弟子たちを教える【マルコ—マルコの見たイエス】#7

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雑多な連中以前、あるキリスト教の雑誌に、「現代のコンサルタントから見たキリストの弟子たち」といった内容の記事が載っていました。

「シモン・ペトロは感情的に不安定で、気性が荒い。アンデレは指導者としての資質を全く備えていない。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは仲間に対する忠誠心よりも個人の利益を優先する。トマスは士気を低下させるような疑い深い性質の持ち主である。マタイは『エルサレム商事改善協会』から要注意人物のひとりに目されている。アルファイの子ヤコブ、およびタダイは明らかに急進的な傾向を持っており、どちらも躁鬱病にかかる危険性が高い。

しかしながら、大いなる可能性を持った候補者がひとりいる。彼は能力と工夫に富んだ人物である。……私たちはイスカリオテのユダをあなた方の管理人また右腕として推薦する」(『バプテスト・メッセンジャー』1984年9月27日)。

公然たる失敗(マルコ9:14~32)

イエス、エリヤ、モーセと共にずっと山の上にいたかったペトロは(マルコ9:5)、三つの仮小屋を建てましょうと提案しています。イエスが栄光に満ちたその場所にしばらく留まることがおできになったなら、素晴らしかったでしょう。しかし、イエスはその使命のゆえに、山頂の平安と励ましと天の交わりを離れ、谷に戻らねばなりません。気むずかしい、悪臭のする、物わかりの悪い、しかし助けを必要としている民のもとに戻らねばなりません。それがイエスの働き場所でした。

天の栄光から、堕落した世界の苦しみの中に戻らねばなりません。天の高みから、人間の堕落の深みに戻らねばなりません。モーセとエリヤの交わりを離れて、口から泡を出して転び回る、悪霊に取りつかれた子供を持つ絶望した男のもとに戻らねばなりません。天の栄光から、みじめな失敗を犯した弟子たちのもとへ戻らねばなりません。

問1

マルコ9:14~32を読み、なぜ弟子たちは以前(マルコ6:12、13参照)と違って悪霊を追い出せなかったのか考えてください。

「キリストに一層深く共鳴するのをさまたげていた不信仰と、まかされた聖なる働きに対する彼らの不注意な考え方が、暗黒の勢力との戦いに彼らを失敗させたのであった。……このような戦いに成功するためには、彼らはもっと異なった精神で働きにたずさわらねばならない。彼らの信仰は熱烈な祈りと断食、また心のへりくだりによって、強められねばならない。彼らは自分をむなしくして神の霊と力に満たされねばならない。信仰、すなわち神にまったくよりたのみ、神のみわざに全的に献身するようになる信仰をもって、熱心にたゆまず神に嘆願することによってのみ、人は『もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦い』において、聖霊の助けを受けることができるのである」(『各時代の希望』中巻204ページ)。

真の偉大さ(マルコ9:33―50)

マルコ9:33は非常に重要なことを教えています。当時の弟子たちの心中をよく表しているからです。主は弟子たちに真理の言葉を語っておられましたが、弟子たちはそれを聞きたくなかったので、それ以上のことを知ろうとはしませんでした。実際のところ、彼らは自分たちに都合の悪い真理から逃れようとしていたのでした。私たちも同じようなことをしていないでしょうか。

問2

34節以降には、このような彼らの態度が必然的にもたらした霊的結果について何と記されていますか。これらの言葉は、彼らがキリストの王国の原則からどれほど遠く離れていることを示していましたか。

問3

今日の聖句(マルコ9:33~50)を、特に33~37、42~50に注意しながら読んでください。イエスがここで語っておられる主題は同じではありませんが、根底に流れている霊的主題はクリスチャンにとってきわめて重要なものです。それは「いちばん」になろうとする弟子たちの態度に表された霊的問題の核心を突くものです。それはどんなことですか。それが重要なのはなぜですか。

哲学の一部門に「倫理的利己主義」と呼ばれるものがあります。これは、他人の利益が自分の利益に役立つ場合を除いて、人は自分自身の利益だけを追求し、他人の利益を無視すべきであるという教えです。要するに、人は自分自身のことだけを考えるべきであるということです。現実には、これは改めて教えられる必要のないものです。そのようなことはすでに私たちの遺伝子の中に組み込まれているからです。

もし神も、最後の裁きも、報いもないとしたら、どんな根拠によって「倫理的利己主義」を擁護しなければなりませんか。そのような教えがクリスチャンにとって受け入れがたいものであるのはなぜですか。

離婚の改革(マルコ10:1~12)

問4

マルコ10:1~12を読んでください。イエスはここで離婚についてどんなことを教えておられますか。マタ19:1~12参照

おそらく離婚と再婚ほど、今日のアドベンチストの間で論議を呼んでいる問題はないでしょう。イエスの時代も同じでした。当時のユダヤ人は旧約聖書しか持っていませんでしたが、その中の一個所が議論の的になっていました。それは申命記24:1、2です。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり」。イエスの時代のラビの学派、つまりヒルレル派[中庸主義]とシャンマイ派[保守主義]は上記の聖句にある「何か恥ずべきこと」の解釈をめぐって対立していました。一方はそれを、食物を焦がすほどの取るに足らない問題と解釈しましたが、他方はずっと厳格な立場を取りました。イエスは、夫婦間の背信行為を除いて、離婚はあってはならないと教えておられます。

問5

イエスが話の途中で申命記から創世記へと話題を変えておられることに注目してください。イエスはこれらの聖句(創1:27、2:24)によって何を教えておられますか。このことから、創世記の記述と権威に対するイエスの見方についてどんなことがわかりますか。

マルコによれば、弟子たちはファリサイ派の人々に対するイエスの回答についてさらなる説明を求めています(マルコ10:10)。事実、結婚や姦通、離婚に関するイエスの見解は、男女を平等とは考えない当時のユダヤ人の見解とは大きく異なっていました。キリストによれば、夫も妻同様、姦通に関して責任がありました。

子供たち(マルコ10:13―16)

問6

幼い子供たちに対する弟子たちの態度にイエスは憤られました。弟子たちのお互いに対する態度(マルコ9:33、34)、また異邦人に対する態度(マタ15:23)について考えるとき、彼らの子供たちへの態度の理由についてどんなことがわかりますか。

子供たちに対する私たちの態度は私たち自身について多くのことを教えてくれます。子供と交わるためには、私たちは自分自身の世界から外に出る必要があります。自分とは全く異なった判断の基準に耳を傾け、それを理解するように努めなければなりません。自分自身に没頭している人は子供と親密になることができません。人との交わりを通して自分自身の利益を求めることばかり考えている人は、子供と交わる時間を持とうとしません。子供たちに対するイエスの屈託のない態度、またイエスに対する子供たちの打ち解けた態度は、身分にかかわりなくすべての人に奉仕されたイエスについて多くのことを語っています。同じように、イエスのもとに連れて来られた子供たちへの弟子たちの態度は、彼らが自分自身を忘れて、人のために奉仕する者に成長する必要があることを教えています。

問7

イエスは弟子たちに言われました。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:15)。この言葉は、彼らが理解する必要のあった原則についてどんなことを教えていますか。マタ6:9、ルカ11:13、エフェ5:8、Iペト1:14、Iヨハ5:21参照

子供たちのうちには、天の父なる神に従う者たちが持つべき無邪気さ、純真さ、信頼、謙遜があります。無邪気な子供たちは大人と違って、人を裁いたり、偏見の目で見たりしません。子供は無力な存在で、保護者の憐れみと愛に全く依存しています。イエスが私たちに、子供のようになりなさい、と言われたのも不思議ではありません。

子供のような信仰を求める祈りを書いてみてください。具体的にどんなことを求めますか。どうしたら実際にそのような信仰を持つことができますか。

富に対する態度(マルコ10:17~31)

今回見てきた弟子たちへのイエスの教えの最後に、イエスは富に対する弟子たちの誤った考えを正そうとしておられます。弟子たちは初め、イエスの言葉に「驚いて」いますが、後には、「ますます驚いて」います(マルコ10:24、26)。彼らは律法学者やファリサイ派の人々に従って、物質的な繁栄と健康は神の恵みのしるし、貧困と病気は神の不興のしるしと信じていました。

問8

マルコ10:17~22にある金持ちの若い役人の物語を読んでください(マタ19:16~22、ルカ18:18~23参照)。これは今日の私たちにどんな霊的教訓を教えていますか。

この若い役人は非常に恵まれた境遇にありました。彼は若く、力に満ちていました(イエスに走り寄っています)。彼は礼儀をわきまえた人物でした(イエスの前にひざまずいています)。彼は権威ある地位にありました。豊かな富を持っていました。霊的な問題に関心を抱いていました。つまり、彼は天国への申し分ない候補者でした!

問9

この金持ちの若い役人に対するイエスの試験は、イエスの弟子になろうとするすべての人に当てはまりますか。つまり、私たちは持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に施すべきですか。そうでないとすれば、なぜですか(ヒント:ほかの裕福な人たちに対するイエスの教えと比較してください。ザアカイ[ルカ19:1~9]、ニコデモ[ヨハ3:1~21])。

この章を理解する鍵、また上記の質問に対する答えはマルコ10:23、24にあります。問題は富そのものではなく、富への対応にあります。金持ちの若い役人の心を知っておられたイエスは、彼の弱点をも知っておられました。若い役人がイエスに背を向けたのは、富が彼の偶像になっていたからです。そうでなければ、イエスはあのようには言われなかったはずです。

ミニガイド

富める青年の物語が私たちに問いかける内容は心中穏やかならざるものにします。「あなたに足りないことがひとつある。帰って持っているものを皆売り払って貧しい人々に施しなさい。──そしてわたしに従ってきなさい」「主よ、全財産とは無茶な、ザアカイは半分でよかったではありませんか」と抗議したくなります。ここでいわれているのは永遠の命の代価ではありません。全財産をはたいても永遠の命を買うことはできません。それは神の破格の賜物なのです。その贈り物を受け取るのを妨げているもの、それがこの青年の場合、「たくさんの資産」であったのです。神とこの青年との間を妨げているもの、彼の富が偶像になっていたのでその偶像を取り除けなさいと言われたのです。ガン細胞がある患者は外科医が100%それを取り除くことを期待します。50%にまけてくれと言う人はいません。それにしても多くの人がうらやましく思い、幸福のシンボルと思っている「たくさんの資産」が天国への道を閉ざしてしまうとはなんという皮肉でしょう。しかし富は偶像のひとつに過ぎず、人は神と自分との間を隔てているいろいろな偶像をひそかに心の中に安置しているのではないでしょうか。その偶像の本質は「自己」でありましょう。ゆえにキリストは「誰でもわたしについてきたいと思うなら自分を捨て、……わたしに従ってきなさい」と言われたのです。富める青年に要求されていることがここでは普遍化されています。ペトロは去っていく青年を見ながらイエスに言います。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタ19:27)。そう言う彼にも「自分はあの青年とは違う」という自負心と見返りを期待する自己が顔を出しています。

自分よりかわいくて大事なものはないのに、それを捨てなければキリストの弟子になることができないとはなんと厳しい道でしょう。そこにキリスト教の真理があると直感するものの、いったいそれは可能なのでしょうか。キリストの答えは「人にはそれはできないが神には何でもできないことはない」でありました。自分を捨てるということはもはや人間には不可能なので、神がしてくださることを期待して待つほかはないのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年2期『マルコの見たイエス』からの抜粋です。

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