかもしれません。

あらゆる要素が女にとって不利に働き、希望がないように見えたにもかかわらず、イエスは女に言われます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」(マタ15:28)。聖書の記録を注意深く読むと、女があらゆる不利な状況にあって懸命に信仰を働かせているのがわかります。彼女はどんな不利な状況の中で、どのように信仰を働かせていますか。同じように、私たちも絶望的な状況にあって、どのように信仰を働かせることができますか。

四千人に食べ物を与える(マルコ8:1~21)

イエスは先に、ガリラヤで五千人に食物を与えておられました。今、ガリラヤ湖の東のデカポリス地方で同じような奇跡を行われます。弟子たちの態度に注目してください。彼らは数か月前に、イエスが五千人に食物を与えられるのを見ていたにもかかわらず、再びイエスの力を疑っています。

「すると弟子たちはふたたび不信をばくろした。ベッサイダで、彼らの手にあったすこしばかりのものが、キリストによって祝福されたとき、群衆に食べさせるのに役立ったのを彼らは見ていた。それなのに彼らは、イエスの力が飢えた群衆のために何倍にもふやしてくださることを信じて、持っているだけのものを全部さし出そうとしなかった。その上、イエスがベッサイダで養われたのはユダヤ人だったが、ここの人たちは異邦人であり、異教徒であった。弟子たちの心の中にはまだ偏見が強かった」(『各時代の希望』中巻166ページ)。

問2

弟子たちにとって驚きだったのは、イエスが奇跡によってパンを備えられることではなく、むしろ異邦人のためにそうされることでした。彼らの態度は、偏見が福音の力を台無しにすることに関してどんなことを教えていますか(昨日の研究参照)。

キリスト教の歴史に見られる最大の悲劇の一つは、イエスを主と信じる人たちが民族的な偏狭にとらわれているということです。クリスチャンの中にさえ人種差別、同族意識、過激な民族主義、偏狭な心を抱いている人がいるという事実は、偏見の根深さをよく表しています。さらに悪いことに、人々は聖書を用いてこれらの態度を正当化し、それによってクリスチャンのあかしを無効にしています。偏見を取り除くことを目的とした書物である聖書を用いて、逆に偏見を助長することは、歴史における悲しむべき皮肉と言わねばなりません。

次の各聖句は偏狭と偏見の問題について教えています。これらの聖句を読み、聖書がこの問題について教えていることを簡単に要約してください。あなた(あなたの教会)はどの程度、聖書の教えに従っていますか。どんな点を改めるべきですか。創18:18、イザ56:7、マルコ11:17、ルカ6:27、使徒10:28、17:26、IIコリ5:19、コロ3:11、Iヨハ2:2、黙14:6

世界で最も重要な質問(マルコ8:27―30)

問3

マルコ8:27~30を読んでください。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」という質問はどういう意味で、世界で最も重要な質問なのでしょうか。

上記の問題に関して、C・S・ルイスは次のように述べています。「しばしば次のように言う人がいるが、これは全く愚かなことである。『私はイエスを偉大な道徳的教師として受け入れるが、イエスが神であるという主張は受け入れない』。私たちはこのようなことを言ってはならない。単なる人間であって、しかもイエスの言われたようなことを言った人が、単なる偉大な道徳的教師であるはずがない。そのような人は、自分がゆで卵であると言う人と同じくらい狂人であるか、そうでなければ地獄の悪魔である。あなたはどちらかを選択しなくてはならない。彼は神の御子か、そうでなければ狂人、いやそれ以下のものである。彼を白痴として監禁し、つばを吐きかけ、悪魔として打ち殺すか、そうでなければ彼の足元にひざまずいて、彼を主また神と呼ぶかのどちらかである。しかし、イエスが偉大な人間の教師であるというような愚かな考えはやめようではないか。彼はそのように考える自由を与えてはいないのだ」(『純粋なキリスト教』56ページ、1996年)。

マルコ8:29の「あなたがた」は、原語では強調形になっています。したがって、その意味は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」、です。イエスがそのように尋ねられたのは弟子たちに自分自身の答えを求められたからです。今日、すべての人に同じ質問がなされていて、めいめいに自分の心を探り、正直に答えるように要求しています。各人にとって、永遠の運命がその答えにかかっています。なぜなら、ペトロのようにイエスをメシアであると告白するなら、その人の人生は変わらずにそのままであり得ないからです。

イエスの十字架、私たちの十字架(マルコ8:31~9:1)

問4

今日の私たちにとって、キリストが苦難に遭い、死なれるという思想はキリスト教信仰の基礎となるものです。しかし、メシアが苦難に遭われるという思想に対して、ペトロや弟子たちはどのように応答したでしょうか(マルコ8:31~33)。彼らはなぜそのように応答したのでしょうか。

「弟子たちの反対の激しさそのものが、それが知的な問題以上のもの、単にイエスの意図が理解できなかったという事実以上のものであることを暗示している。すなわち、弟子たちはイエスの苦難を望まなかったのである。たやすく力を発揮することによってめざましい勝利を獲得する代わりに、苦難に遭われるようなメシアに従うことは、性に合わないことであった。そのようなことは何ひとつ賞賛をもたらさないし、生まれながらの人間の誇りを傷つけることである。通常の基準によって判断すれば、メシアの苦難と死には何ら意味がないように思われる。さらに、もしメシアが苦難に遭うことが神の御心であるとすれば、メシアの弟子たちが同じ運命に遭うこともまた神の御心であろう。生まれながらの人間はここで再び、ひるむのである。こうして、イエスの預言に対するその応答によって、弟子たちは以前にも増してはっきりと、彼ら自身についての真実、つまりその心と思いがこの世の、贖われていない、生まれながらの人間の基準によって支配されていることを暴露するのである。彼らは『人間のことを思っている』(マルコ8:33)」(D・E・ニネハム『聖マルコの福音書』226ページ、1963年)。

問5

十字架を背負ってイエスに従うとは何を意味しますか。自己を否定する、自分の命を失うとはどんなことですか。たいていの人にとって、これはあまり喜ばしいことでないのはなぜですか。

イエスの姿が変わる(マルコ9:2―13)

問6

イエスの変容(変貌)について記しているマルコ9:2~13とルカ9:28~36を読んでください。だれがこの出来事にかかわっていましたか。この出来事から恩恵を受けたのはだれでしたか。イエスの変容が特にこの時期に起きたのはなぜですか。

父なる神の声が天からして、弟子たちに次のように語りかけました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」(マルコ9:7)。弟子たちはイエスとイエスの権威を信じる十分な理由を与えられていたにもかかわらず、イエスがご自分は人々から拒絶され、死ぬと言われることに耐えられませんでした。ペトロなどは、イエスがそのように言われるのをいさめたほどでした(マルコ8:32)。したがって、この天からの声は弟子たちにとって「イエスに聞く」ための新たな動機づけとなったはずです。

問7

ペトロの手紙IIの1:16~21を読んでください。ペトロはキリストの変容に言及して、どんな点を強調していますか。

イエスの変容は弟子たちにとって祝福となっただけでなく、イエス御自身にとっても祝福となりました。というのは、エルサレムに向かって、つまり確かな死に向かって歩を進めようとしておられた人間イエスにとって、それは父なる神の愛を確証するものであったからです。父なる神は三度、聞こえるかたちで、イエス・キリストが神であられることを宣言しておられますが(マルコ1:11、9:7、ヨハ12:28)、どの場合もイエスの働きが岐路に立たされ、人間イエスが大きな試練に直面しようとしておられたときでした。

ガイド

キリストは弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。「バプテスマのヨハネの生き返り」「エリヤの再来」──民衆の最大級の評価にも満足なさらず、キリストはこうお尋ねになりました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うか」。これはガイドでも言われているように「世界で最も重要な質問」です。その答えに全人類の運命がかかっているからです。ペトロは答えます。

「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16:16)。キリストは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」とお喜びになりました。

キリスト教の定義は「イエス・キリストは神であると信ずる宗教」です。すなわちペトロのこの告白の上にキリスト教は成り立っているのです。ユダヤ教もイスラム教も旧約聖書を信じ、天地万物の創造主を信じ、イエスを預言者と信じていますが、神であるとは信じていません。

活発な訪問伝道で知られるある教派の長老さんと聖書研究をしていました。その団体はキリストは最初の被造物であると信じています。私がキリストの神性を主張するとその謙遜で柔和に見えた長老さんが、「神様が十字架ではりつけになって死ぬんですか」と笑い出しました。そんなみじめな神様は信じられないという面持ちでした。

全知全能の神を信ずるより十字架の神を信ずるのはもっと困難です。ホワイト夫人が言われるように「神は人間の自尊心を傷つけるような方法で救われる」からです。その十字架上のみじめで無力な死刑囚が全宇宙の支配者であるとは、なんという矛盾、なんという落差、なんという変貌、なんという謙卑でありましょう。しかしそこにこそ神の栄光と私たちの救いの確かさがあるのです。全知全能、永遠自存も神の栄光ですが、十字架の謙卑と自己犠牲愛はそれにまさる神の栄光です。私たちはどうしてこのようなことを信ずるようになったのでしょうか。私たちは狂気ではないでしょうか。「あなたにこのことを表したのは血肉ではなく、天にいます私の父である」。私たちがナザレのイエスを神と信ずるのは私たちの知性や信心深さによるのではなく、神の啓示によったのです。「私につまずかない人は幸いである」(マタ11:6)。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年2期『マルコの見たイエス』からの抜粋です。

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