この記事のテーマ
イエスはマタイ15:24において、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と明言しておられます。間違いなく、キリストの地上での働きは、おもにイスラエルの民に向けられていました。
しかし聖書全体が示しているように、イスラエルは、神が気にかけておられる唯一の民ではありませんでした。神がイスラエルを選ばれたのは、彼らを通して地上のすべての民を祝福するためでした。「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために」(イザ42:5〜7)。
神が全世界に救いの手を差し伸べるのは、イスラエルを通して、より厳密にはイスラエルから起こるメシアを通してでした。私たちは今回、救いを必要とするすべての人に手を差し伸べる主について少し考えます。
空腹な者たちへの給食
イエスの最もよく知られた行為の一つは、「女と子供を別にして」(マタ14:21)5000人に食べ物を与えたことです。しかしこの物語も、新約聖書のほかのあらゆることと同様、その背景を理解するならば、イエスのなさったことの意味をもっと深く知ることができるでしょう。
問1
マタイ14:1〜21を読んでください。この奇跡的な給食の直前に、どんなことが起きましたか。その出来事は続いて起こったことと、どのように関係していた可能性がありますか。
当時の弟子たちの立場にあなた自身を置いてみてください。明らかに神の人であったバプテスマのヨハネは、首を切り落とされたばかりでした。聖書には記されていないものの、この出来事は彼らを信じがたいほど落胆させたに違いありません。きっと彼らの信仰は試されたでしょう。しかし、イエスが次になさったことは、失望させられた彼らの信仰をとても励ましたに違いありません。
しかし、給食がどんなに弟子たちの信仰を高めたにしても、この物語にはもっと深い意味があります。ユダヤ人への給食というイエスの行為は、神が荒れ野でイスラエルの人々に与えたマナをすべての人に思い出させました。「ユダヤ教の中に、メシアは過越祭のときにやって来て、彼の到来とともにマナが降り始めるだろうという言い伝えが生まれた。……だから、イエスが過越祭の直前に5000人を養われたとき、彼はメシアではないか、彼はさらに大きな奇跡を起こそうとしている——マナを復活させて、すべての人を常に養ってくれる——のではないかと群衆が思い始めたとしても、不思議ではなかった」(ジョン・ポーリーン『ヨハネ』139、140ページ、英文)。
これこそまさに、人々が望んでいたたぐいのメシア、彼らの外的必要に気を配ってくれるメシアでした。このとき、群衆はイエスを王にする心づもりでいましたが、イエスは王になるために来たのではなく、彼がそれを拒絶したことで、人々は大いに失望したでしょう。群衆には群衆の期待があり、その期待が応えられなかったとき、多くの人がイエスから目を背けたことでしょう。イエスは、彼らの狭く、世的な期待よりずっと多くのことをするために来られましたが、彼らはそれを理解できませんでした。
すべての被造物の主
奇跡的な給食のあと、船に乗るよう、イエスは弟子たちにお命じになりました(マタ14:22)。彼らを暴力と圧力から遠ざけたいと思われたからです。良い教師は、対処する準備のできていないことから教え子たちを守ります。「イエスは、弟子たちをお呼びになって、民衆を解散させるためにわたしは残るから、あなたがたは舟に乗ってすぐカペナウムヘもどりなさいと命じられる。……彼らはこの手配に抗議した。だがイエスは、かつてこれまで彼らに対してとられたことのない権威をもって、いま彼らに語られた。彼らは、これ以上反対することが無益であることを知り、だまって海へ向かった」(『希望への光』863ページ、『各時代の希望』中巻118、119ページ)。
問2
マタイ14:22〜33を読んでください。これらの聖句は、イエスが何者かということと救いの本質について、どのようなことを明らかにしていますか。
顕現の瞬間は、恐れる弟子たちが、自分たちに向かってだれが水の上を歩いて来るのだろうかと、いぶかしがっているときに訪れました。イエスは彼らに、「安心しなさい。わたしだ」(マタ14:27)とおっしゃっています。この「わたしだ」という言葉は、「わたしはある」という意味のギリシア語「エゴーエイミ」を訳したもので、これは神御自身の名前です(出3:14も参照)。
聖書は、あらゆる自然を支配される主を繰り返し記しています。例えば、詩編104編は、神が創造主であるばかりか、支え主でもあり、世界が存在し続け、自然の法則が働くのは彼の力によることを示しています。そこには、この世界を造ってそのまま放置した理神論の神をほのめかすものは何もありません。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、私たちはみな、海を静められたのと同じ主の支える力のおかげで存在し続けています(ヘブ1:3も参照)。
「主よ、助けてください」(マタ14:30)というペトロの叫びは、私たちの叫びとなる必要があります。主イエスが私たちを救わなければ、だれが救うでしょうか。あの状況でのペトロの無力さは、堕落したこの世が投げつけてくるものの前で私たち自身が感じる無力さを反映しています。
偽善者の心
問3
「主は言われた。『この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ』」(イザ29:13)。ここで主は古代イスラエルに向かって語っておられますが、今日の教会にとってどんなメッセージがここにはありますか。主が彼らに警告しておられる二つの大きな問題は何ですか。同じことをしないために、私たちはどうしたらよいのでしょうか。
イザヤがこれらの言葉を記してから何世紀もあとに、イエスは宗教指導者たちとの論争の中でそれを引用なさっています。
問4
マタイ15:1〜20を読んでください。ここでの具体的な問題は何ですか。イエスはその問題に、どう対処しておられますか。
イエスはカファルナウムに戻られたあとのある時点で、何が人を汚すのかということに関して、ユダヤ人の教師たちと議論を始められます。教師たちは、外面的な汚れに関するさまざまな種類の規定を律法に加えてきました。例えば、ある決まった方法で手を洗わなければならない、といったものです。しかし、イエスの弟子たちはこの規定に煩わされており、エルサレムから来た律法学者やファリサイ派の人々がそれを指摘したとき、イエスはあのように返事をなさいました。
要するにイエスは、だれにとっても簡単にわなとなるもの、偽善を強く非難しておられます。ある時点でこの罪を犯したことのない人、ある行為のことでだれかを(言葉や心の中で)非難したことのない人がいるでしょうか。同じことやもっと悪いことをあなたはしたことがある(あるいは、している)にもかかわらずです。気をつけないと、私たちはみな、自分の欠点は見えないのに、他人の欠点は見えてしまう傾向があります。それゆえ、私たちはだれもが簡単に偽善者になってしまいます。
食卓から落ちるパンくず
イエスは同胞のユダヤ人に食べ物を与え、いやしを与え、説教したあと、大胆な決断をなさいます。ユダヤ人の地域を離れて、外国人、つまり異邦人の地方に入られました。
マタイ15:21〜28を読んでください。いろいろな意味で、これは簡単に読める物語ではありません。なぜなら私たちには、声の調子や顔の表情などの手助けがないからです。最初、イエスはこの女性を無視なさったようで、やがて彼女に話しかけられますが、その言葉は非常に手厳しく聞こえます。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(マタ15:26)。
もしあなたがこのような接し方を試したら、どうなるでしょうか。だれかが、あなたのポテトチップスを少しいただけませんかと尋ねてきたときに、「私のチップスを犬にやってはいけない」と答えた場合です。友だちを作る方法とは、とても言えないのではありませんか。
しかし、ここで考えてみたいことがいくつかあります。
第一に、この頃、ユダヤ人が異邦人のことを犬と呼んでいたのは事実で、それは、多くの汚らしい犬が通りを走っている様子を連想させます。しかし、イエスがここで使っておられるのはもっと愛情のこもったギリシア語(「小犬」または「子犬」)で、それは、家で飼われ、食卓から餌をもらう犬を連想させるのです。
第二に、このカナンの女性はイエスを「ダビデの子」と呼んでいます。これは、イエスがユダヤ人であることを彼女が十分承知していたことを示しています。優れた教師のように、イエスは彼女と対話し、たぶん彼女を試しておられます。
第三に、この女性は上流階級のギリシア人で、「ティルス近辺に住む貧しいユダヤ人たちのものであったパンを日常的に取り上げていた」(『マタイによる福音書——社会修辞学的注釈』417ページ、英文)階級の一員だったようです。「今や……イエスはその力関係を逆転している。なぜなら、イエスが提供する『パン』は、第一にイスラエルのものだからだ。……この『ギリシア人』は、あちこちを旅する1人のユダヤ人から助けを乞い求めなければならないのである」(同)。
ここは理解しやすい箇所ではないものの、私たちはイエスを信用しなければなりません。この女性と会話することによって、イエスは〔ヤコブの〕井戸の女に与えたように、彼女に名誉を授けました。女性は、娘がいやされるという約束を得、「ダビデの子」に対する信仰を燃やされて去って行きました。
異邦人の主
問5
マタイ15:29〜39を読み、同14:13〜21と比較してください。二つの物語の間には、どのような類似点と相違点がありますか。
多くの人は、福音書の中に群衆への給食物語が二つあることに気づいていません。一つはユダヤ人への給食、もう一つは異邦人への給食です。いずれの場合にも、イエスは人々に「憐れみ」を抱いておられます。
何千人という異邦人が出かけて来て、この若いラビによって教えられ、愛され、食事を与えられるところを想像してみてください。なんとすばらしい様子でしょうか。今日、私たちは福音の普遍性を振り返り、理解している(何しろ、今この文章を読んでいるほとんどの人がユダヤ人ではない)ので、このようなことがユダヤ人にとっても異邦人にとっても、どれほど信じがたく、意外に思えたに違いないかを簡単に見逃してしまいます。疑いようもなく、イエスはあらゆる人をぬるま湯に浸かったような状態から引き出していました。
しかし、地球上のすべての人をイエスに引きつけることは、常に神の御計画でした。ヘブライ語聖書の中の驚くべき1節が、この真理を証明しています——「イスラエルの人々よ。わたしにとってお前たちはクシュの人々と変わりがないではないかと主は言われる。わたしはイスラエルをエジプトの地から/ペリシテ人をカフトルから/アラム人をキルから、導き上ったではないか」(アモ9:7)。
神はここで何を言われているのでしょうか。神は、イスラエル人の事柄だけでなく、すべての人の事柄に興味を持っておられるということでしょうか。神はペリシテ人に関心を寄せておられるということでしょうか。注意深く読めば、旧約聖書の中にこの真理は繰り返し出てきます。しかし、何世紀もの間に曖昧になってしまったため、新約聖書の教会が形成された頃には、新しい信者の多くがこの基本的な聖書の真理を学ぶ必要がありました。
問6
ローマ4:1〜12を読んでください。福音とその普遍性は、これらの聖句の中でどのように捉えられていますか。
さらなる研究
1人のクリスチャンが世俗の学校の学生たちに、神の存在について話していました。一般的な論法をすべて用いたあと、彼は異なるアプローチの仕方で語りかけました。「あのね、ぼくが君たちと同じぐらいの年頃で、神を信じていなかったとき、時折何かが、神は本当に存在するかもしれないと、ぼくに思わせようとすると、いつもぼくはその思いを心の外に追い出したんです。なぜだかわかりますか。もし神が本当に存在したら、自分の生き方を振り返ってみて、ぼくはひどく困ったことになるぞ、と何かがぼくに語りかけたからなんです」
その場の雰囲気がたちまち変わりました。何十人もの良心が、一斉に彼らを苦しめ始めたのです。急に気まずくなった顔の裏側で起こっている摩擦のために、部屋の温度が上がったかのようでした。彼は明らかに心を捉えたのです。クリスチャンでないこの学生たちは、たぶん十戒にはあまり関心がなかったでしょう。それにもかかわらず、彼らは、自分の生き方が道徳的にまったく正しくないし、もし神がおられるなら、自分は責任を取らなければならないことがたくさんある、と感じたのです。
しかし、神の道徳的基準に最も調和している必要のある私たちクリスチャンは、高潔な神の存在を突きつけられたとき、気まずくなる必要はありません。福音の約束があるからです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、自分の罪深さを突きつけられたとき、私たちは「律法の行いによるのではなく」(ロマ3:28)、信仰によって与えられるキリストの義の中に逃げ込むことができます。私たちが自分の罪を激しく自覚するとき、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ロマ8:1)という約束を自分のものとして要求できます。ユダヤ人か、異邦人かは、重要ではありません。「年齢、地位、国籍、宗教上の特権などの区別なく、だれでもみな神のもとにきて生きるように招かれている」(『希望への光』880ページ、『各時代の希望』中巻164ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2016年2期『マタイによる福音書』からの抜粋です。