裏切りと逮捕【マルコ—マルコの見たイエス】#11

目次

この記事のテーマ

歴史のクライマックス

このシリーズの研究の最後の3回は、イエスの生涯の最大の危機である最後の72時間を扱っています。

これらの3回は互いに密接な関係にあって、それぞれは最後の結末に影響を及ぼす重要な出来事と決定を含んでいます。今回の研究では、ゲッセマネの園で格闘されるイエス、世のために“罪を負う者”となる苦悩と格闘されるイエスについて学びます。もしイエスがしり込みされるなら、私たちは永遠に失われます。

来週は、イエスの十字架について学びます。サタンはここで、策略の限りを尽くしてイエスを敗北させようとします。もしサタンが勝利するなら、私たちは永遠に失われます。

最後の研究では、イエスの死と葬りについて学びます。もしイエスの遺体がそのままの状態なら、彼の生涯と教え、彼の苦難と死はすべて無駄になり、私たちは永遠に失われます。人類の運命がかかっています。

裏切りの企て(マルコ14:1~11)

問1

マルコ14:3~9とヨハネ12:1~8を読んでください。ユダが出て行って、イエスを裏切ったのがこの事件の後であったのはなぜですか。これらの記事にもとづいて考えてください。

ユダの物語を読んで驚かされるのは、人間が簡単にだまされて、自分の行動を正しいと信じ込んでしまうことです。

問2

一部の弟子たちを怒らせたのはどんな問題でしたか。それは正当なことでしたか。

問3

マルコの記録によれば、ユダのほかにも何人かの者たちが香油を注ぐことをお金の浪費と考えています。不満を感じた者がほかにもいたという事実は、ユダが自分の怒りを正当化する助けになったと思いますか。

マルコ14章は、イエスを殺害しようとする宗教指導者たちの計略をもって始まります。次に、女の香油の一件があり、女の行為を見て心に怒りを覚えていた弟子たちに対するキリストの叱責があります。次に、ユダは宗教指導者たちのもとに行き、イエスを引き渡す約束をします(ルカ22:1~4参照)。マルコは聖霊の導きのもとで、ユダがイエスを裏切ったのは香油の一件のためであることを明らかにしています。シモンの家での出来事においても、ユダと宗教指導者たちのしたことの中でも、お金が重要な役割を果たしていることに注意してください。悪魔が私たちの弱点を用いて心を支配するよい例です(ルカ22:3)。

最後の晩餐(マルコ14:12―26)

教会が始まって以来、クリスチャンはイエスと弟子たちとの最後の晩餐を記念してきました。イエスが最後の木曜日の晩に12弟子と共に食事をしてからほぼ20年後、コリントのクリスチャンは、たぶん家の教会で、主の晩餐を祝うために集まっていました(Iコリ11:17~22)。パウロは手紙の中で、彼らが主の晩餐に関して陥っていた誤りを正そうとしています。今日、ほとんどすべてのキリスト教会が主の晩餐を守っていますが、その意義についての理解は教会によって大きく異なります。

問4

マルコ14:24、25を読んでください。イエスはここで何と言っておられますか。それは明らかに再臨についての言及ですが、イエスが御自分の死を前にして、再臨について語られたのはなぜですか。

イエスがここで、御自分の弟子たちだけでなく、私たちに対しても語っておられることに注意してください。この言葉には、弟子たち、そしてその血によって救われた私たちすべてに対してイエスが抱いている親近感、きずな、連帯感が表されています。「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(マタ26:29)。言い換えるなら、私たちが天国でイエスと共に飲むときに初めて、イエス御自身もお飲みになるということです。ほかならぬ神の御子がそのように言われるのです(ヨハ1:1~3、コロ1:16、17、ヘブ1:2)。何という優しい思いやり、愛でしょうか。

キリストがここで、御自分の流された血をすべてのものの中心に置いておられることにも注意してください。私たちがいつの日にか神の国でキリストにお会いし、キリストの血の象徴であるぶどうの実から作ったものを飲むことができるのは、この血のお陰です。キリストの流された血が救いの計画の中心であることを強調しない神学は、正しい神学とは言えません。

ペトロの離反(マルコ14:27~31、66~72)

イエスは、ユダが御自分を裏切り(マルコ14:21)、ペトロが御自分を否定すると予告されました(30節)。しかし、ユダもペトロもあらかじめ神によって離反するように定められていたわけではありません。神には、過去、現在、未来のことはすべて明らかです。神は将来の出来事を予見されますが、そのことは人間から選択の自由を奪うものではありません。イエスがユダとペトロの行為を予告されたのは、彼らが行うことを知っておられたからにすぎません。もし彼らがそのような選択をしなかったなら、イエスもこのような予告をされなかったはずです。

問5

ペトロはどこまでイエスに従うつもりだったのでしょうか。彼は本気でそう言ったと思いますか。マルコ14:27~31

私たちもペトロと似ています。すぐに、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言わないでしょうか(マルコ14:29)。ペトロは本気でそう言いました。私たちも本気で神に約束するのですが、しばしばペトロのように神を裏切ったことに失望し、落胆します。私たちはペトロの学んだ教訓、つまり約束が勝利を保証するものではないということを学ぶ必要があります。私たちは自分自身の力と知恵を忘れて、キリストに心から信頼することを学ぶ必要があります。もしペトロが自分自身よりも、キリストに目を注いでいたなら、結果は全く異なったものになっていたでしょう。

たとえ死なねばならなくなっても、決してイエスを知らないなどとは言わない、と主張したのは、ペトロだけではありませんでした(31節)。すべての弟子がそのように主張したのでした。ところが、都合が悪くなると、彼らは、「皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」のでした(50節)。ここでは、ペトロだけが取り上げられていますが、ほかの者たちもキリストに従うことの意味について学ぶべきことが多々あったはずです。

アッバ(マルコ14:32―42)

ゲッセマネの園は、イエスが好んで行かれた所でした。彼は群衆から離れて休息するために、しばしばそこに退かれました。しかしながら、今夜、この平安の場所が苦悶の場所になります。

各福音書に記されたゲッセマネの物語を注意深く読んでください(マタ26:36~46、マルコ14:32~42、ルカ22:39~46)。父なる神に嘆願するとき、キリストが“アッバ”という言葉を用いておられることに注目してください。これは親愛の情を表すもので、「お父ちゃん」と訳すことができます。このように、信じがたい苦しみ、父なる神から隔絶されるという意識の中でも、イエスはなお父なる神の愛に心から信頼しておられました。これは、全くの絶望の中にあっても、子どものような信仰を持ちつづけることの大切さを証ししています。

キリストが十字架上で直面されたことに関して、エレン・ホワイトは次のように述べています。「キリストはいマルコれまでとちがった態度をとっておられた。

……これまでキリストは、他人のために執り成すおかたであったが、いま主はご自分のために執り成してくれる者がほしいと望まれた。

キリストは、天父とのつながりが切れたと感じられたとき、人としてのご自分の性質では、きたるべき暗黒の勢力との戦いに耐えることができないと心配された。

……この戦いの結果を目の前にして、キリストの魂は、神からの隔離という恐れに満たされた。もしキリストが罪の世の保証人となられるならば、隔離は永遠のものとなり、キリストは、サタンの王国と一体となり、ふたたび神と一つになることがおできにならないであろうと、サタンはキリストに告げた」(『各時代の希望』下巻176、177ページ)。

問6

神の子として、私たちも“アッバ“と父なる神に叫び求めるべきであると、パウロは教えています。前後関係に注意して、ローマ8:15とガラテヤ4:6を読んでください。私たちが神を“アッバ“と呼ぶことができるのはどんなことのゆえですか。

イエスの逮捕(マルコ14:43~52)

ゲッセマネの園で、イエスは贖いの計画によって定められた運命に苦悩し、それを受け入れられました。彼が最終的に選ばれたのは、御自分の慰めではなく、人類の罪を負うこと、御自分の思いではなく、父なる神の御心を行うことでした。

問7

ユダはどんな卑劣な方法を用いて主を裏切ろうとしましたか。マルコ14:43~46

敵たちは確実な方法で捕らえたいと、人々に非難されないように真夜中にイエスの後をつけてきました。それでも、イエスが夜陰に乗じて逃げ出すのではないか不安でした。ユダは手はず通り群衆の先頭に立って行き、イエスに接吻します。原語には、群集が駆け寄ってすぐ捕らえることができるよう、ユダはイエスを抱きしめ、何度も接吻したことが暗示されています。

イエスが逃げ出す心配は無用でした。イエスはずっと前からこの時を予見し、この時のために準備し、苦悩に満ちた先の祈りにおいて決断を下しておられました。イエスは堂々と敵に相対し、逃げることも抵抗することもなさいませんでした。

問8

イエスが捕えられたとき弟子たちは逃げていきました。彼らが敗北したのはなぜですか。マルコ14:47~50

最後の晩餐の席で、イエスは来るべき試練について警告されました。特にペトロに対しては、サタンが特別に攻撃の対象にしていると警告されます(ルカ22:31~34参照)。しかし、ゲッセマネの園で、弟子たちは祈らないで眠っていました。試練がやってきたとき、弟子たちは暴力に暴力で対抗しようとし、ペトロは剣を振り回します(ヨハ18:10、11)。弟子たちは主を理解していませんでした。主の国はこの世のものではなく、暴力とは無縁のものでした。弟子たちの空しい、世的な努力は失敗し、みな逃げ出します。

ミニガイド

「恐るべき瞬間がきていた。それは世の運命を決定する瞬間であった。人類の運命ははかりでゆれていた。キリストは、不義な人類に課せられた杯から飲むことをいまでも拒否することがおできになった。まだ遅くなかった。……神のみ子は、屈辱と苦悩のにがい杯を飲まれるだろうか。罪なきおかたが不義な者を救うために罪の行為の結果を受けられるだろうか。イエスの青ざめたくちびるから、『わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように』とのことばがふるえながらもれる(マタイ26:42)。

三度、イエスはその祈りを口にされた。三度、人性は最後にして最高の犠牲の前にひるんだ。しかしいま人類の歴史が世のあがない主の前に現われる。律法を犯した者たちは、放っておけば滅びなければならないことを、主はお知りになる。主は人類の無力をさとられる。主は罪の力をお知りになる。滅びる運命にある世のわざわいと嘆きが主の前に現われる。主は、世のさし迫った運命を見て決心される。ご自分がどんなに犠牲を払ってでも、主は人類を救おうとされる」

(『各時代の希望』下巻182、183ページ)。

「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(ルカ22:44)。「どうかこの杯をわたしから取り除けてください」という御子の嘆願は聞き入れられませんでした。「わたしの思いではなく、御心のままになさってください」という父のみ心とは何であったのでしょう。「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ」(イザ53:10)。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言われたお方を砕くことが父のみ心とは!人類救済のためには「他に道がない」からです。ゲッセマネの園で父は御子以上に苦しまれたのです。私たちの救いは父と御子のこの苦しみの結果もたらされたものなのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年2期『マルコの見たイエス』からの抜粋です。

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