【ヘブライ人への手紙】イエスとクリスチャンの歩み【聖所のテーマ】#12

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この記事のテーマ

【中心思想】

『ヘブライ人への手紙』は、天のことがらを扱う一方で、この世の事柄についても教えています。

ヴィクトリア女王がまだ幼少だった頃、自分がイギリスの王位を継承することを知りませんでした。王女の教育係たちは彼女を将来の役割に備えさせようと努めましたが、王女は真剣に勉強しようとはしませんでした。そこで教育係たちは、彼女がいつかイギリスの女王になるのだと、はっきり教えることにしました。それを聞いた王女は静かに、「これからはいい子にするわ」と言いました。王位を継承すると認識したときに、責任感が生まれ、それが王女の行動を大きく変えたのでした。

イエスは私たちのために最高の犠牲を払われました。そして今、天の聖所で私たちの大祭司として働いておられます。私たちは天国を約束されています。これらの素晴らしい真理は、私たちが高尚な召しにふさわしく生きる上で最高の動機となるものです。

よそ者また仮住まいの者

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(ヘブ11:13)。

上記の聖句を文脈にそって注意深く読んでください。特に、忠実な者たちに対して用いられている「よそ者」と「仮住まいの者」〔英語欽定訳では「巡礼者」〕という言葉に注意してください。これらの言葉は何を連想させますか。クリスチャンはどんな意味で、地上において「よそ者」また「仮住まいの者」であるべきですか(ヨブ8:9、ヤコ4:14参照)。同時にどんな意味で、私たちは「よそ者」また「仮住まいの者」であってはならないでしょうか。

巡礼者とは、自分の家や国を離れて、旅に出る人のことです。彼らは一時的に、あるいは永久に、日常の活動、家族、友人から離れます。彼らは、罪からの清めという明らかな目的を持ち、その目的を達成するために進んで困難に耐えます。

しかしながら、巡礼という思想はしばしば行いによる救いにともなう最も苦しい経験を連想させます。『ヘブライ人への手紙』に教えられているのは、これとは異なる巡礼です。ここに教えられている巡礼者は救いを求めている人たちではありません。彼らはすでに救いにあずかっているのです。イエスは、「多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げ」(ヘブ9:28)、「永遠の贖いを成し遂げ」(12節)、そして「今やわたしたちのために神の御前に現れてくださった」のです(24節)。したがって、彼らの巡礼は救いを見いだすためのものではありません。彼らはすでに救われているので、主が行けと命じられたところには、どこであっても従うのです。

クリスチャンと主(ヘブル12:25)

『ヘブライ人への手紙』が背信に対して強い態度を取っているのはなぜですか。次の聖句は背信に関して何と述べていますか。ヘブ6:4~9、ヘブ10:26~29、ヘブ12:25   

これらの聖句において、使徒は多かれ少なかれ同じ問題について述べています。つまり、教会員の中には堕落して、再び悔い改めに立ち帰ることのない者たちが出てくるかもしれないということです。使徒は強い調子で、直接的・間接的に、キリストに従うように彼らに訴え、背信の危険性について警告しています。

ウィリアム・ジョンソンはこれらの聖句に共通する要素として次の五つの点をあげています。(1)特権、(2)違反、(3)結果、(4)裁き、(5)神の拒絶。『ヘブライ人への手紙』の著者は、「単なる徐々の背信や拒絶ではなく、福音に対する故意の拒絶について述べているように思われる。彼はこれらの聖句において最も厳しい警告を発している。それは新約聖書の中でも最も厳しいものである。……使徒は理不尽な拒絶について、また主イエスに対する明らかな反抗について描写している。ここには、怠慢や弱さによる罪の暗示はない。……『ヘブライ人への手紙』が熱情的な言葉で十字架を賞賛し、十字架の持つ最高の価値を強調していることを考えると、それが故意の拒絶の恐ろしさを指摘しているとしても不思議ではない」(ジョンソン『絶対的確信をもって』143,145~148ページ)。

ヘブライ6:4~6は重要な問題を提起します。というのは、ひとたび神の救いの力と素晴らしさを知りながら、その後に堕落した人は再び救われることはないと、これらの聖句が教えているように思われるからです。このことは、たとえばルカ15:11~32にある放蕩息子のたとえや、背信者に悔い改めを求めるその他の多くの聖句に照らして、どのように解釈したらよいでしょうか。

主は聖書の中で繰り返し、背信した人々に御自分に立ち帰るように訴えておられます。主は彼らが、背信から立ち帰るのを熱望しておられます。

クリスチャンと社会

『ヘブライ人への手紙』はキリストと天の聖所におけるキリストの働きに焦点を当てています。しかし、このことには人間的な要素も含まれます。また、そうでなければなりません。

私たちがキリストの死と大祭司としての働きを通して与えられている確信と希望と約束は、必然的に、私たちの生き方、毎日の人間関係に影響を与えるものです。『ヘブライ人への手紙』は高度に神学的で、文字通り天上の事柄を扱ってはいますが、それはまた11章に描かれているように、信仰生活を送っている人たちの品性と生活にもかかわりがあります。事実、11章に描かれている信仰者の記録を見れば、信仰がどれほど個人の行動に大きな影響を与えるかがわかります。

ヘブライ12:14、13:1~5、16、17を読んでください。使徒は何と勧めていますか。どのような人間関係について語っていますか。

ヘブライ12:14と、山上の説教に見られるキリストの言葉との共通点に留意してください。マタイ5:9によれば、クリスチャンは争いや戦いを避けるだけでなく、平和を実現するために積極的に働くべきです。このようにして、私たちは社会に奉仕し、社会を改善するために働くことができます。私たちは社会とかかわりを持つ必要があります。私たちはこの世にあって、よそ者であり、仮住まいの者ですが、それでもなおこの世にあって自分の足跡を残し、光を輝かす必要があります。

使徒はまた、もてなしについて教えています。これは信仰仲間に限られたことではありません。クリスチャンは社会から取り残された人々、見捨てられた人々、虐待されている人々を援助すべきです。イエスも地上でそのようにされました。

クリスチャンの共同体

「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか」(ヘブ10:25)。

ヘブライ10:19~25は、天におけるイエスの働きが地上にまで影響を及ぼすことを教えています。思想の流れを見てみましょう。まず、19~21節で、天におけるイエスと、イエスの御業のおかげで私たちが天の父に「近づく」ことができるようになったことが強調されています。

第2に、キリストの御業の結果として、心が変えられます。イエスによる約束と希望が与えられているからです(22、23節)。最後に、イエスのゆえに、私たちの生き方は変わります。私たちは人々に仕え、キリストにおいて与えられているものを証しするようになります(24、25節)。

このように、著者の関心は天におけるキリストから地上におけるクリスチャンの共同体へと移っています。

次の各聖句はクリスチャンの共同体についてどんなことを教えていますか。ヘブ13:1~3 、ヘブ13:7、17、ヘブ13:18       

キリスト教会は一つの家族のようなものです。新約聖書の時代においてはすでに、クリスチャンは互いに兄弟・姉妹と呼び合っていました。彼らは「神の家族」でした(エフェ2:19)。家族は互いに思いやり、励まし合い、時には成長を促すために互いに批判し合います。

迫害や離散といった特別な場合を除けば、だれも孤立した状態でクリスチャンであることはできません。イエスが教会を建てられたのは、私たちがだれかと交わり、友情を育み、霊的賜物を養い、共に再臨の主にお会いするためです。

結婚と金銭

「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました」(ヘブ13:4、5)。

ヘブライ13:4は何について教えていますか。

ここで、使徒は結婚の重要性と神聖さを強調し、性欲の誤用について警告しています。「この制度に関する神の原則を認めてそれを守るとき、結婚は祝福となる。それは人類の純潔と幸福を保護し、その社会的な必要を満たし、身体的、精神的、道徳的性質を向上させる」(『アドベンチスト・ホーム』16ページ)。

「みだらな者」と「姦淫する者」は異なる人たちをさしているように思われます。姦淫する者は配偶者以外の人と性的関係を持つ既婚者をさし、みだらな者はほかの人と性的関係を持つ未婚者をさしているように思われます。

もう一つの誘惑はお金です。使徒はヘブライ13:5で金銭と財産の問題に関してどんな重要な勧告を与えていますか。それは金銭の誘惑からどのように守ってくれますか。

金銭に執着すると、人はとんでもないことをしでかします。よくよく警戒していないと、クリスチャンといえどもイエスの言われた「富の誘惑」(マコ4:19)に飲み込まれてしまいます。

ある兄弟がイエスに遺産をめぐる争いの仲裁を頼んだ時、イエスは「どんな貪欲にも注意を払」うようにと言われました(ルカ12:15参照)。これらの言葉には特に注意を払うべきです。自分の持ち物によって人生の価値や質を評価しがちだからです。

まとめ

この地上は、私たちの最終的な目的地ではありませんが、私たちの今現在の生活の場です。そして神は、私たちがこの地上の人生において、イエス・キリストにあって与えられている高い召しにしたがって生きるように期待しておられます。

『フィリピの信徒への手紙』に記されたパウロの生涯について学び、彼の生き方と教えがとどのように調和するか考えてください。

古代マケドニアのアレクサンダー大王の軍隊に、同じくアレクサンダーという名の男がいました。この男が小心な行為をとがめられ、王の前に引き出されてきました。王は男の名前を尋ねました。男は小さな声で、「アレクサンダー……と申します」と答えました。王は言いました。「聞こえないぞ」。男は少し大きな声で、「アレクサンダー……でございます」と答えました。同じことがもう一度繰り返された後で、アレクサンダー大王は言いました。「お前の名前を変えるか、お前の態度を変えるか、どちらかにせよ!」。

「この世においてキリストの救いにあずかった者たち、天において御国の栄光にあずかりたいと願う者たちはみな、キリストに協力しなければならない。各自は自分自身の救いと他人に及ぼす影響に対して責任を負う。もし彼らがクリスチャンとして歩み続けるなら、イエスは彼らのうちで栄光の望みとなり、彼らは喜んでイエスを賛美するようになる。……主の目的は彼らにとって身近で、尊いものとなる。主の目的を推進し、清い生き方によってそれを尊ぶことが彼らの研究事項となる。天使は言った。『神はすべてのタラントンに利息を要求される』。すべてのクリスチャンはますます力をつけ、すべての能力を神の目的のために用いなければならない」(『教会へのあかし』第1巻179ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年3期『聖所のテーマーヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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