この記事のテーマ
私たちには、「人間は罪深い」という単純な事実がつきまといます。時に私たちは「専門家」たちが、人間の堕落というキリスト教思想を嘆くのを耳にします。しかし、日々のニュースを見、人類史を少しでも調べれば、このキリスト教の教理が真実であることは明らかです。
あるいはもっと簡単な方法として、(ある意味恐ろしい場所でもある)鏡の前に立って見ることです。そこで自分の心の奥深くにあるものを探り続ける勇気のある人がいるでしょうか。そうすれば、ローマ3:9~23が真実であることがわかるでしょう。その最後の節は次のように告げます。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(23節)。
もちろん、良き知らせが次の節に続きます。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ3:24)。この大いなる知らせの非常に重要な点は悔い改めにあります。悔い改めとは、自分の罪を知り、罪を悲しみ、神に罪の赦しを願い求め、最終的にその罪から離れることです。私たちは罪深い存在ですから、悔い改めは私たちのクリスチャン経験の核心とも言える思想です。今週私たちは、申命記に示されている悔い改めについて学びます。
ミー・イッテン
他の言語と同じように、聖書のヘブライ語にも慣用句がちりばめられています。慣用句とは、その言葉が本来の意味とは異なる意味に用いられるものです。旧約聖書の慣用句の一つに「ミー・イッテン」があります。「ミー」は疑問詞の「誰が」であり、「イッテン」は「与える」を意味しますから、「ミー・イッテン」は字義通りだと、「誰が与えるのか」ということです。
しかし旧約聖書において、この表現は、願い、願望、そして誰かがひどい扱いを受けることを望むことを意味します。
たとえば、エジプトから脱出したイスラエルの子らが荒れ野で試練に遭ったときに、「主の手にかかって死んでいたら良かった」(出16:3、口語訳)と叫びました。この「……のほうが良かった」が、慣用句としての「ミー・イッテン」なのです。
詩編14:7の「どうか、イスラエルの救いがシオンから起こるように」というダビデの願望には、「ミー・イッテン」が使われています。ヨブ記6:8の、「ああ、私の願いがかなえられ」(新改訳)も「ミー・イッテン」です。
問1
申命記5:22~29を、29節に注意して読んでください。主の願いに「ミー・イッテン」が用いられていることには、どのような意味がありますか。
ここに、宇宙、時、物質をお造りになったお方、み言葉をもってこの世界を存在させられたお方、アダムに命の息を吹き入れられたお方である創造主なる神が、弱さと限界を持つ人間がよく口にする「ミー・イッテン」を用いて、願いを表現しておられます。これは自由意志の存在を示す実例です。ここに私たちは、大争闘のただ中で、神がおできにならないことがあるのを見るのです。この「ミー・イッテン」は、神でさえ、〔人間の〕自由意志を踏みにじることができないことを示しています。たとい一瞬でも神が人間の自由を踏みにじられるなら、そこにはもはや人間の自由が存在しません。
私たちには、罪を犯す自由があるのと同じように、主を選ぶ自由、主の導きに従うことを選ぶ自由、聖霊の声に応えることによって罪から離れ、主に従うことを選ぶ自由があるのです。最終的に、選択は私たちのもの、私たちだけのものであり、それは日々、一瞬一瞬の選択を意味するのです。
わたしを求めよ、そうすれば見いだすであろう
聖書全体を通して私たちは神の先見性の証拠を見ることができます。神はそれらが起きる前にすべてのことを見通されます。世界帝国の興亡であれ(ダニ7章)、一個人の数時間後の行動であれ─「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(マタ26:34)─主は初めから、その終わりを見通されます。神の先見性に例外はなく、人間の選択の自由についても、その結果をご存じなのです。
ですから主は、イスラエルの子らを約束の地に導き入れる前に、彼らがその地で何をするかをすでにご存じでした。
問2
申命記4:25~28を読んでください。主は、彼らが約束の地に入った後にすることを、あらかじめどのように語っておられましたか。
その数節前に神は、特に彼らに偶像を造らないよう、それらを拝まないように命じておられます(申4:15~20)。すべてこれらの警告の後にもかかわらず、神は続く節で彼らが偶像を造り、それを拝むことを予告されます。
申命記4:25でモーセは、それらの行為はすぐには起こらないと明言していることに注目してください。彼らが過去に経験してきたと同じように、すぐに偶像礼拝に陥りはしません。しかしながら、時が流れ、世代が変わると人は「忘れて」しまうのです(申4:9)。主が彼らのために語られたこと、主が彼らに警告されたことが、正確に彼らの上に実現します。
問3
申命記4:29~31を読んでください。特にこの場面で、主は彼らに何をするとお告げになりますか。
神の恵みは驚くべきものです。彼らがいまわしい偶像礼拝の罪に堕ち、その罪の恐ろしい結果を身に受けた後でさえ、主に立ち帰るなら主は彼らを赦し、回復されるのです。要するに、彼らが正直に悔い改めるなら、主は彼らの悔い改めを受け入れてくださいます。
申命記4:30のみ言葉は、しばしば〔英語訳聖書では〕「向きを変える」(turn)と訳されますが、正確には「帰る」(return)ことを意味します。つまり、彼らが常にいるべきであった場所、主のもとへ帰るということです。「立ち帰る」と同じ語根を持つヘブライ語の「テシュヴァ」には、「悔い改める」という意味があります。ですから、悔い改めの本質は、罪によって引き離されていた私たちが、神のもとに立ち帰ることなのです。
テシュヴァ
申命記を通して鍵となるテーマは、主に従って祝福を受けよ。従わないならあなたはその結果に苦しむであろう、とのメッセージです。このテーマは新約聖書においても変わりません。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」(ガラ6:7、8)。
不幸にして、少なくとも人類の堕落以降、罪は、人間にとって息をすることのように簡単で自然なことになりました。そして、「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」(申30:11)という神の警告と約束にもかかわらず、多くの人々は、神が彼らに警告された通りのことを行い、罪に堕ちたのです。
しかしなおも、その後でさえ神は、彼らが自由意志を用いて悔い改め、神に立ち帰ることを選ぶなら、喜んで彼らを連れ戻そうと待っておられるのです。
問4
申命記30:1~10を読んでください。彼らが犯したすべての過ちにもかかわらず、主はその民のために何を約束しておられますか。しかし、それらのすばらしい約束にはどのような条件がありますか。
これらの約束とその条件は単純で率直です。従わなければ恐ろしい結果があなたとその家族に臨む。それが罪の仕業です。しかしそれでも、あなたは悔い改めることができ、主はあなたを連れ戻し、祝福してくださるのです。
この聖句の中には「テシュヴァ」と同じ語根を持つヘブライ語が多数見られます。申命記30:2では、「主のもとに立ち帰り」、同30:8には、「あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い」とあり、同30:10には、「心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである」とあります。
言い換えれば、すべて彼らに起きたこと、契約に対する彼らの完全な違反にもかかわらず、主はこの民と関係を断っておらず、もし彼らが関係を断ってほしくないと望むなら、その願いを悔い改めによって表すことができるのです。
心を尽くし
申命記30:1~10は、背信者や罪人への神の恵みと慈しみ、とりわけ、彼らが独特な方法で神から祝福されることについて記しています。「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか」(申4:7)。神が彼らのためにされたすべてのことにもかかわらず、また、彼らに罪の弁解や正当な理由がないにもかかわらず、とにかく彼らは罪を犯したのです。しかし、そのような時でさえ、どうだというのでしょうか。
問5
申命記30:1~10に表された彼らの悔い改め、神への立ち帰り(テシュヴァ)には何が求められていますか。この真の悔い改めの条件は、今日の私たちに何を教えていますか。
最終的に、彼らは心を尽くして神に立ち帰り、神に従うことを選ばねばなりませんでした。ある意味、真の問題は彼らの心にあったのです。彼らの心が神と共にあれば、その行いは心に従うでしょう。それこそが彼らが示すべき服従なのです。
そのために、彼らが心を尽くして主に立ち帰るなら、神は彼らの内に働いて、彼らの心に「割礼」を施してくださるとのすばらしい約束が与えられたのです。彼らは捕囚のただ中にあって、神に立ち帰ることを選ばねばなりませんでした。その時、神は彼らをご自身のもとに、そして約束の地に連れ戻してくださるのです。神はそこで、約束の地で彼らを祝福してくださるのです。そしてその祝福の一部として、神は彼らの内に働いて、彼らの心を変え、神に向けさせ、彼らと彼らの子孫とが、「心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」のです(申30:8)。
こうして彼らは、神の促しに応えて(使徒5:31参照)、彼らの罪を真に悔い改めるのです。歴史的文脈は異なりますが、エレン・G・ホワイトは次のように書いています。「人々は、罪を犯して苦しみにあったことを悲しんだのであって、神の聖なる律法を犯して、神の栄えを汚したことを悲しんだのではなかった。真の悔い改めは、罪について悲しむだけではない。それは、罪悪から断固として離れることである」(『希望への光』290ページ、『人類のあけぼの』下巻204ページ)。これが、私たちが申命記30:1~10に見ることができる真理なのです。
悔い改めて回心せよ
悔い改めという考えは、もちろん新約聖書にも溢れています。バプテスマのヨハネの宣教は、悔い改めへの招きで始まりました。
問6
マタイ3:1~8を読んでください。この聖句には申命記の「立ち帰る」という考えがどのように反映されていますか。彼の言葉は、なぜ特にファリサイ派やサドカイ派の人々に向けて語られたのでしょうか。
イエスもまた、悔い改めへの招きをもって宣教の働きを始められました。
問7
マルコ1:15を読んでください。イエスはここでなぜ、悔い改めと福音を結びつけているのでしょうか。
ヨハネは宗教指導者たちに向けて語り、イエスはユダヤ民族全体に対して語っていますが、そのメッセージは同じです。私たちは罪人です。キリストは私たちを罪から救うために来られました。しかし、私たちは罪を悔い改めねばなりません。そして、背信者であろうと、罪に陥った忠実なクリスチャンであろうと、新しい回心者であろうと、その悔い改めは、まず自分の罪深さを知り、それらの罪の悔い改めを言い表し、それらの罪から離れることを良心に従って選ばねばなりません。そして、イエスの功績に全面的に頼ることによって「あなたの神、主の御声に必ず聞き従」うのです(申15:5)。
ある聖書学者たちは、新約聖書の中には申命記の悔い改めの思想が繰り返されていると考えます。たとえば、ペトロがイエスを十字架につけたユダヤ民族を叱責したとき、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」(使徒2:37)とあります。彼らは罪を自覚し、それらを悲しみ(「心を打たれ」)、彼らが逆らってきた神に対して正しくあるために何をすべきか知りたがったのです。
これは、神に敵対してきた罪人である私たちすべてが置かれている状況と全く同じではないでしょうか。
さらなる研究
「クリスチャンの経験が進むにつれて、悔い改めも深まっていく。『その時あなたがたは自身の悪しきおこないと、良からぬわざとを覚えて、その罪と、その憎むべきこととのために、みずから恨む』と主が言っておられるのは、主がお赦しになった人々、すなわち主がご自分の民としてお認めになった人々に対してである(エゼキエル36:31)。『わたしはあなたと契約を立て、あなたはわたしが主であることを知るようになる。こうしてすべてあなたの行ったことにつき、わたしがあなたをゆるす時、あなたはそれを思い出して恥じ、その恥のゆえに重ねて口を開くことがないと、主なる神は言われる』とおおせになる(エゼキエル16:62、63)。その時、わたしたちは、口を開いて、自己をほめない。わたしたちのこうした力は、ただキリストによって与えられることを悟る。そして使徒パウロの告白をわたしたちの告白とするようになる。『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている』(ローマ7:18)。『しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである』(ガラテヤ6:14)」(『希望への光』1246ページ、『キリストの実物教訓』140、141ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2021年4期『申命記に見る現代の真理』からの抜粋です。