この記事のテーマ
【中心思想】
『ヘブライ人への手紙』の受取人は、保証と確実性と確信を必要としていました。著者は、それらをどこに見いだすことができるかを彼らに示します。
たいていの人は自分の人生にある程度の確実性と保証を求めています。飛行機がどこにも異状がなく、十分整備され、パイロットの腕も確かであるという保証がなければ、だれもその飛行機には乗らないでしょう。医師の資格を持っているという保証がなければ、だれもその医者にかからないでしょう。当分は倒産しないという保証がなければ、だれもその会社に就職しないでしょう。人はみな、程度の差こそあれ、日常のあらゆる事柄において、ある程度の保証を必要としています。
人生の最も重要な問題である神との関係においては、なおさらそうです。
キリストに連なる者
新約聖書のほかの書巻と同様、『ヘブライ人への手紙』は神との関係について確信を与えてくれるものです。確信はこの手紙の重要なテーマです。それもそのはずです。結局のところ、私たちは罪人であって、毎日、自分自身の弱さや欠点と闘っているのです。救いと受容の確信がなければ、最後まで信仰を持ち続ける人などいないでしょう。
次の聖句はキリストにある救いの確信について何と教えていますか。ヘブ3:14、ヘブ6:18、ヘブ9:28
特に、私たちが「キリストに連なる者」(ヘブ3:14)とされているという事実は、私たちの生き方をどのように変えますか。
イエスが「人々の罪を清められた」ゆえに(ヘブ1:3)、また私たちのために「永遠の贖いを成し遂げられた」ゆえに(ヘブ9:12)、私たちは、たとえ罪人であっても、神によって受け入れられます。このように、私たちが救いの確信を与えられているのは、自分自身の功績によるのではありません。むしろ、神が、御子、私たちの王、兄弟、いけにえ、大祭司なるイエス・キリストにおいて成し遂げてくださった御業のゆえです。
「クリスチャンは聖とされ、聖別され、完全な者とされ、清められ、浄化されている。これらの用語はみな聖所とその儀式に関連している。彼らは今でさえ神の民である。彼らはいま『清く』、いま神に近づくことができ、いま良心を清められており、いまイエスを天の大祭司として持つ」(ジョンソン『絶対的確信をもって』155ページ)。
今日の確信
これまでは、キリストに連なる者とされた人たちに与えられている約束について学びました。これらの約束の大部分は、過去に関するものでした。キリストが今、私たちのためにしてくださっている働きに関して、聖書は何と言っているでしょうか。
イエスは今日、御自分の子らのために何をしておられますか。ヘブ2:18、ヘブ4:15、ヘブ7:25
過去になされたイエスの御業に関する聖句は、私たちの救いの様々な側面を描写しています。対照的に、今日の聖句は現在の生活における実際的な側面を含んでいます。もちろん、これもイエスの大祭司としての働きによるものです。
イエスは私たちのために執り成してくださいます。彼は私たちに同情し、優しく扱ってくださいます。私たちが人間として苦しむように、イエスも人間として苦しまれました。このように、イエスは人間として、苦しみの中にある私たちに接してくださいます。しかし、イエスは決して罪に屈服することがありませんでした。それゆえに、彼は私たちに罪に勝利する力をお与えになることができるのです。
私たちは確信と希望と平安を持つことができます。なぜなら、イエスが私たちの罪のために死に、罪の代価を払ってくださったこと、また今、私たちのために天で仕え、私たちの功績ではなく御自身の功績をもって父なる神に執り成しておられることを知っているからです。もっと確信について語りましょう。
しかし、だからと言って、私たちはこの世で全く苦しみに遭わないわけではありません。
その他の約束
『ヘブライ人への手紙』には、希望と約束で満ちた聖句がいくつも含まれています。次の聖句に与えられている約束はあなたにとってどんな意味を持ちますか。そこに含まれている希望はあなたの信仰をどのように強めてくれますか。ヘブ4:3、ヘブ4:16 、ヘブ8:10~12、ヘブ10:22、ヘブ12:28、ヘブ13:5、6
ヘブライ10:22を注意深く読んでください。そこには「信頼しきって」と書かれています。それは、「絶対的な確信をもって」「完全に信頼して」という意味です。そこには、全くためらいがありません。私たちは、神の約束が必ず実現すると心から信じきって、神に近づくべきであると、使徒は言っています(23節には、「約束してくださったのは真実な方なのですから」とあります)。私たちがこのように「信頼しきる」ことができるのはなぜでしょうか。その答えは前の3節にあります。すなわち、イエスが、ご自身の死によって新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです(ヘブ10:19~21参照)。
確信と保証
『ヘブライ人への手紙』においては、確信と保証の思想がやや異なった意味を持ついくつかのギリシア語を用いて表現されています。
“プレーロフォリア”――完全な信頼、信念、確実
“パレーシア”――大胆、確信、信頼
“ヒュポスタシア”――確信、信頼、信念
“タレオー”――勇気に満ちて、大胆に振舞う、確信する
“アスファレース”――安全、確実
次の各聖句は「確信」について何と述べていますか。ヘブ3:14、10:35、ヘブ4:16、10:19、ヘブ6:11、ヘブ10:22、11:1
これらの聖句は四つのグループに分類されます。第1のグループは、私たちが確信をもって神に近づくことができることを強調しています。私たちは天の聖所の恵みの御座に近づくことができます。私たちは洗い清められています。障壁は取り除かれています。恐れに代わって、確信が私たちの心を満たします。
第2のグループは確信と希望を一つに結びつけるもので、最後まで忠実に従い、約束のものを受けるまで忍耐するように勧めています。
第3のグループは確信と信仰を一つに結びつけています。私たちが、たとえまだ見ていなくても、キリストの現在と将来の御業に確信を抱くのは信仰によってです。信仰は希望、確信、信頼と切り離すことのできないものです。
最後のグループは、確信を堅持し、途中で捨てないように勧めています。
信仰と確信
『ヘブライ人への手紙』の中に、「信仰」〔忠実〕という語が(いろいろなかたちで)何度も出てきます。それはまとまって出てきます。最初の例は、イエスが「忠実な」大祭司と呼ばれている2:17です。次の2章は信仰について述べています。ほかにも6章と、信仰の勇者について語っている10章の終わりから11章をあげることができます。中でも、11章は最も明瞭かつ組織的に信仰について教えています。
11章の最初の10節を読み、それらを10:19~23、35、38、39と比較してください。これらの聖句の要点は何ですか。それは『ヘブライ人への手紙』全体のテーマとどのように一致しますか。
『ヘブライ人への手紙』の中では、信仰と確信の思想は一つに結びついています。私たちは行いによってではなく、信仰によって救われます。したがって、信仰をもって主に従っている限り、私たちには信仰によって与えられる救いの確信があります。
興味深いことに、ヘブライ4章には、決断して、信じるようにという招きが含まれています。しかしながら、この手紙は非クリスチャンではなくクリスチャンに宛てられています。このように、『ヘブライ人への手紙』においては、信仰は単にイエス・キリストを救い主として受け入れる行為だけを指すのではありません。信仰は実際的なものです。それは私たちを確信と希望に導くと同時に、日ごとの生活にも影響を与えます。
一方、著者はヘブライ10:35で、確信を捨ててはならないと教えています。そのためにはどうしたらよいでしょうか。信仰をもって忍耐することです。忍耐する人は約束されたもの(36節)、すなわちイエスの再臨(37節)と最終的な救い(38、39節)にあずかります。
まとめ
信仰と保証は互いに関連があります。信仰によって私たちは、キリストの約束を把握します。それは私たちにさらにすぐれた希望を保証します。
「キリストの犠牲はクリスチャンに二つの大いなる事実を保証する。第1に、罪の問題を解決する御業がなされていることである。クリスチャンは罪から清められるために、半狂乱になり、もがき、努力し、背伸びし、飢え、渇き、悩み、説き伏せる必要がない。一度限りの一つの犠牲によって、神は罪を完全に解決された。私たちの行いはそれに何かを付け加えることも、それから何かを減らすこともできない。カルバリーは罪を取り除くことに関して絶対的な確信を与えてくれる。
第2に、カルバリーは私たちが完全に神の御前に近づくことができるという保証である。何者であろうとも、私たちはイエス・キリストのものである。神殿の門は広く開け放たれている。信じる者はみな、ためらうことなく、堂々と、そこに入ることができる」(ジョンソン『絶対的確信をもって』118ページ)。
「私たちにはおいでになった救い主の保証がある。救い主は十字架につけられ、復活し、開かれたヨセフの墓の上で、『わたしは復活であり、命である』と宣言された。イエスとその愛を知る私たちにとって、神の国は私たちのうちに置かれている。……私たちは神の使者たちによって、キリストの義、信仰による義認、御言葉に与えられたこの上なく尊い神の約束、イエス・キリストによって父なる神に近づくこと、聖霊の慰め、神の国における永遠の命の約束という豊かな祝宴にあずかっている。大いなる晩餐、天の祝宴を準備するにあたって、神はほかに何がおできになったであろうか」(エレン・G・ホワイト『レビュー・アンド・ヘラルド』1899年1月17日)。
『心、品性、人格』(英文)第2巻531ページ、『神の息子・娘たち』(英文)287ページ、ヘブライ11章を読んでください。
ミニガイド
『ヘブライ人への手紙』の中のキリスト(8)―信仰の創始者/完成者
『ヘブライ人への手紙』は、第一義的には、すでに神との関係に入っている人々(クリスチャン)に対して与えられています。しかし、クリスチャンといえども、確信が弱り、希望を失いそうになることがあることを、この手紙は教えています。「忍耐」と「信仰」が強調されていることからも、それがうかがえます。
「忍耐」という言葉には、元々、「自分の場所に固く立つ」という意味があります。困難や失望にすぐにめげない心の態度です。また「背後にとどまる」という意味もあります。勝機が訪れるまで、じっと待つ根気です。昔、三育学院を卒業後、出版部のお手伝いをさせていただいていた時期に、短期間ですが北海道の旭川で働いたことがありました。冬のある朝、教会の前の花壇に積もった雪をシャベルで除いていたとき、ハッとしました。雪の下になんと緑の葉をつけ、赤い花を咲かせた植物が出てきたのです。その時の感動は今も忘れません。思わず、「しのびて春を待て、雪はとけて花は咲かん」という讃美歌291番が心に浮かんできました。
しかし、信仰者のこのような特質は、単なる頑張りによって身につくのではありません。それは、『御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった』お方を見上げることによって、見上げ続けることによってのみ与えられるものです(ヘブライ12:2下句)。
『ヘブライ人への手紙』が書かれた数年後に、エルサレム神殿は崩壊するのでした。人々が最も確実だと考えていたものが崩れ去ったのです。しかし、その時、彼らはパウロの勧告によって慰めを与えられたのです。
現代に住む私たちも不確実の時代、不確実の世界に生きています。だからこそ、確実なお方にしっかりと信仰のまなこを注いでいきたいものです。「自分に望みがあるのではなく、キリストに望みがある」(『キリストへの道』88、89ページ)ことを覚え、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見つめながら」忍耐強く信仰の戦いを走りぬきたいものです(ヘブ12:2)。
*本記事は、安息日学校ガイド2003年3期『聖所のテーマーヘブライ人への手紙』からの抜粋です。