終わりの予告【マルコ—マルコの見たイエス】#10

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この記事のテーマ

終末論を信じる民

セブンスデー・アドベンチストは終末論を信じる民です。私たちは、この世が着実によくなるのではなく、むしろ突然、劇的な終末を迎える、と信じています。しかし、それは核戦争や、宇宙からの隕石や、人的・自然的災害によって滅びるのではありません。イエスが万物に終わりをもたらされるのです。イエスが力と栄光のうちにこの世に戻られ、現在の世界秩序に終止符を打たれるのです。その後、定められた時に(黙示録20章に予告された荒廃の千年後)、神は新しい天と地を創造し、それを御自分の民のための永遠の住まいとされます。

アドベンチストという名称そのものが、私たちがイエスの再臨を信じていることを世に宣言しています。私たちがアドベンチストであるのは、イエスがアドベンチストであられたからです。今回の聖句は、マタイ24章およびルカ21章の平行記事と共に、イエス御自身の時代から再臨に至るまでの広範囲に及ぶ期間を概観しています。語っているのはイエス御自身です。

問1

イエスが終末を予告されたのはどんな背景においてでしたか。マルコ13:1、2

マタイによれば、イエスは神殿での教えを終えられると、愛された都エルサレムのために嘆かれました。「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(マタ23:38)。弟子たちは神殿を出るとき、イエスのこの言葉を思いだし、その堅固な礎石と壮麗な建物に言及しました。今日でも、この神殿の遺跡は大きく壮麗で、発掘された礎石は巨大です。すべてが崩壊するというイエスの予告を、弟子たちが疑ったのも不思議ではありません。

問2

マルコの記録をマタイ(マタ24:1、2)と比較してください。弟子たちの一つの質問にイエスはエルサレムの滅亡だけでなく、再臨についても語られました。なぜこの二つの出来事を一つに結びつけられたのでしょう。

弟子たちには、神殿とエルサレムの崩壊をもたらすほどの大惨事は世の終わりしかないように思われました。エルサレムの滅亡とイエスの再臨が同時に起こると考えたのです。しかし、イエスの再臨までにはまだまだ多くの年月を経なければなりませんでした。インドの平原を歩く登山者が、前方のヒマラヤ山脈を見るようなものです。彼は最初の尾根を山頂だと思います。登るにつれて、新しい尾根が次々に現れます。最高峰のエベレスト山は、彼が想像していたよりもはるかに遠い山塊の中にあるのです。

イエスの言葉が語られた背景を理解することは、終末についての預言を解釈するうえで非常に重要です。彼の返答は弟子たちの質問、エルサレムの滅亡とイエスの再臨の両方を含んでいました。それは包括的で、あるものは特にエルサレムの滅亡に、あるものは世の終末に、あるものはその両方にあてはまります。

終末のしるし(マルコ13:3~13)

問3

終末のしるしに関して、キリストは何と教えておられますか。暴虐、迫害、流血という悲惨な状況の中にあっても、キリストは弟子たちにどんな励ましと希望の言葉を与えておられますか。

終わりの時は、ある意味では悪い知らせですが、ある意味ではよい知らせです。悪い知らせというのは、社会的、政治的、自然的な大変動が起こり、すべてのものが秩序と安定を失うからです。よい知らせというのは、福音、すなわち、私たちの罪のために死なれたイエスにおいて現された神の愛のメッセージが、すべての国民に宣べ伝えられるからです。

問4

100年前には、福音を全世界に伝えることは、全く不可能ではないにせよ、信じがたいことのように思われたでしょう。この預言の実現が可能となったのは、最近のどんな変化によりますか。現代の私たちはどれほど有利な立場にありますか。

イエスが予告された戦争や災害、苦難について聞くとき、私たちの心は痛み、落胆します。しかし、イエス御自身がそのように予告されたこと、またこのような状況にあって、弟子たちに励ましの言葉を語っておられるのを見るとき、私たちは逆境の中にあっても信仰を持ち続ける力を与えられます。このことは旧約聖書についても言えることです。預言者たちは滅びと裁き、災いなどについて警告しましたが、ほとんどの場合、そのままでは信仰を捨てていたであろう人々に希望の言葉を語っています(代下7:13、14、エレ29:10、36:1~3、アモ5:4)。イエスのこれらの言葉(マルコ13:5~13)は、確かに悲惨な状況を描いてはいますが、私たちになお希望を抱くように励ましてくれています。

エルサレムの陥落(マルコ13:14―23)

今日の聖句の一部は各時代のクリスチャンに当てはまりますが、一部は特にエルサレムの陥落に当てはまります。

問5

イエスに従う者たちに与えられたエルサレム滅亡の特別なしるしは何でしたか。マルコ13:14(マタ24:15、ルカ21:20参照)

イエスは、預言者ダニエルの言う憎むべき破壊者について語られます。何世紀も前に、ダニエルは、ダニエル書9:27で、エルサレムがローマ人によって破壊されると述べています。このことはイエス御自身の言葉から明らかです。

クリスチャンはイエスの言葉を真剣に受け止めました。戦雲がたれこめ、ついに紀元67~70年にローマ軍がエルサレムに侵入したとき、準備していたクリスチャンは、教えられていたとおりに大急ぎで逃れ出ました。しかし、外国の軍隊に包囲されていた中で、彼らはどのようにしてエルサレムから脱出することができたのでしょうか。エルサレム陥落を生き延びたユダヤ人歴史家ヨセフスは次のように説明しています。「ヨセフスによれば(『ユダヤ戦記』9.3[420])、エルサレム包囲攻撃の間に、またその後で100万人以上が死に、9万7000人以上が捕囚となった。しかしながら、ローマ軍が不意にエルサレム包囲を解いた一時的な休止の間に、すべてのクリスチャンが脱出し、一人として命を落とした者がいなかったといわれている。彼らが逃れたのは、ガリラヤ湖の南約27キロ、ヨルダン川の東の丘陵地帯にあるペラの町であった。

ヨセフスがローマ軍の指揮官タイタスの告白として伝えているところによると、ローマの軍隊もその攻城砲も、神御自身の許しがない限り、エルサレムの城壁を破ることができなった。エルサレムの頑強な防衛はローマの兵士たちを激怒させたので、入城したときの彼らの復讐心は限度を知らなかった」(『SDA聖書注解』第5巻499ページ)。

再臨(マルコ13:24~27)

マルコ13章の預言のどこまでがエルサレムの陥落をさし、どこまでが再臨をさすかを、はっきりと特定することはできませんが、この章の全体的な方向ははっきりしています。まず一般的な終末のしるしをあげた後で、イエスはエルサレム陥落を示す特定のしるしをあげておられます(マルコ13:14~18)。それから、世の終わりに話題を移し、再臨に関して直接的で、明白な言葉を語っておられます(26、27節)。

問6

マルコ13:14~27を読んでください。まずエルサレムの陥落について語られたイエスは、再臨に先立って、将来どんなことが起こると預言されていますか。細かい出来事より世界の全般的な状況に注目してください。

問7

上記のイエスの預言を、現代の状況と比較してください。それらはどれほど合致していますか。

特に23節に注目ください。23節以前には、恐怖の時代、患難、暴虐、選民を欺く偽キリストや偽りのしるし、業のことが書かれています。しかし、その後で、イエスは事実上、次のように言っておられます。これらの恐ろしい出来事は現実に起こっていますが、失望し、信仰を失ってはなりません。わたしがあらかじめ、これらのことが起こると言っているからです。繰り返しますが、このような恐ろしい警告の中にも、主は御自分の民に希望を抱くべき理由を述べておられます。あえて言うなら、これらのことが起こるとイエスが言われたのは、それによってイエスの言われたことの正しさが証明されるためでした(ヨハ13:19参照)。私たちは、これらの出来事そのものにではなく、それらが導く出来事、すなわちキリストの再臨に心を向けるべきです。

再臨を待ち望む(マルコ13:28―37)

問8

いちじくの木はどんな教訓を与えてくれますか。再臨の日時は知らされていませんが(マルコ13:28、29、32、33)、それを知ることが必ずしも祝福になるとは限らないのはなぜですか。

毎年、春になり大地が新しい生命で満たされると、夏が近いことがわかります。暑い夏の日がいつ来るかはわかりませんが、やがて確実に来ます。再臨のしるしは日々、増大しています。冬の後に必ず夏が来るように、再臨もまた確実に来ます。

エレン・ホワイトは、再臨の日時を設定するさまざまな試みに出会いました。彼女はこれらの憶測を拒み、警戒するようにと教えました。1891年、ミシガン州ランシングでの、使徒言行録1:7にもとづく「時や時期はあなたがたの知るところではない」と題する説教の中で、次のように勧告しています。「私は、何度も何度も、時を定めることに関して警告を受けました。時を土台にしたメッセージがふたたび神の民に与えられることは決してないでしょう。私たちは聖霊の降下についても、キリストの再臨についても、確定した時を知ることはないのです。……

私たちは時期に関連した興奮によって生きるべきではありません。神があらわしておられない時期と場合についての空想に、夢中になるべきではありません。イエスは弟子たちに、『目を覚ましていなさい』と言われましたが、確定した時については何も言われませんでした。彼に従う者は、指令官の命令を注意して聞く人のような立場を取るべきです。彼らは再臨の時が近づくにつれて、目を覚まし、待ち、祈り、働くべきです。しかしだれも、いつその時が来るかを正確に預言することはできません。なぜなら、『その日、その時を知るものはない』と言われているからです。あなたは、1年、2年、あるいは5年のうちにキリストが来られると言うことはできませんし、また、主の来臨はここ10年、あるいは20年はないかもしれない、と言って延ばすこともできないのです」(『セレクテッド・メッセージ』1・252~254ページ)。

問9

私たちが再臨を待ち望むときに持つべき心構えについて、イエスは繰り返し何と教えておられますか。マルコ13:35~37

ミニガイド

キリスト再臨のしるしについて論じる場合には、悲観的な話題にばかり心を奪われて、私たちを待ち受けている大いなる希望、すなわちキリストにある永遠の命を忘れることのないように留意する必要があります。

「新約聖書が永遠の命についての約束で満ちているのも不思議ではない(ヨハ6:54、10:28、ルカ18:30、ヨハ3:16、Iヨハ5:13、Iテモ1:16、ロマ6:22、テト3:7、など)。永遠のみが回復を保証するものだからである。100万年、いや10億年ですら、地上の悪を修復するには十分ではないだろう。永遠だけが万事を相殺することができる。無限は有限以上のものだからである。つねに、永遠にわたってそうである」(『アドベンチスト・レビュー』2002年2月28日、22ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年2期『マルコの見たイエス』からの抜粋です。

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